三十、目映い - 二




桜子と竹谷が吊り橋の入り口付近で待機を開始してから少し後に、善法寺と乱太郎がやってきた。
二人は上機嫌のようだった。
「しっかり巻いてもきーつすぎず……」
声を揃えて楽しそうに歌う二人に、桜子と竹谷は思わず頬を緩めた。
このまま何事もなく済んでほしいと思いながら、息を殺す。
善法寺が吊り橋の前で立ち止まった。彼は真面目な顔で乱太郎に向き直った。
「乱太郎!」
「はい! 善法寺伊作先輩!」
「僕が思うに、ここが一番の難関だ……」
善法寺は、ちらりと吊り橋を見た。
乱太郎も同じように目を遣って、ごくりと喉を鳴らした。大きな丸眼鏡の奥で、可愛らしい目が緊張に震える。
「今まで以上に自分を信じて、心してかかろう……!」
「わかりました!」
二人は、吊り橋へ揃って向き直り、ぴんと背筋を伸ばした。
桜子と竹谷は、いつでも飛び出せるように身構える。
大きさの違う足音が吊り橋を渡り始めた。幸運なことに風は無い。二人は緊張した様子で、橋の真ん中付近まで歩を進めた。
不意に、二人の目の前を小鳥が飛び去った。桜子たちの足に力が入る。しかし二人は少々驚いたものの、気を取り直してしっかりと足を踏み出した。不運が形を成す前に、なんとか持ちこたえたのだ。桜子たちは軽く息を吐き出した。
今日は本当に何も起こらず平和かもしれない。そんな考えがうっすらと四人の頭をよぎった。
そのときだ。
大きな猛禽類が、凄まじい速さで再び二人の目の前を通り過ぎた。
「うわあっ!」
これには相当驚かされたらしく、乱太郎が大勢を崩した。
吊り橋が揺れる。善法寺が慌てて手を伸ばした。桜子と竹谷はほぼ同時に、茂みから飛び出した。
しかし、乱太郎は吊り橋の両脇に張られている縄に寄りかかっただけだった。縄が切れる様子も、吊り橋が落ちる様子もない。
桜子と竹谷は、善法寺が深く安堵の息を吐いている間に、慌てて傍の木の上へ退避した。息を詰めて二人を見守る。
二人はその後、何事もなく吊り橋を渡り終えた。
桜子は竹谷と共に、深い息を吐いた。体中から力が抜けていく。
「びっくりした……」
「危なかった……! 善法寺先輩に気づかれてなきゃいいんだが」
「そうだね。伊作先輩、特にこちらを気にした様子もなかったから、大丈夫と思うんだけど」
「まあでも、何事もなくてよかったよなあ」
竹谷は二人の去った方を見て笑った。
お日様を思わせる笑みだった。桜子はつられるように微笑する。
「私たちも行こう」
「そうだな。難関を越えた直後に人は最も油断するというし」
竹谷が音を立てずに木から降りた。桜子もそれに続く。
二人はそのまま、吊り橋まで駆けた。木板の上を静かに走る。
橋の中央付近で、桜子は不意に、己の体が傾くのを感じた。
「へ」
足元から板の感触が消える。体が大きく沈んだ。視界の端にロープが映る。
(縄の結び目が解けてる!)
彼女が状況を把握した頃には、二人は宙へと滑り落ちていた。
背負っていた反物の入っている風呂敷がささくれだった板に引っかかって、桜子の落下は一瞬止まるが、布はすぐに解けてしまった。
一瞬の後、全身を痛みと冷たい水とが包み込む。川面に打ち付けられたからだが痛んだが、気にしてはいられなかった。
着衣したままの水泳は、すでに教わり会得していた。桜子は水面に顔を出して岸を確かめる。流れがそれほど急でないのが幸いした。桜子は岸を目指して、水を蹴った。
桜子は立ち上がる。水を吸った小袖が、彼女を水へと引っ張った。
足を引きずるように陸へ歩く桜子の手を、同じようにびしょ濡れの手が引っ張った。
岸へ上がった勢いのまま、桜子はその場へへたり込んだ。隣で、同じく勢いを殺し切れずに竹谷が尻餅をついた。平和な川のせせらぎに荒い息の音が混ざる。
ややあって、二人の元へ足音が走ってくる。
「大丈夫か?!」
桜子はへたり込んだまま、食満を見上げた。
「乱太郎のもたれたところから……縄の結び目が解けていました……」
食満は、拾ってきた桜子の反物を片手に目を瞬いた。いつでも強い光が宿っている黒の眼が、ゆっくり動いて遠くを見つめる。
「それは……不運、だな……」
桜子の喉からは、乾いた笑いすら出てこない。
食満は、桜子に目を戻したが、今度はさっと顔をそむけた。
「というか桜子、その、すまないが着物がだな」
「あ、すみません。直します」
「うわっ!」
食満の方を向いていた桜子の後ろで、竹谷が叫び声を上げた。
桜子ははだけた衿を直しながら、竹谷を振り返った。竹谷は桜子に背を向けて座っている。灰色の髪からは、水滴がとめどなく砂利の上へ落ちていた。
「八左ヱ門?」
「ごごごごめん桜子! その、さっきは必死だったから!」
竹谷はほとんど叫ぶように言った。ちらりと髪からのぞく耳が赤い。
桜子は眉尻を下げた。色の授業で感覚が麻痺してしまっている。
「八左ヱ門が謝ることないよ。私の方こそ、気が回らなくてごめんなさい」
「いや俺の方こそ!!」
未だこちらを向かない竹谷の髪から、雫がぽたぽた落ちる。
桜子はふと思いついた。
(私のは濡れてしまったし……先輩から借りられないかな)
桜子は立ち上がって食満の方を向いた。
食満は片眉を上げ少々呆れたような顔で竹谷を見ていたが、桜子のもの言いたげな視線に気づいて首を傾げた。
「どうした?」
そう言って笑ってから、彼はあ、と声を上げた。手にしていた布を、食満は桜子へ差し出した。
「そこに落ちてたのが見えたんで、拾っておいた」
「あ!」
桜子はふろしきを受け取って、「ありがとうございます」と頭を下げた。食満はいや、と笑う。その目が律儀だなと語っていた。
「川に落ちなくて良かったな」
「はい」
次の教養の授業で使う予定の反物だった。幸いなことに、反物を包んでいた風呂敷以外は破れていなかった。
桜子はふろしきから生地を一反取り出した。振り返る。
竹谷は背を向けたままだった。川の上流の方を、ぼうっと眺めているようだった。
桜子は彼に近づいて、その後ろへ座った。
竹谷の肩が揺れるのと、桜子がその頭にふわりと布地を被せるのはほとんど同時だった。
竹谷がますます驚いた。
「桜子?! ってこれ、反物?」
「うん。私が持っている手拭いはびしょびしょだから、これしかなくて」
布越しに、水気をたっぷり含んでしまった髪へ手を滑らせる。硬い。くのたまの友人たちの髪と違う。
灰色の髪を布で包み込んで、丁寧に揉む。
(少しは水気取れたかな)
桜子が灰色の硬い髪に再び触れたときだった。
彼女の視界が不意に何かに奪われた。驚いて肩を揺らした桜子の頭に、大きな手が置かれる。背後でその手の主が屈んだのが分かった。
武骨な手のひらが、その手のたくましさからは考えられない程優しく、桜子の髪に触れる。
食満は無言だった。
桜子の前で、竹谷がそっと振り返る気配がした。
視界が遮られたまま、桜子はおずおずと食満を呼んだ。
「留三郎先輩?」
彼女が名を呼んでから少しの間、手のひらは桜子の頭を撫でるように拭いていたが、やがてぴたりと静止した。
それから少しして、食満はようやく口を開いた。
「あ、ああ」
その声はどこか怪訝そうだった。一度探すように言葉を切って、食満は再び口を開いた。
「あー、桜子も濡れてしまっているのは同じだろう。ちゃんと拭かないと風邪を引くぞ」
桜子の頭を手拭いがわしゃわしゃと拭く。桜子は急に犬猫になった気持ちになった。
肩をすぼめる桜子の、手拭いの隙間から見えるまろい頬を、食満はじっと見下ろしていた。



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