「おっと、失礼」
早足の男性とすんでのところですれ違う。イオは辺りを見渡した。
ロンドンに比べれば遥かに小さいが、活気のある町だった。艶のある毛並みの馬が蹄を鳴らして闊歩し、子供たちが甲高い声を上げながら街角へ駆けていく。朝食のベーコンエッグがこんがりと焼ける匂いや、朝帰りの酔っ払いから漂うアルコール臭も、他の町と変わらない。
しかし、どこか灰色だ。一度入ったきり、二度と町の外へ出してくれなくなった外壁といい、異変が起こっていることは確かだった。
「イオくん」
後ろを振り返ると、リナリーが手を振りながらこちらへ駆けてくるのが見えた。二つに結われた綺麗な髪が揺れる。
「リナリー、どう?ㅤ町の様子」
「至って普通の朝、という感じではあるけど……」
「うん。なんだか変な感じ、するよね」
イオはリナリーの後を引き継いだ。リナリーは頷く。
「可能性として、レベル2の悪魔の能力もありえるよね。そうだとしたらこの力」
「うん。かなり厄介な相手と見て間違いなさそうね」
イオの背で、神から授かった気配が蠢く。思わずため息を吐いた。リナリーがこちらを見上げた。
「どうしたの?」
「いやー、おれじゃなくて、神田とかが来た方が良かったかなーって」
リナリーの美しい山形をした眉がきりと吊り上がるのを見て、イオは尻すぼみになった。
もう長い付き合いになる。リナリーがイオの言わんとするところを察知したように、イオもリナリーが何を言おうとしているのかすぐに見当がついた。
「そうやって卑下しないで、イオくん」
「ごめん」
「私は、私が凄いと思っている人を貶されたくないの。誰にも」
こちらを見上げる、目尻の少し吊り上がった深い海のようなグリーントルマリンの瞳に、イオの言葉も息も喉の奥へ引っ込んだ。大袈裟に動いてみせる心臓を、辟易しながら抑える。
「ありがと、リナリー」
この町の怪異の原因を探すのに、三人で纏まっていては時間がかかりすぎる。
アレンとリナリーと別れて、イオは調査書にあった酒場を探すことにした。まだ町に入って一日目なので実際に街全体の時が巻き戻っているのかは確認できない。確かな証言があった酒屋を探しておいて損は無いだろう。
レンガ造りの建物が並ぶのを眺めながら、石畳をブーツで叩く。団服の裾がひらりひらりと揺れる。
ここはイギリスですと大きな文字で書かれたような町並みも、肘から袖にかけてゆったりと広がった中華風アレンジの団服も、どちらもイオにとって心落ち着くものだった。
ふとした瞬間にかげろうのように現れる疑問がイオの中でまた鎌首を擡(もた)げる。
(おれは一体、何者なんだろ)
問い正そうにも、教団にやってくる少し前まで己を追い詰めると、いつもその先は切り立った崖なのだ。落ちてみたところで、その先には底無しの闇しかない。
「……記憶喪失はね、ボクもへブラスカにも、どうすることもできない」
コムイの、びっくりするほど静かで誠実な声を思い出す。
こればかりは、どうしようもないのだ。