死に化粧
鹿乃はムーンフィッシュを見上げた。脱獄の後、両腕の拘束具は外すことができなかったようだ。ひょろりと背の高い歯茎を剥き出しにした男の眼は、衣装で見えない。表向き、鹿乃はムーンフィッシュと組んで、標的外の生徒を生死問わず足止めすることとなっている。
「よろしくね」
ムーンフィッシュの眼が服の下で鹿乃を見たのがわかる。仕事、仕事……と譫言のような独り言が続く。静かな瞳でただ見つめる鹿乃の脳裏には、荼毘の声が蘇っていた。
「表向きはペア扱いだが、実質監視役だ。奴の担当地点には目標が来る可能性高いからな」
あのイカレ野郎が万一爆豪の肉片を見たいとか言い出したら止めてくれ。薄暗い酒場で、鹿乃はわかったと頷いたのだった。
落ち着かなさげに体を揺らすムーンフィッシュの様子を見て、つい先程到着したMr.コンプレスが仮面の奥で苦笑した。冗談まじりの声が咎める。
「ムーンフィッシュ、お前肉片好きが高じて鹿乃ちゃんのこと切るんじゃないよ」
「わかってる……仕事するよ……」
口の端からだらりと唾液が滴る。絡みつくような殺気に、本能的に全身が粟立つ。
ムーンフィッシュがこちらへ牙を剥くのであれば、それも良かった。標的に傷をつけるより遥かに良い。鹿乃が傷つけば、鹿乃の個性の発動条件も自然と満ちる。
月光に鋭利なムーンフィッシュの歯刃をぼんやり見上げる鹿乃の腕を、華奢な手が引っ張った。
トガはカーディガンの両腕で、ぎゅっと鹿乃の腕を抱き込んだ。
「鹿乃ちゃんこっち。まだ今はペアでいる必要無いです」
「あと一人?」
「うん。あ、そうだ!」
トガは睫毛の長いきらきらした目で鹿乃を見つめた。
「鹿乃ちゃんの個性見てみたいです! 私まだ一回も見たことない!」
Mr.コンプレスが手を叩いた。
「それは良い! あーいや、楽しみにとっておきたい気もするが……」
鹿乃は少し考えてからうんと頷いた。
「Mr.は私と持ち場が近いし、見てもらった方がいいね」
「確かにな、うん」
Mr.が頷いたのを見て、鹿乃は一切の躊躇なく自分の手首に爪を立てた。ぷつっと爪が皮膚に食い込む。「お、おい?!」トゥワイスがびっくり仰天と言った様子で声を上げる。
「私の個性には発動条件があって」
鹿乃の手首に真っ赤な血が浮き上がって、つうと白い肌を伝った。
「血を見ないといけない。自分のでも、他人のでもいい」
淡い若草色の髪がふわりと揺れる。鹿乃の耳の後ろの髪が盛り上がって、中から何かが顔を出した。
「……これはこれは!」
木の枝のようにするすると伸びて枝分かれした美しく逞しい鹿の角を、鹿乃はそっと撫でた。
「私の個性は<鹿>で、この通り、角も生えるし鹿っぽいことなら大体なんでもできるの。それから」
鹿乃の体が蛍の光のように淡く輝いた。彼女の形がみるみる変わっていく。
すごいすごい! トガが無垢な歓声を上げた。
「普通と色は違うけど、鹿そのものにもなれる」
淡い若草色をした鹿が、彼らの前にそのしなやかな体躯を露わにした。
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トゥワイスは絶句した。ひゅ、ひゅと呼吸音が彼のところまで聞こえてくる。白いワンピースの腹部は赤黒い。森の焼ける匂いに、鉄の香りが溶けていく。
「……こっち来い。派手にやられたな」
荼毘が低い声で静かに言う。
相手はヒーローの金の卵たちだ。無傷で終わるとは思っていなかった。
しかし彼女だと思ってもいなかった。
荼毘は彼女の背後へ目を滑らせた。ムーンフィッシュの姿が無い。ムーンフィッシュは凶悪な死刑囚だが、監視役といえ仲間を半殺しにするほど愚かではないはずだ。応答もなかった。やられたか。
鹿乃の呼吸は痛々しく耳に届いた。激痛が彼女の双眸に刃物のような光を引き出している。それがぞっとするほど綺麗に見える頭のいかれた人間は、恐らく荼毘だけではないだろう。
鹿乃は片足を引きずっていた。なめらかで逞しい鹿の角は片方が根元から折れている。
「鹿乃ちゃん、これたぶんあばら折れてます」
トガは鹿乃に寄り添った。表情に浮かぶ戸惑いの色と恍惚の色と、どちらも本物だろう。
「お腹、誰にやられたの? 角も、顔も唇も」
「助けられなかった」
ムーンフィッシュ、と紫色の唇で絞り出すように吐き出して鹿乃は咳き込む。血が彼女の手のひらに飛び散る。血反吐混じりの掠れた声にトガがぞくぞくしているのが、トゥワイスにはわかった。
少なからず、自分も同じ感覚を持ったからだ。
荼毘は静かな翡翠の瞳で鹿乃を見ている。
「他は待ってられないな。鹿乃が死ぬ。Mr.が着き次第帰還だ」
「そりゃ当初の予定通りじゃねーか! 予定と違うぞ!」
