「三藤さん、さっきはおおきにな」
カゴはあんまり自然に手の中から滑り出ていった。包帯の巻かれていない方の手の下でボールが小さく揺れている。その整った横顔には、夕日の影が差していた。
手の中に確かにあったはずのカゴが突如消えてしまったことを、もう頭のてっぺんからつま先まで疲れ切っている私は少しの間うまく飲み込めなかった。白石くんと目が合ってからやっと頭の歯車が回り出す。
「ありがとう! あ、遠山くん、無事見つかってよかったよ」
白石くんは唇に微笑みを滲ませた。初日からへとへとなのはすっかり筒抜けな気がする。
「あの、ご飯食べたら回復すると思う、きっと」
ぐっと拳を握ってみたけれど、何に対する言い訳なんだろう。
盗み見た白石くんは、微笑ましいと語る顔をしていた。呆れられていると感じるものより、よっぽど嬉しい表情だ。
「ゆっくり休んでや。一日目、おかげさまで助かったで」
「……ありがとう!」
心からの言葉だった。
白石くんは肩を少し持ち上げて*の汗を拭った。クールダウンが終わって本当にすぐ来てくれたみたいだった。
横顔の向こうで、コートの照明が点滅し始めた。夕食の後には少しやることがある。遠山くんの試合、間に合うといいなあ。
「金ちゃん練習えらい張り切っててな」
白石くんの口に上ったのは、丁度遠山くんのことだった。
「三藤さんと話してきた、夜が楽しみやーって目ぇキラキラさせとってん」
黒い瞳は黒曜石みたいに澄んでいるのに、柔らかかった。目といい声といい、白石くんの人柄がそっくり表れているみたいに感じる。
「そっか! なんか私も嬉しい」
汗で滑るもう一個のカゴの取っ手を持ち直す。ボールのぶつかり合う音がする。
「越前くんと試合したいーって話をしてたの。そのときも目、キラキラしてたなー」
「金ちゃん全部顔に出てまうからな」
そう言う白石くんの笑顔が優しい。
遠山くんの、最後に見せたとびきりの笑顔を思い出す。
「遠山くんの目がきらきらしてるのを見ると、今すぐ好きなこと思いっきりやりたいって気持ちになるよね!」
「お、ええ表現やなあ。俺も無性にテニスしたくなるねん」
「太陽みたいな子だよね。うん。遠山くんもうちの太一ちゃんくらいの大物の予感」
「太一ちゃん? ああ! マネージャー係におったな」
「そうそう! 太一ちゃんは大物なんだよ」
「へえー、せやけどウチの金ちゃんも相当な大物やで?」
「なんの、太一ちゃんもなかなかですよ?」
太一ちゃんは私の中で越前くんをもしのぐ大物なのだ。
胸を張って白石くんを見上げる。目が合った白石くんは、可笑しそうに笑った。
「親バカ同士の自慢大会みたいやな」
「そだね」
そんな調子でボールを運んでいたら、喜多くんにまだまだ元気そうですね、とコートに掛けるブラシを託された。ウチの後輩は大物揃いだ。
合宿中、料理はなんと跡部くんのところの料理人さんがやってくれるのだという。後片付けは選手もマネージャー係も入り混じって交代で行うのだけれど、それにしても本当にありがたい。
幸せの黄色に光るたまごの上に、真っ赤に熟れたトマトの色のソースがとろりと落ちたオムライスは、見ただけでも口の中に味がじゅわっと広がるもので、実際に本当に美味しかった。
初日だけはコックさん達も片付けを一緒にやってくれる。どこに何を片付けたらいいのかをマネージャー係が教わって、それをローテーションの中で部員たちにも伝えるのだ。ローテーションとメンバーは、先生が考えてくれるらしい。
お皿洗いを終えて、一通り説明を聞きながら食器を片付ける。テーブル拭こうと思ったら、手塚くんたちが拭き終わったとふきんを渡してくれた。
「やってくれたの?! ありがとう!」
「疲れているのはお互い様だ」
手塚くんは静かに首を振った。その隣で大石くんが頷く。そういうことだ、と言ったのは我らが山吹の部長健太郎で、隣でキヨがにこっと笑った。堀尾くんが感激に咽び泣く。
おかげさまで少し早めに自由時間へ突入できた。健太郎にトランプに誘われたけれど、私には、早速やることがある。
堀尾くんから無事に受け取った地図を片手に廊下を進む。お風呂の用意を持った部員たちと結構すれ違う。もう大浴場の中だったら、また後で出直そう。
この合宿では、一校につき二部屋が用意されている。広めの部屋に布団を自由に敷く方式だ。床はフローリングなのが少しちぐはぐだけれど、その方がいぐさが目に入ったりしなくていいのかもしれない。
立海に割り当てられている二部屋の前まで辿り着いた。
手前のドアをノックする。返事が無い。もう一つの扉を叩くと、ドアノブが音を立ててロックが外れた。
「何か用か?」
「あ、柳くん。こんばんは」
柳くんはまだジャージのままだった。長袖なのに、涼しげな目元のせいか全然暑そうに感じない。
「幸村くん居る? 合宿所の館内マップを返したくて」
柳くんは私が手に持っている厚めの紙を見た。ふむ、と納得したように頷く。櫛のよく通りそうな髪が動きに合わせてさらりと揺れた。一つ一つの動作が綺麗に見える。
「わかった。呼んでこよう」
柳くんがドアの影に引っ込む。そのすぐ後に部屋の奥からぺたぺたと足音が近づいてきた。
「柳ー、誰来てんの?」
てっきり幸村くんかと思ったら、ドアからひょっこり顔を覗かせたのは丸井くんだった。上だけ白地のTシャツに着替えている。丸井くんは私を見てちょっと驚いたように眉を上げた。
「あ、えーと山吹の……」
「三藤和香と申します」
「そうそう」
頷く丸井くんは、忘れていたはずなのに自信溢れる笑顔だ。
丸井くんは、ドアをさらに引いて開けた。入り口のところにもたれた丸井くんの綺麗な菫色の瞳が、くるりと私を見る。
「それで、三藤は何しにここに?」
「俺に館内マップを返しに来てくれたんだよ」
そこでひょっこり丸井くんの後ろから現れたのが、幸村くんだった。幸村くんはにっこり笑う。トレードマークのヘアバンドは外されている。テニスのときに髪が邪魔だからしているんだろうな。
「こんばんは。マップほんとにありがとう!」
「どういたしまして。お役に立てたかい?」
「ものすごくお世話になりました」
これが無かったらそもそも切原くんは見つからなかったし、コートのみんなにスムーズに合流もできなかったと思う。ひょっとしたら、今の時間まで迷子を探し回っていたかもしれない。
借りたときよりちょっとだけよれてしまった地図を、幸村くんに差し出す。
「このご恩は忘れません!」
「あはは、時代劇みたい。気にしないで」
穏やかな微笑も弾けるような笑顔も、どっちも似合う人だ。それでいて、神の子の異名を持つほど強い人だということも納得する雰囲気の持ち主なのだから不思議だった。
「幸村くんが着流しの侍でー、三藤が町娘?」
「では俺は悪党その一といったところか」
いつのまにか戻ってきていた柳くんが言った。
「でも、柳こそ着流しの侍が一番似合うよね」
「私町娘より忍びの者がやりたい」
「えー、それじゃ本末転倒だろぃ」
「そういう丸井は何役なんだい?」
「俺は監督」
「おお、迷いもなくトップの座を」
「いいね、常に上を目指す姿勢」
「なんかちょっと違わない?」
そうかな、と幸村くんは小首を傾げた。テニスの雑誌には書いていないし、試合会場でも見られないような表情だった。