青鳩
行き場のない感情というのはどれほど虚しいものか。薄灰色した曇天は生暖かい風を吹かし磯臭さを埠頭に運ぶ。人気のないこの場所で、泣きじゃくる女児を抱きしめてリゼルグは途方もない空虚感で押しつぶされそうだった。
初めて人を愛するということを教えられたのは、12の時に出会った女性にだった。
彼女はとてもきれいな人だった。自分の足りない物を全て与えてくれるような存在で、次第に敬愛から異性に対する好意に変化した。恋心に対する自覚は早々にあり、彼女に会う度、話す度に愛しさを膨らませいつかこの想いを伝えてたいと考えていたものの、些細な1歩を歩み始める事に臆病になってしまいずるずると気づかれない愛を拗らせるだけだった。
時間の流れは彼が思っていたよりも早く、500年に一度の乱痴気騒ぎの戦いは気づけば終わり、共に戦っていた彼女や仲間達は各々の日常へ戻っていってしまった。
残念ながら彼女は気軽に会えるような距離に住んでいる訳では無いし、連絡先も聞きそびれてしまった。その事を今更後悔しても遅い。
彼女と会えなくなってから早数年。気がつけばもうリゼルグは少年と言えない年齢になってしまった。大人の一員となった彼には懐かしい面子からの集まりの誘いがあった。
もしかしたらあの人も居るかもしれない。
1つの可能性に心踊らせ、リゼルグは指定の場に赴いた。
しかし、現実はフィクションのようにうまくは行かない。甘くはない。臆病で勇気無い者に神は微笑まなかった。
より一層大人の女性として成長した彼女の左手の薬指には、見知らぬ銀色に光ったリングが嵌められていたのを見て、リゼルグは深い谷底に突き落とされた気分になった。
本当に、遅すぎる。ただそれだけ。
彼女は自分とは違う誰かのものになってしまっていた。
その日以降、彼の心にはぽっかりと穴が空いた気分で何をするにしても彼女の姿を思い出し、何をするにしても「なぜあの時、ああしなかったのか」とか「最後に打ち明けていれば」とか自責することばかりしていた。
しかしそれは衝撃の事実が発覚してから数ヶ月位で終わり、後はただひたすら宛先不明の恋慕を持て余すだけだった。
ふわふわとした気分のまま、その日もリゼルグはいつも通り過ごしていたら突然、携帯に着信があった。
発信者は大好きだったあの人の名前。一瞬なぜ彼女は連絡先を知っているのだろうと疑問にしたが、思い返せばあの日心ここに在らずで記憶が曖昧ながら確か連絡を交換していた。しかしなぜ今更、ここまで音沙汰もなかったのに連絡を寄越したのだろうか。
通話ボタンを押しスマートフォンを耳に当てると、息も絶え絶えな女の声が聞こえる。
「どうしたの、何があった?!」
『リゼルグくん、あの、やらかした』
「…!誰にやられたの」
『あなたなら…知って、る筈。ごめんなさい、あまり喋る気力も、ない』
「わかった、もういいから、君は今どこにいるんだ!」
『…私より、娘を、エリオを、助けて。お願いします』
耳をそばだてないと聞こえないくらいの微かな声で、彼女は住所らしき場所を呟きそれ以降うんともすんとも言わなくなった。何度も声を張り上げて話しかけたが返事はない。電話越しの向こうでは、一体何が起きてるのかリゼルグは検討がついた。
最近、あの頃の仲間達やその周囲の人物を攻撃する不届き者の集団が居る。おそらく、彼女はそいつらに襲われたんじゃぁ無いだろうかと考え急ぎで車に飛び乗り情報過多な脳内を整理する。
最後に言った場所はここからそれほど遠くない。彼女の言った娘とはあの、正真正銘、娘か。いつの間に子供を儲けていたのだろう。
一度に沢山のショックな出来事に参りそうになりながら、アクセルを深く踏み込んだ。
到着した目的地は寂れた埠頭だった。
車から降り周囲を見渡すが誰も居ない、ただ子供の鳴き声が響く場所。この声は彼女の言ったエリオという娘かもしれない。
少しばかり走ると、錆び付いたコンテナ群の物陰にそれはもう小さな小さな女の子が座り込み泣きじゃくっていた。
小脇に抱えたぬいぐるみは涙の粒で所々濡れている。
「エリオちゃん…?」
瞳こそ悲しみで伏せられていてよく分からない、けれどそこ以外は全て彼女のクローンのようにそっくりな幼子を見て、リゼルグは直ぐにあの人の娘だと分かり、女児の傍まで歩み寄る。子供は足音に驚き余計身を縮こまらせ涙でいっぱいにした眼でリゼルグを見つめた。
「怯えないで……ボクは、きみのお母さんのお友達。お母さんに言われてここに来たんだ」
「ママ…。ママは、どこですか」
「…ごめんね、それはわからない」
リゼルグの返答に女の子はしゃっくりを小さく繰り返して、再度泣き出してしまう。
彼はそんな様子の子供がとても気の毒で、何も言えずに顔を伏せた。
この子の母はなぜこの場に共にいないのか。あの1本の電話が全ての答えだろう。
おそらく彼女はここでエリオの身を隠させ戦った。今も昔も変わらずの勇敢さならば、いやおそらく母として立ち向かわねばならなくなりその結果がこれだ。
母の存在が必要な年頃だというのに、本当にいたたまれない事になっている。
「大丈夫、泣かないで。ここは酷く寂しい。だから一度ボクの家に来てお母さんを待ってよう。ね?」
暖かな子供の体を抱きしめ、リゼルグは優しくそう言った。少女も頷くことしか出来ず、咽びながら首を縦に振った。
一人ぼっちの姿が、いつかの自分と重なる。彼も昔、両親を憎い仇によって殺められた。だからこそ酷くエリオに同情してしまう。
何としても、彼女の願いを守らないとこの小さな存在はすぐに消えてしまう。今のエリオにはリゼルグしか居ない。
愛したひとの子供なら、尚更守ってやらないといけないと使命感が湧き上がった。
空は刻々と分厚い雲に層を重ねてく。早い事車に戻らねばきっと雨に打たれてしまうだろう。
今出来ることしか考えられない。未来が見えない。唐突に訪れた人生の分岐点に立つことになるとは思いもよらず、こんがらがった頭の中を整理するので精一杯だった。
吹き付ける風は、夏の暑さで蒸せた体のリゼルグを凍えさせた。