つまらない恋の話
8.こんな自分たちだからあれから数ヶ月が過ぎた。俺は再び世界を転戦する日々に戻っていた。異国のコートからまた別の街のコートへ。立て続けトーナメントに挑み続け、汗と緊張が日常を埋め尽くす。その合間に、ふと彼女のことを思い出す。名前。雪の夜、コートでキスをしたあの瞬間から、彼女が恋人として心に深く根付いていた。
俺たちの関係は忙しさの中で不規則に紡がれていた。すれ違う毎日。俺はプロテニスプレイヤーとして、名前は跡部財閥の秘書として、各々に世界各地を飛び回る。連絡はふとした瞬間思い出したように交わされるも、メッセージのやり取りは時に途切れ、時に流れる。会えたかと思えば名前は電話で席を外し、俺はホテルの部屋でついテニスの中継に目を奪われる。どちらも自分のやりたいことに夢中だった。テニスと仕事。それが俺たちの生き方で、そんなお互いを認め合っていた。
ある日、ツアーの合間に俺は日本に戻った。東京の街は春の気配に包まれ、桜の花びらが風に舞っていた。名前と待ち合わせたのは街角の小さなカフェ。店内を覗くとスーツ姿ではなく、薄手のカーディガンを羽織った私服姿の彼女がそこにいた。テーブルに手を添えて窓の外を眺めるその横顔は、優しい目をしていた。
「久しぶり。」
カフェに入り、名前の背中に声をかける。振り返ったその顔がふわりと微笑んだ。
「うん、久しぶり。」
会話は何気ない話題で弾んだ。次の試合のこと、新しいプロジェクトのこと、それぞれの遠征先で見かけた懐っこい野良猫のこと。話は不規則に途切れ、また別の話題に移る。会えない時間を埋めるような、でも決して依存をするわけでもない、そんなあっさりとしたやり取りが二人には丁度よかった。
俺はふと彼女の手を見つめた。細くて白い指。この手が、あの日俺に名刺を差し出して、酷いことを言った俺の胸を押し返して拒絶して、雪の夜に触れることを許してくれた。
名前との日々が、言葉が、胸に蘇る。
「ねえ、名前。」
俺はコーヒーカップを置いて彼女を見た。
「やっぱり、こんな恋愛、つまんない?」
名前は一瞬目を丸くした。
でもすぐに口元に柔らかな笑みが広がる。
「ふふ。つまらないね。リョーマもテニスばかりだし。」
その声は軽やかで、どこか弾んでいた。
俺も笑ってみせた。
「だね。でも、楽しい。」
「うん。」
カフェの窓から、強い風が吹いて桜の花びらが舞い上がるが見えた。俺は名前の手をそっと握った。名前は逃げず、ただ静かにその手を握り返した。
こんな自分たちを笑い飛ばせる。テニスばっかり、仕事ばっかり。そんなつまらない生き方を認め合える。それが、二人の恋愛だった。握った手の温もりに確信を深めた。こんな俺たちだから、恋ができるんだ。
─ つまらない恋の話 〈完〉 ─
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