つまらない恋の話
7.雪の日


名前の「もう会いたくない」という言葉から、数週間が過ぎた。俺はテニスに没頭する日々に戻っていた。いや、元からそうだった。俺はどうせ、テニスばっかだし。コートに立ち、ラケットを握り、ボールを打ち込む。そのリズムに、これでいいと頷く。テニスは俺を肯定してくれる、テニスは俺を裏切らない。でも、胸の奥に空いた大きな穴はなかなか塞がってくれない。


女の人に振られるのは、何度目だろう。
俺なりに大切にしているつもりでも、テニスが一番だとわかるとみんな離れていった。もしかしてこんな気持ちだったのかなと、かつての恋人たちの言葉を思い出す。「つまんない」もしかするとそれは愚痴ではなく、不満でもなく、きっと弱音だった。寂しくて縋ってみたかっただけだったんだ。俺はそれを突きつけられるたびに自分の全部が否定された気持ちになって心を閉ざしてしまっていた。
きっと、ほんの少し甘えてみたかっただけ。ほんの少し、こちらを見て欲しかっただけ。

だからといって自分の放った言葉が戻ることはないし、名前を傷付けてしまったことも変わりない。「仕事じゃない話がしたい」だなんて。軽率だった。明らかに俺が悪かった。悲しそうな名前の目。あれが心に突き刺さったまま抜けない。




跡部財閥のトレーニング施設での練習の日々。あれから何度か、名前の姿を見かけた。跡部さんは度々現れてはコートを見渡し、選手やスタッフに軽やかに声をかけ、颯爽と去っていく。その背後には、いつも名前がいた。スーツ姿で、手帳やタブレットを抱え、完璧な秘書として振る舞う彼女。俺がどれだけあからさまに視線を向けても、もう目が合うことはなかった。今まで都合のいい夢を見ていたかのように、俺と名前の関係は真っさらの白紙に戻っていた。


ある日、東京都に大雪警報が出ていた。
俺は知らずにこの日も跡部財閥の施設を訪ね、室内コートで練習を続けていた。汗が額を伝い、ボールの音がコートに響く。スタッフが何度か「そろそろ帰られた方が…」と声をかけに来たが、俺は気に留めず「もう少し打ってから」と流していた。時計を見ると、閉館まであと3時間。まだ時間はある。ラケットを握り直しサーブのフォームを確認していると、入り口の扉が開く音がした。

先に入ってきたのは跡部さんだった。スーツの上にコートを羽織っていてどこかしかめ面だ。その後ろから名前が続いて入ってきて、落ち着いた表情で首に巻いていた大判のストールを外し、丁寧に畳んで脇に抱えた。俺は顔を上げて視線を送るも、やはり彼女は目を合わせなかった。

「おい、越前。そろそろ切り上げろ。うちのスタッフ困らせんじゃねえ。」

跡部さんの声がコートに響く。俺はラケットを下ろし、眉をひそめた。

「何の話?」
「話聞いてたか? 警報出てんだよ。外見てみろ、雪が積もりだしてる。交通機関が止まるのも時間の問題だ。お前が帰らねえと、ここが閉められねんだよ。」

その言葉を受け、俺は窓に目をやった。確かに、ガラス越しに見える外には雪が静かに積もり始めていた。跡部さんはピシャリとそう言い切ると、スタッフに指示を出し、帰宅を促し始めた。

名前は、コートの端でタブレットを操作しながら、肩にスマホを挟んで電話をかけていた。彼女の表情はいつもより少し硬い。繋がらないのか何度か掛け直しているようだった。電話を切り跡部さんのそばに寄ると、何かを報告する。

「駄目ですね。捕まりません。」
「そうか…仕方ねえな。」

跡部さんはため息をつくと、首を鳴らしてベンチに腰を下ろした。

「お前、明日の予定は?」

その声は俺に向けられていた。ボールを拾いながら俺は答える。

「ここで練習。」
「今日この後は?」
「特にないっすけど。」

跡部さんは考えるように天井に視線を巡らせ、次に俺に目を向けると鼻を鳴らした。

「どれだけ動いたら自主練でそれだけの汗をかくんだ。ボールはもういい。シャワー浴びてこい。」

その口調には呆れと、どこかこちらを気遣う響きがあった。俺は黙って頷きシャワーに向かった。廊下の窓に目をやれば、しんしんと雪が降り続いていた。





シャワーから戻ると、ロビーは静まり返っていた。ガラス張りの壁に囲われたそこには跡部さんと名前だけがいた。跡部さんはソファに座り、足を組んでタブレットを手に何かを確認している。名前はその向かいの席で書類を整理していた。俺に気付くと跡部さんは立ち上がり、窓の外を見ながら冷たく笑った。

「ホワイトクリスマスじゃねーの。」

つられて外を見ればシャワーを浴びている間に更に深く雪が積もっていた。白い夜道が街灯を柔らかく反射している。そうか、今日は12月24日だ。

「お前、予定はないって言ったな?」
「そうだけど。何?冷やかしてんの?」

クリスマスイブ、そして今日は俺の───。こんな日に、やることがテニスだけだなんて全くもって俺らしい。名前を一瞥するも涼しい顔をしているから、忘れていた痛みを思い出す。俺ね、あんなことがなければ本当は今日あんたを誘いたかったんだよ。

「越前。今日はここに泊まってけ。休憩室にベッドがある。そこを使え。」

突然の提案に俺は首を傾げた。跡部さんは構わず続ける。

「こんな雪道で、お前に何かあったら取り返しつかねえからな。タクシーはどこも捕まらねえようだし、うちの車も安全のため退避させてる。こんな天気じゃ、ヘリも飛ばせねえしな。」
「跡部さんたちは?」
「俺たちも道がどうにかなるまでここにいる。とんだ聖夜だな。」

跡部さんは笑っていたが、俺は胸に重いものを感じた。自分が遅くまで残ったせいで跡部さんや名前まで巻き込んでしまった。申し訳なさと、どこか落ち着かない気持ちが混ざり合う。
跡部さんと名前がそれぞれ休憩室に向かい、俺も割り当てられた部屋に入った。シングルベッドと小さなデスクがあるだけのシンプルな部屋。荷物を置いたが、やはりどうにも落ち着かない。眠る気にもなれなくて、俺はポケットにテニスボールを詰め込み、ラケットを手にコートに戻った。



閉館後の室内コートは暗く、非常口の緑の灯りだけが静かに光っていた。照明を上げるのも憚られ、ベンチまで歩いて腰を下ろした。ボールをラケットの面で転がしては軽く跳ね上げる。単調な音がコートの高い天井に響く。雪の降る静かなクリスマスイブ。こんな夜に、こんな場所で、こんなことをしている自分。笑えるほど滑稽だった。



しばらくそうしていると、キイ、と扉が開く音がした。思わず手が止まり、ボールがラケットからぽろりと落ちて床を転がる。薄明かりの中シルエットが現れる。名前だった。
彼女は、スーツではなく、レンタルのウェアに着替えていた。ボールは名前の足元に転がり、彼女はそれを拾い上げるとこちらに近付いてきた。

「ここだと思いました。」
名前は静かな声でそう言ってボールを俺に差し出した。髪は解かれ、嗅ぎ慣れたシャワールームのシャンプーの香りが漂う。暗くてはっきりとは見えないがおそらくメイクも落としていて、その素顔はいつもより幼く無防備に見えた。
俺はボールを受け取りながら、思わず言葉が零れる。

「…それって、俺のこと探してたってこと?」

もう話せないんだと思ってた。もう会いたくないって、名前がそう言ったんじゃん。あれからずっと目も合わなくて、なのに急に、なんだよ。

「お部屋にも伺ったのですが、お留守のようでしたので。でしたら、ここだろうと。」

彼女の声は穏やかだったが、どこか緊張を帯びていた。いろんな気持ちが胸に混ざり合う。

「…なんで。」
声が、思いかけず上擦る。
「俺、酷いこと言ったのに。なんで俺に会いに来てくれたの。」

名前は答えず、黙ってベンチの端に腰を下ろした。肩の触れない距離。でもきっと手を伸ばせば簡単に届いてしまう距離。

「…越前さん、落ち込んでいらしたのですか?」
「え?」
「景吾さんから、そう叱られました。うちの社員のせいで来季ぐずつかれても困るから、ちゃんと清算してこい、と。」

ああ。景吾さん、景吾さん。そうだよね。
名前は跡部さんのことを下の名前で呼ぶ。家族経営らしいからそう呼ぶのは至当であり、彼女に染み付いている慣習だ。でもこんなときにまでその名前を出されると突然に冷静さが戻ってくる。
そう。跡部さんに言われて来ただけ。舞い上がりそうになっていた胸の内がみるみる窄んでいく。

「じゃあ、これは仕事だ。」
「はい、仕事です。」

名前は落ち着いた声でそう答えた。
しばらく沈黙が続いた。コートの静けさの中、非常口の灯りが彼女の横顔をほのかに照らす。俺は意を決して口を開いた。

「…会いたくないって、今でもそう思ってる?」

名前は視線を落とし、手首に溜まるウェアの余った裾を、膝の上で握った。

「わかりません。でも…」

名前は深呼吸をして、ゆっくりと俺の目を見た。

「ちゃんと、仕事じゃない話を、したいと思っておりました。」

名前の瞳は、暗闇の中でも、はっきりと煌めいていた。

「私、期待していました。なんとなく、烏滸がましくも、私と越前さんは似ているのかもしれない、と。だから、越前さんとなら…もしかしたら恋とか、できるのかもしれないなあって…」

名前の声は言葉を選びながら、密やかに響いた。

「私にとって今一番大事なのは仕事です。テニスの現場で越前さんとお話しすることは、私の仕事の内です。でも、そんなつまらない話でも、私はしていて、とても楽しかった。」

俺は息を呑んだ。彼女の言葉が、体の奥にぽっかりと空いた穴を温かく埋めていく。胸が苦しくて、痛くて、俺は名前の目を見た。聞いてほしい。

「…俺、あんたの仕事を否定したかったわけじゃなくてさ。もっと、あんたに俺のこと意識してほしかったってだけで。」
声が、震えた。
「ごめん、ほんとに。」

俺はそっと手を伸ばし、名前の指先に触れた。細くて白くて、冷たい指。彼女は逃げなかった。それに安堵し、次に手の甲をそっと撫でてみる。

「…いえ、私も、逃げていただけでした。」
名前は俺の指先を目で追いながら、そっと続ける。
「こんな私を認めてほしくて、勝手に期待して、勝手に傷付いた気になって、拗ねているだけでした。」

情けない、お互いいつかの、そう、初めて名前の弱さを見たあのときの。ウィンブルドンのコートの先で見せ合った情けない顔で俺たちはまた見つめ合う。名前は今、いつもの秘書の仮面を脱ぎ捨てて、幼く壊れそうな脆さを俺に見せている。俺もまた、とてもスマートとは呼べない、カッコ悪いとこを晒してる。苦笑いをお互い隠さずに見せ合った。



「ねえ、今日ってさ、何の日か知ってる?」

触れる指先をそのままに、名前に問いかける。首を捧げ、名前は答えた。

「クリスマスイブ、ですか?」
「そう。あと、誰かの誕生日。」
「?」
「俺のね。」

俺がそう言うと、名前の目が大きく見開かれた。

「え、そうだったんですか! すみません、存じ上げず…調べればすぐにわかることですのに、失礼しました…」

慌てふためく彼女の表情が、暗闇の中でくるくる変わる。俺は思わず笑ってしまった。いつもスーツをビシッと着こなし、背筋を伸ばして手帳を抱える、凛とした名字名前。でも今のこれはきっと、俺だけに見せる、普通の名字名前。もっと彼女のいろんな顔を知りたい。

「…お誕生日、おめでとうございます。」

名前は気恥ずかしそうに小さく頭を下げた。いつも仕事ですれ違う時の、事務的な会釈とはまるで違う。その仕草が妙に愛おしくて、俺はまた笑ってしまった。

「名前。」

彼女の名前を呼び、顔を覗き込む。

「俺、このままだと誕生日プレゼントももらってないし、来季もぐずついて調子下がるかも。どうする?」
「え…、えっと、」

目に見えて狼狽える名前の手に、俺はしっかりと指を絡めた。

「目、逸らさないで。」
「…っ、」
「俺と、恋愛してほしい。」

名前の瞳が、揺れる。

「私、あの、絶対に仕事ばかりでつまらない、から、」
「お互い様。俺だってテニスばっかだよ。でも、そんなつまんないのも、きっと楽しいよ。」

そっと名前を引き寄せる。彼女の肩が僅かに震える。暗いコートの中、非常口の灯りが彼女の頬を照らす。その唇に、自分の唇を重ねた。
コートでキスなんて、初めてだった。
雪の夜、静かなコートの片隅で、彼女の温もりが俺の心を満たした。




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