つまらない恋の話
エピローグ


マイアミのホテルの一室には街のネオンがカーテンの隙間から差し込み、壁に影を揺らしていた。広いベッドの上、越前リョーマは名字名前に寄り添い、互いの吐息が静かな部屋に溶け合った。ふたりがこうして肌を重ねるのは、たぶん五度目。メッセージと電話のやりとりや試合会場での再会、たまのデートなどを経てゆっくりと築いた関係がここまで深まった。しかし今夜、リョーマの胸には静かな違和感が疼いていた。

名前はわずかに体をそむけ、一方の手で枕を指先が白くなるほど強く握っていた。もう一方の腕は顔にかかり、表情を隠している。彼女の息は静かで、まるで声を出すまいとコントロールしているように見えた。ベッドの上の名前は、いつもこんな調子だ。

最初の夜、リョーマはそれを恥じらいからくるものだと受け取った。緊張しているのかもしれないと、彼女のペースを尊重した。でも、何度機会が訪れても名前の態度は変わらない。明確な拒絶をされることはないし、行為に嫌悪感を持っているわけでもなさそうだった。リョーマの動きに合わせて名前も応えるように体を動かし、確かな反応もみせる。でもどこか感情を押し殺すような様子は、こんなにも近付いたはずなのに、厚い壁が立てられているみたいだった。


「名前…」
リョーマは肘をついて身を起こし、囁いた。彼女はわずかに動いたが、顔にかかる腕を下ろさなかった。どんな顔をしているのか分からなくて不安になる。
「大丈夫…?」
「…はい。」
そう彼女は短く答えた。敬語やめてって言ったのに、これだ。仕事中の秘書のような整った声。こんなに肌が触れているのに、どこか遠い。その距離感が、リョーマの心をざわつかせた。

眉を寄せ、リョーマは焦る気持ちを抑えた。名前が自分から隠れているのは明らかだ。その事実に胸がチクリと痛む。どうしたらその殻を破れるだろう。彼女に届きたい。はやる思いが湧き上がる。

リョーマは手を伸ばし、枕を握る名前の指に触れた。彼女の手は驚いたように跳ね、更に強く握って白いカバーに深い皺が寄った。リョーマは一瞬躊躇うも、そっと彼女の指を解き始めた。

「ねえ」と、低い声が滑り落ちる。
「そんなに力入れなくてもいいじゃん。」

名前の息が一瞬止まる。でも、言葉はない。リョーマは優しく彼女の手を枕から引き剥がす。
次に顔にかけられた腕に手を伸ばした。名前は顔を背けようとしたが、リョーマはその腕を捕まえ、ベッドに下ろした。
「名前、隠れないで。」
ほとんど懇願に近い声が出る。
「…っ、」
「ちゃんと顔見たい。」

名前の目が、リョーマの視線とぶつかる。大きく、揺れる瞳。恐怖か、羞恥か、読めない感情がそこに宿っている。
行き場を失った両の手を居心地悪そうに握り締めているので、リョーマは「こっち」と囁き、名前の腕を自身の背中に導いた。彼女の掌が、おずおずと肌に触れる。彼女の腕を撫で、「ここでいい」と念を押すようにリョーマは言った。名前は凍ったように動かず、細くて白い指を小さく震わすばかりだった。

髪に触れ、鎖骨をなぞり、ゆっくりと体に触れていくと、次第に名前の唇が開いて微かな音が漏れた。しかしすぐに噛み殺すように顎が締まる。口を閉ざし声を吞み込むその表情は、まるで彼女は心がここにないみたいだ。

「…名前。」
リョーマの声が少し荒くなる。苛立ちが、名前への想いから湧く。
「隠さなくていいってば。」
額を彼女に寄せる。お互いの頬に息がかかる。
「全部見せてよ。声も、顔も、全部。」

背中の手がわずかに縮こまり、名前は目を伏せた。思わず名前の肌に触れる手に力が籠もると、突然の強い触れ方に名前は反射的に爪を立てた。でも、唇は固く閉じたまま。リョーマの我慢が切れた。今にも枕に埋まってしまいそうな背けられた顔を捕まえて両手で包むと、深く、口を重ねた。頑固な唇を割り、舌でその奥を探る。すると彼女の喉から押し殺せなかった小さな音が漏れ出た。リョーマは顔を離し、名前の頬を撫でた。
「声、聞かせてよ。お願い。」
もう一度舌を割り入れ、片方の手を下へと這わせた。名前の息が乱れ始め、抑えた小さな喘ぎが溢れた。リョーマはその声に、心臓が握られるような感動にも似た衝撃を受けた。もっと。もっと聞きたい。彼女の体だけじゃなく、信頼が欲しい。何度もキスを落とし、深く絡めた。

手を彼女の腰に滑らせ、そっと引き寄せる。この先を予感し彼女の体は一瞬硬くなったが、背中の指が、押し返すのではなく、縋るように食い込んだ。
「リョーマ…」
名前は弱音を吐くように小さく名前を呼んだ。その声は震え、まるで今にも壊れそうだった。でも、初めての、素の響き。リョーマの体の内側に一層血が巡った。腰をゆっくりと落とし、彼女の中へと埋めた。押し出された甘い吐息が耳をくすぐる。唇を離しても、今度は口を引き結ぶことはなかった。それを見てリョーマは少し安心し、自身の唇を次には耳へ、そして首へと辿らせ、彼女の脈を感じた。揺さぶられ宙に投げ出された名前の手が、癖が付いているかのように再び枕へ伸びそうになって、リョーマはそれを捕まえ、指を絡めた。

「もう隠さないで。」そう彼女の肌に囁く。
「大丈夫。俺に甘えていいよ、名前。」
彼女の息が乱れ、すすり泣きのような小さな喘ぎが漏れた。リョーマの手は優しく、でも確実に、その曲線をなぞる。彼女をここに留めるように。

名前の体は次第に弓なり、抑えていた反応が露わになる。
「リョーマ…っ」
名前がもう一度、はっきりと名前を呼んだ。声は震えるが、強い。縫い付けた両手がきゅっと握り返される。名前は短く悲鳴を上げると波打つように体を震わせた。その痺れが落ち着くのを待ち、動きを緩めてリョーマは名前を見下ろした。薄暗い部屋に、名前の目が涙できらめいていた。

「どうした?」
リョーマは柔らかく問い、親指で涙を拭う。
名前は首を振った。肩で息をし、声を途切れさせながら名前は言った。
「違うの。だって、嬉しくて…」
その涙声にリョーマの胸が締め付けられた。そしてじわりと温もりが広がる。名前はきっと、甘え方を知らないだけ。名前の額にキスを落とし、唇を指でそっとなぞってまた重ねた。名前が過去にどんな恋愛をして、何が彼女をこうさせているのか、リョーマは知らない。でもそれを知りたいのではない。只、いまの、目の前の、自分を選んでくれた名前の、その心を包んでやりたい。リョーマの願いはそれだけだった。
「いいよ。名前の全部、受け止めるよ。」

名前は腕を伸ばし、リョーマの首に回すと強く抱き寄せた。顔を首に埋め、名前の涙がリョーマの肌を濡らす。名前のぎこちなくも確かな抱擁。きっともう隠さない。名前は初めて、枕でもシーツでもなく、リョーマに縋った。リョーマは彼女を腕の中に抱き、艶やかなその髪に指を通した。



マイアミの夜は静かに続き、街の喧騒は遠い。その部屋で、リョーマは名前に愛を伝え、名前はリョーマの温もりに寄りかかることを覚えた。ふたりは体を重ね、心を晒し、互いの居場所を見つけた。つまらない恋も、つまらない自分も、全部受け止める愛に変えて。


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