つまらない恋の話
¬4


冬。今年のプロテニスのツアーの全日程が終了して、選手たちはオフシーズンへと突入した。

越前リョーマと名前の距離はジャパンオープンで近付いたかのように思えたが、ジムで再会した際のたった一言で二人の間に亀裂が走った。「仕事じゃない話がしたい」

今思えば彼の言葉に深い意味はなかったと思う。しかし名前の心を抉るには十分すぎるものだった。"私たちは似ているかもしれない"、"この人とならもしかして"。そう期待した自分が馬鹿に思えた。
名前はあのとき慌てて追いかけてきたリョーマの表情を思い出す。焦っていた。焦って弁解しようとしてくれていた。でも、彼にそんな意図がなかろうと、傷付いてしまったのは事実で、傷付いたのは自分が、こんな自分だからで、もうこれ以上傷付きたくなかった。
名前は「もう会いたくない」そう絞り出して、二人は財閥の社員とサポート対象の選手という関係に戻った。リョーマはそのあとも名前のことを目で追っていたが、名前は頑なにビジネスの距離感を保った。

その二人のあからさまな様子に跡部は気付いていたがしばらくは静観していた。しかし一ヶ月が経ち、相変わらず名前は強情にも一線を引き続け、リョーマは落ち込みを苛立ちに似た感情に変え、朝から晩まで過剰にテニスに没入していた。その様子を遠くから眺め、跡部は眉を顰めた。





師走の多忙を極めたある夜、跡部と名前は、出張でニューヨークにいた。今にも雪が降り出しそうな寒空だった。中心街のホテルで二人はいつものようにベッドで静かに体を重ねていた。行為は、淡々と、しかし熱を帯びて進む。二人の汗に濡れた肌が薄明るい照明に照らされ、スプリングが軋む音が部屋に響いていた。

12月。年末とは大変忙しい時期で、その殺気だった疲労を二人はここにぶつける。
頭では分かっている、恋人ではない相手とこんなことをしている。そしてそれが日常になっている自分たちがどれほど異常か。

互いの欲と孤独と重圧とを吐き出し合うかのような時間。体を重ねるほどに、「心は決して奪い合わない」という歪な固い誓いだけがどうしようもなく膨らんでいく。首が絞まっていくような感覚を二人は少しずつ腹に溜めていた。

こんなことやめなければいけない。その一般常識的なラインを、完璧な人間であろうとする二人の過剰な自尊心が邪魔をした。「こんなことやめよう」「こんなこと間違っているから」などと、簡単に言えるような問題では最早なくなっていたからだ。

二人はこの関係が終わる真っ当な理由を必要としていた。納得のできる、傷を付けない、真っ当な理由。




いつも通り、事が済むと二人はすぐに離れた。甘い余韻などない、淡白な沈黙。
しかし、今夜は、どこかいつもと違った。
跡部は何故かバスルームに直行することなくベッドの端に腰を下ろし、名前もまた散らばる服をまとめ始めるわけでもなく、ベッドに放り出されたまま天井のダウンライトを眺めていた。静寂が漂うの中、跡部が口火を切った。

「お前、あいつと何かあっただろ。」
静かで、探るような声だった。
名前は答えず背中を向けた。跡部はその後ろ姿を見つめ、続けた。
「恋愛事情はどうでもいいが、あいつはうちがサポートする大事な選手だ。誰かのせいで来季のメンタルぐずつかれても面倒だからな。シーズン始まる前に、解決しろよ。」

名前は黙って聞いていたが、渋々頷いた。
「はい。」
その声は小さかったが、いつも通り冷静で仕事の声色だった。
名前はいい加減支度を整えようと、体を起こそうとした。しかし、影が落ち、見上げると跡部が顔を覗き込んでいた。

「動くな。」

跡部は冷たく、低く命じた。その声は必要以上に鋭かった。

突然、跡部の唇が名前の唇に重なった。名前は一瞬目を丸くしたが、すぐに目を閉じキスに応えた。
口付けは深くなり、跡部の手が名前の肩を押し、再びベッドに押し戻した。珍しい。舌の動きを追いながら、名前は跡部の態度に驚いていた。でも、なんとなくそんな気はしていた。いつもなら一度済めば二人はすぐに解散する。しかし今夜は違う。跡部は二度目の主導権を握ろうとしていて、そしてその動きはいつもよりも強引さがあった。

まだ形を覚えている中に跡部は前触れもなく突き立て埋め込んだ。再び訪れた突然の刺激に名前は漏れ出そうな声を必死で抑えた。

これまで体を引き寄せる跡部の手に感情はなかった。抱擁ではなく、あくまで手段としての固定だった。しかし今、跡部は名前を手繰り寄せるように、痛いほどに抱き寄せていた。

この体は自分のものではない。お互いにそう認識していながらも二人はこれまで何度も一線を超えてきた。何よりプライバシーそのものである裸を晒しながら、一切の私情を挟まない。お互いの肉体的な欲を満たすも、心は求めないという暗黙のルールがそこにはあった。

割り切っていた。この関係は完全で、安定さえしていた。しかし、言いようのない、迫り来るゆるやかな限界を二人は日々感じ取っていた。今夜、遂にルールが揺れる。



跡部の動きに名前の体は反射的に震え、眉間に皺を寄せた。跡部の汗が、白い肌に滴り落ちる。顔を覆う腕の隙間から、跡部と断片的に目が合った。跡部は笑っていた。

「これが最後かもな。」

名前は静かに見つめ返した。跡部の動きが、さらに激しくなる。名前はこれまで感じたことのない感情を叩くような衝撃に、唇を噛み締め必死に枕を握り込んでいた。どうしようもなく昇っていく快感の中、最後と言った跡部の言葉が繰り返し響く。

「振られたら戻ってこい。いつでも抱いてやる。」

跡部の声は挑発的だった。
名前は、負けず嫌いだった。跡部から売られた喧嘩を買うかのようにここまで走ってきた。だからこの挑発も、正しく買ってみせる。名前は笑って見せた。

「いつもそんなつもりで、こんなことをしていたのです?」
「バーカ。自惚れてんじゃねえよ。」

吐息を漏らしながら交わした会話はそこで途切れた。跡部の動きが、頂きを追い求めるように激しさを増したからだ。部屋には二人の息遣いだけが響く。名前は熱に浮かされながら、心はどこか遠くにあった。越前リョーマ。「俺と恋愛してほしい」そう言ったあの日の彼の声。名前は目を閉じ、跡部の衝動を受け止めた。この夜が、終わる。



動きが止まった跡部は、そのまま名前の上に倒れ込んだ。しばらくそうして肌を重ね、互いの鼓動を感じていた。

跡部の胸には複雑な思いが渦巻いていた。名字名前。中学時代に出会った負けず嫌いな少女。仕事に欠かせない完璧な秘書。そして数々の夜を受け入れた美しい女性。彼女は、特別だった。
そしてまた、越前リョーマ。彼もまた特別だった。財閥の投資対象。彼の成功が財閥の利益になった。しかしビジネスの枠には納まらない、跡部の個人的な気持ちが、リョーマを大切にする理由の一つだった。青春時代から間近で見てきた彼の才能とテニスに対する情熱、そしてプロとしてのストイックさ。それが跡部自身の純度の高いプライドと競争心に共鳴していた。敬意だ。名前が彼の手を取るならこの関係は終わる。この関係を終わらせるために名前は越前リョーマを選ぶべきだ。他の誰でもなく、彼は特別な人間だから。それが特別な、正しい理由になるから。



名前もまた、自身に重なり息をするこの体温を感じながら思う。リョーマと恋愛をすることになったなら、きっともう跡部は自分に手を出さない。リョーマが、跡部にとって特別だからだ。そして一切の私情をこの関係に持ち込まなかった跡部が、まるで個人的な気持ちを乗せるようにこの体を抱いた。二人の協定をその手で破ったのだ。だから、この夜が、きっと最後。

名前は静かに跡部の背中に手を置いた。






後日、名前はリョーマの恋人になった。恋人と言っても、二人とも多忙な人間だった。リョーマは世界を転戦し、名前は跡部のスケジュールに追われる。会える時間は限られていたが、その距離感が心地よかった。それが二人の恋愛だった。



跡部と名前は、以来、体を求め合うことはなくなった。酒に呑まれそうになった夜も、激務に追われ肩の力を抜きたかった日も、人肌恋しい寒い異国の街を歩く季節も、二人は仕事の外で二人きりになることはなかった。あの夜々のことはまるで初めから存在しなかったかのようだった。思い出話にすら挙がらない、名前のつかない時間。



ある日、プライベートジェットでの移動中、跡部が呟いた。
「俺も、…そろそろちゃんと向き合わねえとな。」
名前は目を上げる。
「恋人ですか?」
跡部が窓の外を見つめ、微かに笑った。

「……許嫁だ。」

その一言に複雑な事情が透けて見える。仕事、それから家の事情。その重圧。きっと一筋縄ではいかないお相手なのだろうと想像がつく。名前は秘書の仮面をほんの少し外し、薄く目を柔らげた。
「景吾さんならきっと、素敵な関係を築けます。」
跡部は鼻で笑い、肩を微かに緩めた。
「当然だ。俺様を誰だと思ってる。」


二人は関係に終止符を打ったことで、以前よりずっと力を抜いて会話ができていた。感情を押し殺す必要がなくなったからだ。
その感情がなんであったか、なぜそうまでして押し殺していたのかは、二人にとって既に過去の話であり、互いに振り返ることはない。

一抹の喪失感は大したことではない。一時の風邪のようなものだ。歪で張り詰めていたあの関係をリョーマが介入したことで区切りをつけることができた、その確かな安堵が二人の胸にはあった。


でもあの頃、仕事ばかりで駆け抜けた日々の中で、互いの心の孤独を埋めたあの時間は二人にとって必要な出来事だった。
否定せず、でももう決して望まず、心の奥に秘めて。跡部は世界を駆け、名前はその後ろを追いかける。これからも、変わらず。



─ つまらない恋の話 〈終〉 ─




≪前 | 次≫
←main