サンダルウッドの情念
54.サンダルウッドの情念



なんとなく、行かなきゃと思った。アメリカに。
そしたら名前はいつもみたいに「そっか」と笑って頷いて。まだ少し明瞭さが足りない頭で、でも確かにいつだって名前は俺に優しかったなと、忘れてたなんて信じられないくらいに体に染み付いていて今この時もその声は俺の背中を押す。誰に言っても驚かせてしまうと思っていたから、それが嫌で誰より初めに名前に伝えた。絶対に名前なら賛成してくれると思ったから。案の定快く受け入れてくれた名前は、それでもどこか寂しそうで、俺も俺が望んだはずなのにどこか胸が苦しくて。思わず後ろ姿を抱きしめた。くらり。懐かしい香りに酔いしれる。言いたいことも聞きたいことも全部有耶無耶にして身体を重ねた。救われているのは俺の方だとつくづく思う。泣かないで欲しいのにきっと言いたいことも飲み込んでそれが俺の為だって分かるから。心がつき動くままに君を抱いて明日日本を発つ飛行機に乗る。







「おはよ。」
これから空港に向かう。よく晴れた朝に玄関をくぐると名前が待っていた。

「びっ、くりした。」
「途中まで一緒に行ってもいい?」
「時間はいいの。これから部活でしょ。」
「大丈夫。ちゃんと逆算してるから。」
「さすがだね。」

じゃあ、ちょっと付き合って。
なんていつもの調子で言いながら俺はただひとめ会えればと思っていたので嬉しくて嬉しくて、心残りは無いと思っていたけれどもしかしたらあったのかもしれないとすら思う。
寺の階段を登る。バッグを下ろしてラケットをひとつ差し出すと名前は呆れたように笑って後ろ髪をまとめた。
早朝の静かな空気にボールの音が響く。
数回ラリーを続けて、名前は言う。
「ちょっと本気で打ってみて。」と。

「本気?」
「うん。思いっきり打って。」
「…怪我しないでよ?」
「大丈夫大丈夫!よし来い!」

とはいえ、なあ。
右手でサーブを打つ。気持ち優しく。案の定名前は不服顔をつくった。

「ちょっと!スライスじゃん!ちゃんとやって!」

なんとかラケットに当てたもののやっぱりギリギリの返球で、これはアウトかな。ボールの行方を目の端にとらえるも刹那、眼光に視線を奪われる。

「リョーマ、お願い。」
ああ。
グリップを厚く握る。その目がずっと好きだったなあ。

名前がこちらを見ている。その目はとても真剣で。いつだって名前は真面目で真摯で誠実だった。ひたむきな名前が大好きだった。俺は名前のアウトボールに追いついてドライブをかける。
名前の絶対絶対届かない、名前じゃなくたってまず届かない、名前の対角、隅の隅、ライン上へ叩き込むとイレギュラーバウンドしたボールは弾まず勢いそのまま地面を駆け抜けて寺の植え込みの中へ吸い込まれていった。
しん、と静まり返ったかのような一瞬の感覚の後に鳥のさえずりで我に帰る。名前は一歩も動けず、呆然とボールの行先を振り向いた。どんな顔をしているんだろう。内心ひやりとしながら次の言葉を待つとパッとこちらに向き直った名前はなんと満遍の笑み。

「はーびっくりしたぁ。」
「…大丈夫?」
「大丈夫も何も。触れなかったよ。本当にリョーマはすごいなあ。」

日が高くなってきた。今日もよく晴れるのだろう。滲んだ汗を肩で拭う。名前は髪を解いた。

「やっぱりテニスって楽しいね。」










コート脇のベンチに並んで座る。名前はラケットの面でボールを転がしてはポロポロと落とすので落ちてはラケットの端で手繰り寄せ足元に集めた。

「全部大事だよ私は。」

ぽつり、ぽつりと名前が言う。

「家族もお寺も、部活も、リョーマも。全部大切。でもきっとどれかなんて選べないし私は全部を諦めない。」

心地いいなと素直に思う。優しい声に耳を傾けた。

「だから、リョーマのことはここで待ってる。」

何回君のこと考えたんだろう。大丈夫だよって変わらないよって俺は胸を張って言えるかな。名前は簡単に越えていく。俺は俺で名前は名前。お互いが好きで大切で、それでいてそれぞれに大切なことがあるってことを分かってる、それがこんなに嬉しい。

「がっかりした?ついて行くって言わなくて。」
「それを言ったらさ、俺だってついてきてって言わなかった。」
「一緒だね。でもそういうところが好き。」
「うん。」
「だからがんばれる、リョーマのおかげで。」
「…置いてく?それ。」

名前の握るラケットを指差す。

「もっと上手くなれって?」

くすくす笑う。もらっちゃっていいの?と言うので頷く。名前はグリップをするりと撫でて空にかざす。それで名前を縛れるとも思っていないしただ思いつきで言っただけ。それなのに名前は泣きそうな顔してあまりに大切そうにそれを見るから。なんだか俺も泣きたくなって目を伏せた。

「はい。あげる。」
「え」

視界に突然入り込んできたそれは赤いフレーム。

「私だと思って、大切に使って。」

握らされたグリップは暖かくてほんのり汗ばんでいた。
名前。
「…あげる、じゃなくてさ、返すじゃないの。」
「あげるの。もらったんだから、私のものだよ。だからあげる。」
「ふ、なにそれ。」
「…ごめん。だってもらえないよ。」
「余計に寂しくなる、とか?」

などと、からかってみたりして。

「そう。」
「…」
「なんてね。リョーマしょっちゅうガット切るじゃん。ダメだよ一本でも多く持っておかないと。」

名前もそうやってからかってくるから。
はあ。

「おいで。」

ラケットを脇に置き名前の背中に腕を回して抱き締める。素直に収まる名前はこちらにも腕を回して瞼を閉じた。その瞼と、それから唇にキスをする。



ああ、夏が終わる。

肩越しの空を見つめてそんなことを思った。


























あれからいくつか季節が過ぎて
吸い込まれるように石階段を登る。
初めて会ったあのときみたいに花が咲いたように鈴を転がしたように君は笑って俺はまた恋に落ちる。
ただいま、おかえり。
柔らかい風が吹き抜けて君の髪を揺らす。
変わらない白檀の香りを追いかけ抱きしめた。




─ サンダルウッドの情念 〈完〉 ─







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