サンダルウッドの情念
53.例えば


神の子。

何もかも。あれ、テニスって、こんなに苦しかったっけ。ああ、だめだ。苦しい、苦しい。

悔しかった。テニスっていつだって悔しかった。毎日負けてた。こないだまで家にいた兄ちゃんも全然相手にしてくれなくて俺をおちょくってばかりで。悔しかった。俺は毎日悔しかった。気付いたときにはテニスをやっていてその初めの日を俺は知らない。
親父が言ってた。テニスをはじめたばかりの頃ってのは無我夢中で疲れも忘れていつの間にか日が暮れるんだって。それが全てだって。確かに俺は毎日そうだけど親父が言うみたいな大袈裟なまるで素敵な体験のような感じはあんまりしなくてキラキラしているどころが随分と、文字通り泥臭い。ただただ負けたくなくてボールを追いかけていた。

「今度は新しい姉ちゃん?」
「?」
「いらない。」
「おいリョーマ!…ごめんな、あいつ最近色々あってな。そうだお嬢ちゃんテニスはやるかい?」
「…やったことない、です。」
「やってみろ。あいつと。」

親父の気まぐれ弾丸旅行で日本へ飛ぶ。親父の知り合いに連れられた女の子。ラケットなんてはじめて触りましたって顔して全然ラリーにならなくて俺はコートの反対側で返ってこないボールをずっと待ってた。額に汗をかいてめちゃくちゃなフォームで走ってる。何度目かも分からない、俺が打った下からのサーブをやっと捉えた彼女の打球は高く高く上がって太陽に重なった。ひょろひょろと、か弱い軌道でこちらのコートに帰ってきて。歩いて落下地点に入ると女の子が声をあげて笑った。笑ったのだ。

「ねえ!本気で打って!」

え?
だって取れないでしょ。サーブも今やっと返せたの。俺が本気で打ったらさアンタ絶対触れないよ。悪いけど俺は毎日負けているけれどアンタには負けないと思う。対面コートを伺う。あ、また笑ってる。
────真剣勝負しようよ!
何度も言ったその言葉が頭をよぎる。
グリップを握り直して渾身の力で振った。打球は対面コートの後方へと消えて行く。それを振り返りワッと歓声を上げて少女は言ったのだ。

「楽しいね。」









楽しい?














そうだ。

「テニスって、楽しいじゃん。」

戻ってくる。
自分が戻ってくる。
感覚が、気持ちが、心が戻ってくる。
俺はテニスが好きで、好きで、好きなんだ。

















全部が終わって胴上げをされる。空が見えて、みんなの顔が見えて、みんなが泣いてて笑ってた。
何かを見た気がする。夢か現実かも分からない、暗い中で何かを見た気がする。けれどもうそれももうどうだっていい。ただ俺の好きな人が胴上げから降りた俺に一目散に飛びついてきたことがこんなに嬉しくて。

俺の原動力は自分だ。自分の心だ。
でも、君が笑ってくれるなら。


「おかえりリョーマ。」


ただいま、名前。









***









「アメリカに行こうと思う。」


帰り道リョーマが突然言った。本当に突然。

「…アメリカ?」
「うん。」
「いつ、」
「わりと早めに。席取れれば明日にでも。」

どうして。





よかったらうち寄ってってよ、と河村先輩が言う。みんな飛び上がって喜んでじゃあこのあと河村寿司集合で!と号令がかかる。

私は備品を戻してから向かいます。そう伝えて大石副部長から部室の鍵を借りた。リョーマは黙って私の手から荷物を取って歩き出した。校舎に着くとひと気がない。当然だ。だって今は夏休み中で、今にも日が暮れそうで。静かな校庭に私とリョーマの足音だけがいやに響いた。いつだって騒がしかった部室もシンとしてやけに広く見える。棚に備品を戻して簡単に整頓をする。リョーマはずっと静かだった。

「お待たせ。帰ろ。」
「…名前。」

呼ばれて足を止めれば背中に温もり。え。腕が絡みついて、舌が絡みついて、重たくて、苦しくて。
ちゃんと顔が見たい。向き合いたくて身を捩ればあれよあれよと壁に追いやられる。キスの雨が降ってきて、服の中に手が、ついさっきまでラケットを握って私たち部員全員の夢を叶えてくれたその手が、私の肌を這う。

「遅れちゃうよ、打ち上げ。」
「いいよ。一緒に怒られよう。」

私は怒られたくないと返す言葉ごと飲み込まれ有耶無耶になる。
きっと私がいなくても多分あなたはあなたでいられるのだろうけれど、私もきっと私でいられるのだろうけれど。
寂しいよ。
ここで「いかないで」なんて言いたくなかった。いつだって私は言いたくなくなかった。あなたが瞼を切ったとき、長い長いタイブレークの中でコートに倒れ込んだとき、五感を失いボールを失いラケットが空を切ったとき。怪我をして、血を流して、足を震わせてコートに立つチームのみんなに、本当はいつだって私は行かないでと言いたかったんだ。
ずるずると崩れるようにもつれるように。床に転がってはリョーマが私を組み敷く。断片的に目が合う。泣いちゃダメだと思うほどに勝手に涙が溢れるから、リョーマはそれを拭って泣かないでと言って私の足を担ぐ。「好きだよ」とリョーマが言う。たくさんの好きを浴びて君とひとつになる。
アメリカ?アメリカってどこ。どれくらい遠いの。ちょっと隣町まで、とでも言うようにあなたは簡単に行くと言う。そりゃそうだ。ほんの半年前まで、なんだったら産まれてからの12年間あちらにいたのだからどちらかといえばリョーマのホームは向こうなのだ。そんなのとっくに。無我のあなたが話す言葉を初めて聞いたとき私は既にわからされていたのに。
少しの時間だったけれど一緒に住ませてくれて、私と付き合ってくれて、部を全国に導いてくれて。ありがとう、…なんて、まだ言いたくないけれど。あなたは柱だ。青学の柱。でも行っちゃうの。そう。
汗が降ってくる。眉をしかめて耐えるような表情のリョーマに、ずっとここにいてよと心の中で叫ぶ。天衣無縫。天女の衣に縫い目がないように、あなたはあなたのままで、それゆえ美しい。前後上下に揺さぶられてじわじわと体の内側から迫り上がる感覚と一緒に熱いものが込み上げる。

「りょ、ま」
「ん?なに?」

しまった。無意識で呼んでしまって口を紡いだ。そしたらほら信じられないくらい優しい目をするんだから。

「なんでもない、」
「なんでもなくないでしょ。言って。」
「、」
「言って、名前。」

行かないで。ここにいてよ。今日も、明日も。これからもずっと。明日も一緒に部活に行こう。お寺のコートで待ち合わせして私だけに笑ってよ。

「……リョーマ、」

それでも私は、やっぱり私は。
言えないから。言いたくないから。

「リョーマ、好きだよ。」


全部全部伝わればいいのにな。伝わらないといいのにな。言葉をまるめて今はただ目先の幸せを。













遅かったじゃねえか!と笑われて、何してたんだよと茶化されて、私もリョーマも何事もなかった顔して打ち上げに溶け込む。河村先輩のお家のお寿司を食べて、盛り上がって、さあ帰るぞと席を立って道に出た。ドン。ドン。どこかで重低音が鳴っていて、「花火だ」と先輩たちが遠くの空を指さす。ドン。ドンドン。花火が丸く空に咲き、少し間を置いて音が響く。どこかでお祭りがあるらしい。歩いて行くにはどうにも現実的ではない向こうの街でドンドンドン。
お疲れ。じゃあな。それぞれの方向へと帰っていく。帰ろ。隣のリョーマを見れば、前を見て、下を見て、音が鳴れば空を振り返り、そのまま減速して歩みを止めた。
授業であったなあ。音速がこれくらい、光速がこれくらい。花火が上がってから音が鳴るまで何秒かかりました。さてここから会場までの距離はどれくらいでしょうか。
あんまり得意じゃない。ただこうしていよいよ終わる夏に思いを馳せながらぼうっと眺めるのは好きだ。綺麗だね。今年の夏は忙しくてお祭りなんて行けなかった。来年私は三年になる。そのころには当然今の三年生たちはもう居なくて海堂くんと桃を中心とした代になる。そこにはリョーマもいて、他の部員のみんなも卒業していった先輩たちに負けないようにたくさん練習してもっと上手になって、そうして青春学園テニス部はきっとまた強くなる。そう思ってた。
重低音が連続で何度も響いて今度は大小たくさんの花火が上がる。長いこと同時に多く上がって、スターマインかな。すごいね。綺麗だね。そう私は言ったけれどリョーマは黙って空を見ていた。これが終わると途端にシンとしてもう次の花火は上がらない。終わっちゃったのかな。ああ。終わっちゃった。








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