伏黒恵
伏黒恵は、一週間前に中学を卒業した。どうやら三月いっぱいは、まだ出身中学の校長の管轄下にあるらしい。卒業したからってハメ外すなよ、怒られるのは俺なんだからな、と冗談めかして言っていた担任の顔を思い出す。
隣の席の女子とその友人が、高校で気の合う友人がいるか分からない、離れたくないと泣きながら抱き合っていた。伏黒は帰り支度をしながら、それを聞いて少しおかしく思っていた。彼女らみたいなタイプが、友達作りに困ると思えなかった。
馴染めるだろうか、なんて考えたことがなかった。担任になる予定の五条悟とは子供の頃からの知り合いで、高専にも数回来たことがあるので、他の教員や学生らとも顔見知りである。イカれてないと呪術師なんてやってられないと五条は言うが、みんな善い人だった。
自分と同級生になる予定の生徒はたった一人の女子だそうだ。諸事情により入寮のタイミングは少し遅れるらしいし、遠方に住んでいるというので顔を合わせたことはない。伏黒は無愛想で、いまいち気の利かないところがある。思ったことをそのまま言って同級生を泣かせてしまったこともあった。それ以降は不用意に喋らないようにしている。同級生が異性たったひとりというのはなんとも不安である。
高専での新生活について、心配事といえばそれくらいだった。学生とはいえ危険な世界であることに変わりはないのだが、伏黒はそのこともちゃんと理解していた。
寮の建物を出ると、ちょうど黒い車が停まった。ドアが勢いよく開かれる。車の心配をする伊地知の頼りなさげな声が聞こえたが、五条の大声にかき消されて何を言ったまでは分からなかった。
「たっだいま〜! 何、出迎えてくれたの?残念だけどお土産はないよ、僕が食べたから」
「おかえりなさい」
伏黒は運転席の窓から伊地知と目を合わせ、お疲れ様ですと声をかけた。伊地知は今にもぶっ倒れそうな顔をしている。ただでさえ毎日激務なのに、五条の送り迎えともなると相当のものだろう。
じゃあ、と会釈して立ち去ろうとする伏黒に、五条がどこ行くの?と聞いた。
「コンビニ行ってきます、下の」
「あそう。気を付けてね〜」
五条は車の屋根に腕を置いて体重を預け、伏黒に向かってひらひらと手を振った。また会釈を返し、早く降りてくださいと恐れながら物申す伊地知の震えた声と、それを軽くあしらう五条の声を背に石畳を歩いた。
***
高専周辺の森は観賞用ではないので、業者を呼んで手入れするというようなことは特にない。それでも冬明けの温かく柔らかい日差しを漏らす大きな木々の群れを、伏黒は美しいと思う。初めて高専に来たときは入口までの長い階段に辟易していたが、身体が大きくなり体力もそれなりについた今では苦にならない。
麓のコンビニはどこか閑散としている。初老の店長一人と、近所に住んでいるらしい若者一人だけで店をまわしているらしいが、都内とはいえこの僻地で賑わうはずもなく、品ぞろえも良くない。それでもなんとかこの店がやっていけているのは、多かれ少なかれ高専関係者のおかげである。五条は、あの店は僕たちが生かしてるようなもんだよね、と言っていた。
森の長い階段を抜け、田舎特有のだだっ広い道路を堂々と横断する。伏黒はスウェットのポケットに手を突っ込んで、頭が空っぽになった状態でコンビニに入った。今日のお目当てはアイスだった。
***
いつもの店長のありがとうございましたはどこか安心感がある。
車通りのほとんどない道路に面しているこのコンビニが高専関係者のおかげで存続しているのは過言ではなさそうだが、関係者たちの不規則な生活のおかげで、それに対応しようとこのコンビニでの労働時間を引き延ばしているのも確かだった。伏黒はここの店員にありがとうございましたと言われる度に、申し訳ない気持ちになる。うちがどうもすみません、これからもよろしくお願いしますと言いたくなる程度には、高専に馴染んでいる。
「……あ」
店を出ると、向かい側の道路ーー伏黒が来た方向の道路ーーにこじんまりした屋台が出ているのに気が付いた。屋台の横に立てられたのぼりがぱたぱたとはためき、「やきとり」の黒い文字が揺れる。屋台の向こうには、色落ちした金髪の若い女が眠そうに座っていた。
ーーこんなところにこんな屋台あったか? 伏黒は疑問に思ったが、何せここに住み始めて一週間しか経っていない。もしかしたら隔週で来ているのかもしれない、行きは陰になって気が付かなかったのか、などと考えているうちに腹が減ってきた。焼き鳥のたれの香ばしく甘い香りが更なる食欲を誘う。
伊地知さんにも買っていってあげよう。まだ高専にいるだろうか、いなければ他の人にあげればいい。伏黒は一度しまった財布を取り出して屋台に近寄っていった。
「タレ2つと塩2つ」
女は伏黒を見て、「タレ2塩2?」と聞き直した。
「はい」
「はいよ。皮? もも?」
「あー……」
考えていなかった。のぼりの足元の少し汚れた立て板にも、ももと皮の選択肢がきちんと書いてある。木の板によく目立つ、読みやすい字だ。気付かなかったのだから余程気が抜けている。
早く決めようと思うが、優柔不断な性格ではないのに迷ってしまう。自分で食べる分だけではないのだ。タレと塩の割合も少し考えたのに、ももと皮ともなると。高専の人と焼き鳥の好みの話なんてしたことがなかったから分からない。
考え込んでいる伏黒を黙って待っている女をちらりと見て、伏黒はすみません、と謝った。女は笑った。
「いーよ、ゆっくり決めな」
すみません、とまた小さく言って、伏黒はポケットを探る。もう伊地知に聞いてしまおう。もしかしたらもう食事を終えていたかもしれないし、すぐ任務に行ってしまったかもしれない。ーーと思っていたのだが、スマホを寮の自室に置いてきてしまったことに気が付いた。しまった、という顔をすると、頬杖をついて伏黒を見ていた女が眉を上げた。
「スマホ? ない? 忘れちゃった?」
「あ、はい……」
「今どきの子がスマホ忘れるなんて珍しいね。私の……いや、だめか。知らない人の使うとかよくないよね」
伏黒はやけに親し気に接してくる女に対して受動的に受け答えしながら、どうしようかと考える。もう適当にいっぱい買っていこう。「やっぱりタレ4塩4で、ももと皮半分ずつ」と言いながら財布の小銭入れを覗くと、思っていたより寂しい中身にまた頭を抱えた。
そうだ、アイスひとつ買うだけの予定だったから全然持ってきてなかったんだったと苦い顔をした。この程度のお金では、最初に言っていた注文分も足りない。恥ずかしくて堪らないが、すみませんと何度目かの謝罪を切り出す。
「お金足りませんでした」
「ありゃ」
女はもう肉を焼き始めていた。さらに申し訳なくなって、また謝る。
「また来ます」と社交辞令ではなく本心で言うと、女は目をしばたかせてから笑った。
「あはは、いーよいーよ。てかもうこの際持ってっちゃってよ。全然客来ないから、ここ」
「いや、駄目ですよ……」
言いながら、伏黒は肉を焼く女のつむじを見ていた。頭頂部には少し黒が混ざっている。焼き鳥の串を持つ指先の爪は意外と短く切りそろえられていた。
「誰に買ってくつもりだったの?」
「あー……学校の、先生に」
「ああ、きみ山の上の学校の子か!」
女の楕円形の爪がついた指先が、くるくると串を回すさまをぼんやりと眺めていた。
若いが、もちろん伏黒よりは年上だ。派手な髪色に囲まれた顔は比較的幼い。知り合いと比べて年齢を量ろうとしてみたが、伏黒の周囲には、出会った頃からほとんど外貌の変わらない人間か、日々の激務の疲れが顔に出ていくらか老けて見える人間しかいないので参考にならなかった。
「偉いね、おつかい?」
それほど年が離れているでもないであろう女に、まるで小学生の子供に対するように接されてむっとした。おつかいではないです、と真面目に答えた。
「じゃあそんな偉いきみにおまけしちゃおう」
女はタレを塗り終わった焼き鳥を6本、プラスチック容器に入れたので、伏黒はぎょっとした。
「いや、いいです、ほんと。お金払えないんで」
伏黒がそう言っても、女は手を止めなかった。こんどは塩の方を容器に入れながら「いーよいーよ」と言う。
「こっちがタレ皮と、ももね。塩はこっち」
ビニール袋を持って立ち上がり、意地でも受け取ろうとしない伏黒の手を取って無理矢理握らせる。伏黒が困った顔をすると、女は笑って言った。
「先生、何て人?」
唐突な質問に呆気にとられていると、女はタレの刷毛をもてあそびながら、「学校の人なら、ここよく来るでしょ。ツケとくから」と言った。
「いや…………」
「大丈夫大丈夫、うまく言っとくから。お金払わないと納得しないでしょきみ」
伏黒は少し考える。無理矢理持たされたビニール袋から香るタレの匂いに、ごくりと喉を鳴らした。
「………………じゃあ、五条、で」
「“ごじょう”ね。オッケー」
すみません、とぺこりと頭を下げると、女は眩いほどの笑顔で手を振った。
「いーよいーよ。私が押し売ったんだから。買ってくれてありがとうね!」
伏黒はもう一度お辞儀をして、森の方へ歩いた。
しばらく歩いてから、伏黒は提げた袋から香る誘惑に耐えきれなくなった。周りに人がいないことを確認してから、行儀が悪いとは分かっているものの、袋の中から一本取り出した。
タレ皮だ。たっぷり塗られたタレがてらてらと光っていて、目に毒なくらいだ。
一つの塊を一気に口に入れた。ひと噛みすると、熱い肉汁がじゅわ、と口内に広がった。伏黒は、猫舌というまでではないが熱いのが苦手だ。ハフハフと口の中で遊ばせながらなんとか噛んで味わった。旨い。歯触りは決して貧相ではなく、ぷりぷりとしていて食べ応えがある。タレの味も甘すぎないのにしっかり主張していて満足感があるが、しつこい味付けではないのでいくらでも食べられそうだ。
伊地知の口にも合うといいのだが、と思いながら、伏黒は次の塊にかじりついた。
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