少年の一日
ヒーロー志望の少年の朝は早い。
特にこの少年は、公安委員会直属のヒーローになることを目的に育成されているため、スケジュール管理がしっかりされている。寝坊は許されない、というより、寝坊できない。必ず叩き起こされる。
――というのが、実は早起きが苦手な、今までの少年の朝である。
夏になってからというもの、馴染みの顔はすっかり出張って見なくなってしまった。少し寂しい気もするが、ベッドでぐっすり眠り、カーテンの隙間から差し込む朝日に意識を持ち上げられ、それから少し微睡み、目が冴えてきたらのそのそと起きる、という優雅な目覚めを迎えられるので、寂しくない気もする。
いつもの職員がいないからといって、実技訓練を一切しなくていいかというとそういう訳ではなく、ホークスにはしっかりと宿題が課されていた。
毎朝トレーニングセンターで体幹トレーニングやトレッドミルを使った有酸素運動を行い、決められたメニューの朝食を摂る。昼食までに今までやった座学の復習を進め、昼食も決められたメニューを食べる。
その日の分のタスクを終えるとその旨をタブレットに記録し、エレベーターに乗って目的の階へ向かうが、今日は会長からの呼び出しがあったので、最上階のボタンを押した。
「ホークスです」
「どうぞ。そこにかけて」
会長は机の上に書類を広げていた。
ホークスはぺこりと頭を下げて、ソファの端にちょこんと腰掛けた。それを視界の端で確認した会長は、机から離れないまま、「狩野はどう?」と聞いた。
「ちょっと、変な人です。ばってんすごか人です」
「そう。問題なさそうね」
変な人なのは合っているらしい。
ホークスはへら、と笑った。愛想笑いではなく、狩野が陰で変な人だと思われているらしいのが面白かった。
会長は手を止めて、今度は「どんなことを教わったの?」と聞いた。
「一番初めに、体の向きが印象に及ぼす影響の話ばしてもろて……そん後は、ポーカーフェイスは必ずしも無表情ば表すもんやないってこととか、貧乏ゆすりや髪ばいじる人ん心理とか――」
「よくやっているようね。安心したわ」
ホークスは曖昧に笑った。
会長室を出て非常階段を降り、端の部屋をノックする。中から「開いてるよ」と声がかかった。
「狩野さん、せっかく施錠システムがあるんだから、ちゃんと戸締りしないとダメですよ」
「もうすぐホークスが帰ってくると思ったから開けておいたんだ」
「……それでもです」
「分かった。気をつけるよ」
狩野はソファに伸ばした脚を投げ出して膝の上にPCを置き、何やら作業をしていたようだった。スーツのくせにえらく寛いでいる。シワになってしまったりしないのだろうか。
ホークスが部屋に入るとコーヒーの匂いが漂った。ホークスはコーヒーの匂いを良い匂いだとは思うが、飲むのはあまり得意ではなかった。
幼い頃、大人たちが飲んでいるものに憧れて一度だけ飲ませてもらったことがあるのだが、舌がまだ子供だったのか、とんでもなく苦くて不味くて、それが一種のトラウマのようになってしまっているのかもしれない。
それを狩野に話すと、狩野はケロリと「子供舌って、君は今も子供だろ」と言った。
ホークスはこれにムッとして、「子供じゃないです」と言い返そうとしたが、すんでのところで「子供じゃない」と言い張るのは子供がやることだと気づき、黙った。言われたままは悔しいが、特に言い返せることもないので、逆襲の時を待とうと思った。
狩野はホークスに、「会長に呼ばれたんだろう? 用件は何だったんだ」と聞いた。ホークスが「狩野さんと上手くやれてるかって」と答えると、狩野はニヤリとして、「ちゃんと仲良しですって答えたか?」と言った。狩野は存外、こういった軽口をよく叩く人間だったので、早くも慣れてしまったホークスは軽くあしらった。
「どんなことしてるんだって聞かれたから、ちゃんと今まで教えてもらったこと話しましたよ。もちろん、映画のことは隠して」
したり顔で言ったホークスを見て、狩野は蹴飛ばしたように笑った。
「ハハハ! ナイスだホークス。職務を全うしてないって怒られて、首にされるといけないからな」
「ええ? オレは映画観るのも勉強のうちだと聞いてましたけどぉー」
「そうそう。よく分かってるじゃないか」
狩野が映画を観るために大きなスクリーンを置こうと言い出した時、ホークスはこいつ実は見かけによらず不真面目なんだなと思ったが、スクリーンが届いて設置している最中、狩野が「映画は見る人に伝わるように作られているから、表情を含むボディランゲージや、人の情動の分析の練習にとてもいいんだ」と話していて、この人考えていないように見えてちゃんとしているんだな、と見直したのだ。
実際、映画はそれなりに役に立ったし、人物の感情に注目して物語の顛末を想像するというのはなかなか新しい試みで面白かった。
狩野が選ぶ映画は黎明期前の古いものが多かったが、保存状態が良いのか映像が鮮明で、教材として十分だった。
時たま、これは勉強とどう関係があるのかと首を捻るような作品が上映されたが、その度に狩野は「恐竜のプロファイリングをしなきゃいけない状況になるかもしれない」「抑圧されてきた人が自己を解放する方法は興味深い、これはサーカスの例だ」「イソギンチャクの子供の捜索を頼まれることがあるかもしれない」などと様々な言い訳をしてホークスを笑わせた。
最近の話題作がレンタルビデオショップの袋から取り出されることもしばしばあったが、そういう時は普通に「気になったから借りてきた」と言ってしまうのが面白かったし、一緒になって言い訳にもならない言い訳をして再生ボタンを押すのも共犯のような気持ちがして楽しかった。
とまあこんな風に、ホークスは狩野から、嘘のつき方というよりは、人の感情がどのようにして表現されるのか、というようなより根本のところから学んでいった。狩野の話は映画ほど派手ではないが、理論的なのに夢のようで、自分の世界が広がっていく感覚がして楽しかった。
ある日、エンドロールを眺め、余韻に浸りながら、ホークスは狩野に向かってふとこんな疑問を投げかけた。
「狩野さんって、国家ナントカ局で、教官をしてるって言ってましたよね」
「あぁ、まあそんな感じだな」
「国家ナントカ局って、具体的にどんなことをして、そこでは具体的にどんなことを教えてるんですか? オレに教えてくれてるみたいな感じですか?」
狩野はソファの背もたれに身体を沈めながら、「質問がいっぱいだな」と笑った。
ホークスは身体を起こして、コップに残っていたカフェラテ――牛乳をたっぷり入れたコーヒーは飲めるようになった――を飲み干し、狩野の言葉を待った。
「国家安全情報局は、その名の通りだよ。国の安全のために、色んな情報を管理してる。
特に組織犯罪の情報を取り扱うことが多い。警察と連携して、どの組織がどれくらい力を持っているのか、トップは誰なのか、どこを根城にしていてどこまで範囲を広げているのか、その他色んな情報をまとめて、捜査に貢献する。逮捕権はないけど、大事な戦力だ」
「そういうのは警察が全部やってるんだと思ってました」
「昔はそうだったんだ。誰もが"個性"を持つようになると、個人が持つ力が大きくなるから、自然と組織犯罪は減少していった。群れなくても、個人が社会を脅かせるようになってしまった」
「…………」
ホークスは狩野の横顔を見つめた。
狩野はどこを見るでもなく、ただ確実にどこかを見ている目で話を続けた。狩野は時々こういう目をする。ここではないどこかのことを考えている。
ホークスは結局、狩野の何を知っているというのだろう。
「あとはヒーローという職業が人気になったことで、警察の人手が足りなくなったことかな。発生件数が減った組織犯罪より、各地で多発的に起こる個人犯罪の鎮圧と後処理に人員を割きたかったから、警察から組織犯罪対策課は消えた。
ただしゼロではなかったし、残っている犯罪組織や、差別主義団体は凶悪だったから、警察とは別の組織として新しくできたのが、国家安全情報局ってわけ」
歴史の授業なんて初めてしたな、と狩野はおどけた。
きっと詳しく話せば長くなった話なのだろうが、簡潔にしてくれたのだろう。
「狩野さんはそこでどんな仕事をしてるんですか?」
「昔は最前線でバリバリやってたけど、今は大したことはしてないよ。昔のツテを使って情報を集めたり、若手の育成をしたり」
ホークスは首を傾げた。目の前の女は、年齢不詳な雰囲気ではあるが、かなり多く見積もっても30代前半くらいにしか見えない。果たして昔とか若手とか言うほどキャリアを積んでいるのだろうか。それとも国家安全情報局は皆早くに辞めてしまうのだろうか。
「そういえば今まで聞いたことなかったですけど、狩野さんって今何歳なんですか?」
「何歳に見える?」
「そういうのいいです」
狩野は意外とあっさり「26」と答えてくれた。
へえ、26。26……。
「若いじゃないですか! 何が『若手の育成』なんです」
「情報局の若手だよ。私はこう見えて情報局でも優秀な方でね。あんまり長く表で目立っていると顔が割れて仕事にならなくなるから、今は一旦下がっているんだ」
「顔が割れてって――」
「スパイするからね」
スパイ。
何度も映画で聞いた、魅惑的な響きだった。
「かっけえ……」
「はは、そうかな」
「オレもなりたい……」
「大人気ないけど本当のことを言うと、ホークスは情報局で働けないよ」
「エッ、なんでですか」
「情報局は私みたいに、外見に"個性"の特徴が出ていない、いわば黎明期前の人間と同じ姿の人間しか雇わないんだ」
ホークスにとって全く知らない世界だった。
この人の話をもっと聞きたい。ホークスは情報局について湧き上がる疑問のどれから狩野に答えてもらおうかと考えていたが、ふとその中でも素朴なものが口から飛び出た。
「そういえば狩野さんって、どんな"個性"なんですか?」
狩野は「あれ、言ってなかったっけ」と言ってから、自分の前に置かれたコーヒーを煽った。豆の香りが漂った。
「"無個性"だよ」
「え? "無個性"?」
狩野はそれが何だと言わんばかりの顔で「うん」と頷いた。ホークスは触れてはいけないことだったかと一瞬思ったが、狩野があまりにも普通なところを見て、これは掘り下げてよい話題だと判断した。
「"無個性"でスパイって、危なくないんですか? 戦闘とかになった時に……」
「はは、スパイって言うと確かに、映画みたいに派手な銃撃戦を想像するかもね。でも実際にあんなことになるのは極稀で、しかも失敗した例だ」
ホークスはソファの上に脚をあげてあぐらをかき、身体を完全に狩野に向けた。あなたの話を聞きたいという気持ちを全面に出すことで、狩野の話が弾むことを期待しての行動だった。
「私たちがやってるスパイ――密偵の目的は主に二つ。情報収集と、撹乱だ。相手にバレてはいけない。
任務自体は上手くいって、目的の情報を持ち替えることができたとする。
諜報員が現場を無事に離脱した後でも、潜入していたことがもしバレたら、敵に流れたと思われる情報は使えないから、対応されてしまって、せっかく手に入れた情報が無価値になってしまう。
撹乱もそうだ。外部からの介入があったという証拠を残すことは、撹乱の目的にそぐわない。あくまでも内部の人間が裏切ったとか、ミスをしたという風に見せかけて、組織内を疑心暗鬼に陥れることも重要なポイントだからだ」
狩野は続けた。
「逮捕するのは警察の役目だから、私たちは何もしない。その組織のアジトを爆破したりだとか、組織の人間をやむなく殺したりだとか、映画では十八番だけどね」
あくまでもフィクション、実際はもっと地味ってこと、と言って、狩野はコーヒーの残りを飲み干した。
狩野はホークスの授業時間内に、必ず一杯のコーヒーを飲み終える。ペース配分を調整しているのか、コーヒーがなくなるのはいつも授業終了時刻直前だ。ホークスは狩野の腕時計を盗み見た。今日もそうだった。
まだ終わってほしくないけれど、夕食の時間が迫っている。
「狩野さん、オレもっと狩野さんの仕事の話聞きたいです」
「仕事の話は面白くないよ。地味だし、機密事項もあるから穴抜けになってしまうだろうし」
「面白くないかどうかはオレが決めるんで!」
「そうか?」
狩野はホークスの訴えを社交辞令か何かだとでも思っていないと辻褄が合わない軽さの返事しか返ってこない。
狩野は空になったホークスのコップと自分のコップを持って立ち上がった。この部屋には水場がない。狩野は洗い物があるたびに給湯室に行っていた。
「そろそろ時間だろう。行こうか」
「…………ハァイ」
ホークスは不服を顔全体で表現した。
そんなホークスを見て狩野が笑う気配がしたので、ここぞとばかりにホークスは狩野に擦り寄った。
「狩野さん、オレ明日までに、狩野さんへの質問いっぱい考えておきますから。ちゃんと答えてくださいね」
「まあ、答えられる範囲でね」
「あとオレ、狩野さん自身の事全然知らないから」
狩野は私自身のこと?と首を傾げた。狩野がホークスに"個性"のことを話したのは今日が初めてで、今までそれなりの時間を過ごしてきたが狩野自身の話はほとんどしていなかった。
ホークスはそれが狩野が意識的にしていることなのかと思って踏み込めずにいたのだが、好奇心には勝てないし、今日は"個性"のことを話してくれたので、初めの第一歩を踏み出せたような気がしていた。
「うーん。まぁ、いいよ。面白いことは何もないからね」
ホークスは、この人自分に結構甘いんだな、と、この時初めて気づいた。
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