斜向かいの君
狩野はとりあえず今日はこれで我慢しよう、と言って、椅子を引き、ホークスに座るよう促した。入室時もそうだったが、行動がまるで英国紳士のレディ・ファーストである。ホークスは初め、狩野の外見を見て「特徴がない」と評したが、実は変人なのかもしれない、と思い始めた。狩野を変人だと思わなければやるせない気恥ずかしさを抱えていた。
狩野は向かいの椅子を引くと、ホークスと正面から向き合うのではなく、体の右側をホークスに向ける形で座った。そうすると狩野は窓と向き合うことになる。外はよく晴れていた。若干眩しそうにしている狩野を見て、ホークスは眩しいならこっちを向いて座ればいいのに、と思った。
狩野はジャケットの内ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出して、「スクリーン」と書いた。
「あとソファと、それ用の低めのテーブルが欲しいな。ホークス、ソファはどんなのがいい? 布か革か。まあカバーでどうとでもなるか」
「あ、あの……」
「コーヒーメーカーと冷蔵庫はうちから持ってくればいいとして」
「冷蔵庫? 持ってくるとですか?!」
「言っても、小さいやつだよ。冷えたのが飲みたいだろ。喉が渇くたびに自販機まで行くのも面倒だし」
確かにここから一番近い自販機を使おうと思うと、1階下に降りなければならない。狩野の言う通りの物品を搬入すると、無機質な部屋がかなり居心地良くなりそうだ。
「この机は残そうか。ホークス、椅子の座り心地はどう思う?」
「椅子? えーっと、悪くはない、と思いますけど……」
「長い時間座ると腰が痛くなりそうじゃないか?」
「まぁ、そうですね。こん椅子他ん部屋にもあるっちゃけど、言われてみればあんまし好きじゃなかかも」
「公安内にもっと座りやすい椅子はある?」
「12階の大会議室の椅子は座りやすかです。柔らかかけど背もたれが高うなかけん翼に当たらなんで」
「じゃあそれを持ってこよう。あとは何かある?」
「あとは? えー……」
ホークスは言われるがままに周囲を見渡した。今何があるんだっけ。ソファと低めのテーブルと、あとこのテーブルともっと座り心地の良い椅子、冷蔵庫とコーヒーメーカー、壁には大きいスクリーン。
「……すいません、こん部屋って何に使うんでしたっけ?」
「ん? 授業」
「そ、そうですよね。そげん勝手に使い心地いいように色々入れてしもうてよかとですか?」
「ダメかな。スクリーンはホワイトボードに貼り付けるタイプだとホワイトボードのその面が使えないし、いちいち設置したり片付けたりするのも面倒だ。授業に集中するために椅子はいい物を使いたいし、暑い時期だから水分補給のことも考えたい。ソファは何か上手い理由を考えておくよ」
「あの会長が許すとは思えんのですけど」
「大丈夫大丈夫。お友達だから」
本当に友達なのかなあ。疑念が募った。
狩野は意外と肩にはまらないタイプらしいが、こんな人と厳格が服を着て歩いているようなあの会長の仲が良いとは考えられない。
ホークスの腹の底に、この人本当に大丈夫かな、という気持ちが首をもたげた。
「あの、授業ってどんな形式でやるとです? 座学ですか?」
「座学もあるし、校外学習もやりたい。見学と実習は折を見て、かな。とりあえずこの夏で実習はやらない」
「座学でじょうずな嘘のつき方を学べるとですか?」
狩野がホークスを見た。ホークスは、今の言い方ちょっと棘があったかもしれない、と思ったが、口から出てしまったものは取り消せない。あくまでも素直な良い子を演じようとしていたホークスだったが、失敗した。
「……はっきり言うてオレ、コミュニケーションに問題なかとです。目ん前の人がどげん気持ちか考えることなんてみんなやっとーし、空気だって読める方、です」
狩野があまりに真っ直ぐホークスを見るので、切るつもりだった啖呵もだんだん尻すぼみになっていった。ホークスは口を尖らせながら、「オレ、ヒーローとしてちゃんと活躍したかばい」と言った。少し声は小さかったが、遊んでる暇はない、と言いたいことは狩野に伝わった。
狩野はぱっとペンを置いて、ホークスに体の正面を向けた。ホークスは握手をした時ぶりに、狩野の顔を正面から見た。
「すまない。君みたいな年の人と話すのは慣れていなくて……焦って色々とっ散らかってしまったかもしれない」
「! ……いや、そんな。謝るようなことじゃ」
狩野があまりに素直に頭を下げるので、ホークスは面食らって、その次になんだか申し訳なくなった。どういうつもりで言ったのかと言われると難しいが、少なくとも謝らせるためではなかった。
「ただ、全てに意味があることを、少しずつでいいから理解してほしい。全て君の未来に繋げるつもりで、私はここにいる」
狩野が纏う空気が少しだけ変わったことを、ホークスは羽で、肌で感じた。
「例えば、私は今日遅れてきたよね」
「あぁ、はい」
「会長は渋滞のせいで、とか説明したかな」
「はい、そうでした」
「あれは嘘だ。私が会長に嘘をついた。道は全く混んでいなかったし、私はわざと、言われた時間から遅れて公安に着いた」
なぜだと思う?
狩野の目が品定めするようにホークスを見ている。ホークスは眉間に皺を寄せた。狩野が言わんとすることが全く分からなかった。
「ヒントは、そうだな……君とさっき会ってから今まで、私がずっと気をつけていたことだ。この部屋に入った時、窓際へ行ったことも、私が君の椅子をわざわざ引いたことも関係がある」
ホークスは考えた。窓際で話したことや、狩野がホークスのために椅子を引いた姿を思い返したが、共通点は見つからないし、ましてや狩野が遅れてきた事との関連性なんて分かるはずもなかった。
ホークスが助けを求める顔で狩野を見ると、狩野は少し黙ってから、「今は例外だな」とだけ言った。
今。
ホークスは自分と狩野を結ぶ直前上に何度か視線を滑らせた。
「………………位置、ですか? なんていうか、向き合い方、みたいな……」
ホークスの自信無さげな声を、狩野はしっかりと拾ったようで、少しだけ目を細めた。ホークスはそれを見て、なんだか安堵の気持ちを感じ、狩野が「うん、いいね」と言ったのを聞いて、不思議な高揚感を味わった。
「私が遅れてきたのは、君と正面で向き合って座る状況を自然に避けるためだ。
遅れていけば、君と会長は私が到着するまで一対一で話すだろう。会長は絶対に、君の正面に座る。
私が到着しても、会長はわざわざ立って位置を変えるようなことはしないだろう。私は会長の隣に座るから、君の正面に座らなければならない状況になる可能性はゼロに近い。
君の正面には会長が、そしてその隣に私がいるという状況を作りたかった」
狩野は一旦そこで言葉を切った。ホークスは反応を求められているのかと思ったが、解説されても尚、なぜそんなことをするのか意味が分からなかった。
「とりあえず狩野さんがオレの正面に座りとうなかった、ってことは分かりましたけど、何で遅刻してまでそげんことするとですか?」
「ちょっと立って。椅子をこっちに持ってきてごらん」
ホークスは言われた通りにした。部屋の何も置かれていない広い部分に、ホークスが座っていた椅子と、狩野が座っていた椅子が引っ張り出された。
狩野は適当に椅子を置くと、ホークスに座るように言った。ホークスは不審狩りながらも従った。狩野は自分の椅子に座らず、背もたれに手を置き、立ったまま話し始めた。
「人間というのは、相手の顔のパーツや体格などの構造、そしてその動かし方のバリエーションである表情や仕草の他に、様々な要素を以ってその人の印象を決定するんだ。
例えば、自分と相手の距離とかね。
パーソナルスペースという言葉は聞いたことがあるだろう。人それぞれ、これ以上近づかれると不快に感じるという境界線があるってやつだ」
「はあ……」
「印象を決める要素は色々あるが、私はその中で最も重要なのは、"向き"だと思う」
「!」
ホークスは先ほど、自分が「向き合い方」と言ったのを思い出した。それを察したのか、狩野は頷いて、一拍置いてから話を再開する。狩野の話し方はテンポが良くて、スッと頭に入ってくる。板書があるわけでもないのに頭の中で物事が整理されていく感覚が気持ちよかった。
「ホークスが座っている椅子から、椅子一個分離したこの位置に、私の椅子を置く。まずはシンプルに、向き合って座る」
狩野は椅子に腰掛けると、ホークスの顔を黙って正面から見つめた。ホークスは息を呑んで時間が経つのを待ったが、途中で耐えきれず「はは、気まず」と小さい声で言った。
数秒経つと狩野は、椅子の向きと位置はそのままに、体の向きだけを変えて、肘を背もたれに置く形で、ホークスに体の側面を向けた。そしてまたホークスの顔を見つめる。ホークスは黙って待っていた。数秒後、狩野は椅子をもう椅子一つ分くらい離して座り直した。
「違いが分かっただろ?」
「! はい。うまく言えんけど……」
「うまく言おうとしなくていい。君は体感してくれればそれで完璧だ。表現して伝えるのは私の役目だからね」
ホークスは狩野の目に輝きを見た。狩野から見たホークスの目も、輝いていた。
「正面で向き合うというのは、動物からしてみれば敵対を表す。人は本能的に、他の個体と向かい合うことにプレッシャーを感じるんだ。
だから逸らす。
斜めを向くことで二人の間の空間に開放感が生まれ、圧迫感はグッと減るし、体の側面を相手に向けることは、暗に『あなたと敵対する気はない』ということを示すサインにもなる」
狩野はホークスの表情を少し確認した後、続ける。
「密室に入ると、どうしても緊張感が生まれる。
だから、部屋に入ってすぐに窓の外を見た。君はどうやっても私の正面には回れない。プレッシャーが少ない状態で雑談をして、少し慣らす。その後試しに、何も言わずに正面から君と向き合ってみたけど、君は不安になると動かずにはいられないタイプだってことが分かった」
図星だった。
窓際で急に黙って正面から見つめられた時、ホークスは何か喋ろうと焦った。黙って見つめられれば誰でも居心地悪く感じるだろうと言おうとしたが、会長室のフロアからこの部屋のフロアに降りるためにエレベーターに乗った時、狩野が黙ってホークスを見ていた時間があった。ホークスは視線を感じて居心地の悪さは感じたものの、焦るほどではなく、じっと黙ってエレベーターの箱の隅を見つめていた。あの時狩野は、ホークスの隣に立っていた。
どこまで考えているんだ。ホークスはうすら寒く思うと同時に、己の知的好奇心が沸々と湧き上がるのを感じた。
狩野はほ、と一息ついて、手に持って指示棒のようにしていたペンのキャップ部分をいじり始めた。
「まあ私が時間通りに会長室にいたところで、会長は私をホークスの正面には置かなかっただろうけどね。せいぜい君の正面が会長と私の間になるくらいの配置だっただろう」
「でもさっき、オレの正面には会長が、その隣に狩野さんがいるようにしたかった、って言うてましたよね?」
狩野はちょっとびっくりしたような顔をしてペンをいじる手を止め、ホークスを見た。
ホークスはハッとして、「いや、揚げ足を取るつもりじゃ」と取り繕おうとしたが、狩野はそれを制して、「違うんだ。よく覚えていたなと思って」と言った。
「君にとって、私は完全な部外者で、どこの馬の骨とも知れない怪しい人間だ。だから分かりやすく、君と会長、そして私という二対一の構成にしたかった。
君は自然に座っていれば、会長と向き合うことになる。
会長と一対一ならプレッシャーだろうけど、私という異分子がいる場では、私を見ない口実になる。
私に気まずさや不安を感じて見たくないと思えば、正面を見れば顔見知りの会長がいるだろう。良い逃げ道になると思ったんだ」
「なるほど……」
ホークスはほぁ、と息を吐いた。今の話を素直に受け入れて見せることは、初め狩野に不信感を抱いていたことを肯定することだが、そんなことはとっくのとうに狩野にお見通しだろうと思って取り繕うのをやめた。狩野はもちろん気にしていない様子だ。
狩野は唐突に腕時計を見た。中性的な見た目の彼女だが、時計は男物だった。
「デモンストレーションにしては、ちょっと喋りすぎたな」
「デモンストレーション?」
「私の授業。こんな感じで、座学ってよりは、色々お喋りしながら体験していくって形にしたいんだ。きっとうまくいかないことも多いだろうから、お手柔らかに頼むよ」
狩野はニコリと左右対称の笑みで言った。その笑みに第一印象のような不自然さはもう感じられず、ホークスも素直に「こちらこそ、よろしくお願いします」と言った。
「……デモンストレーションって言いよったけど、もしかして、オレが痺れば切らすことも計算内やったりします?」
「まさか。行き当たりばったりで何とかやっているだけだよ」
「ほんとかなあ」
前 第五列 次
HOME