翡翠の鎖

定刻になり、次々に執務室を出て行く同僚の気配を感じながら、確実に残業になるであろう書類の山を一瞥して溜息を吐く。
四分の一も減っていないそれは、このままだと確実に深夜になる。
憂鬱な気分を切り替えようと、給湯室でお茶を淹れて席に戻ろうとすると、自隊の隊長が私の机の上の書類を睨み付けていた。
「…瑞稀か。何でこんなに書類が残ってる。お前、事務処理は得意だろ?」
翡翠の瞳が不機嫌そうに此方を向く。
眉目秀麗な銀髪の彼は、此処数年で一気に身長が伸びて、身体つきも大人になった。
子供の様な外見だった時も、眉間の皺はそのままだったけれど。
「書類を届ける為に席を外したのですが…いつの間にか増えてまして」
隊長は嘘を嫌う。
そして、恐らく唯一、私のこの目を真っ直ぐ見つめてくるこの人に例え嘘を吐いてもすぐにばれてしまう。
「…それ、嫌がらせじゃねぇか」
益々不快そうに眉間に皺を寄せる隊長。
そんなにしたら跡残りますよ、なんて言える立場じゃないので、困った様に微笑んでおいた。
「いつもの事です」
席に座って、お茶を一口飲むと、少し気分が和らぐ。
そのまま書類に手を伸ばすと、上半分の書類をガサリと取り上げられる。
「隊長?」
「自隊の部下の管理が出来てねぇ俺の責任でもある」
近くの机にどかりと座ると、近くの筆を取り上げる彼。
「あまり優しいと付け込まれますよ」
さも当然の様に仕事を手伝ってくれるこの隊長は、自分優しさがどんな結果を招くか、考えた事は有るのだろうか。
「誰にだ?」
さらさらと書類を仕上げながら、問うてくる麗しい隊長は、やはり気付いては居ないのだろう。
彼が誰かを気にかける度、周囲が嫉妬してその誰かを傷付けている事を。
「さぁ、誰でしょうね」
そう言い残し、私は給湯室に戻った。
普段隊士達が使う茶葉では無く、最高級の玉露を点てて、執務室へ戻る。
「どうぞ」
「…あぁ」
その後、大した会話など無かった。
室内は、私と隊長が筆を走らせる音だけ。
定刻を過ぎたその部屋は、酷く静かだった。
お互いの息遣いが聞こえる程に。
かたんと筆を置く音がした。
それからそう時間を置かずに、私も最後の書類を書き終える。
外を見ると、十六夜の月が顔を出していた。
書類を整理し、立ち上がる。
各隊へ持って行くのは明日だななんて考えつつ、空になった湯飲みを回収しようと隊長へと振り返ると。
ぽすっと胸板にぶつかった。
「っすみませ…「瑞稀」」
耳許で低い声がして、どくんと心臓が跳ねる。
私は、他の女性死神の様に、どうにかして彼に取り入ろうとしていたわけじゃ無い。
どちらかと言うと、色恋になど興味は持たない方で。
それでも、尊敬する隊長から何処と無く男の香りがして。
慌てて離れようと足を引く。
けれど、その前に彼の腕に捕らわれて、それは叶わなくなった。
「隊、長…?」
顔を上げると困惑するような翡翠の瞳があって。
縛られたように、動けなくなる。
「お前は……いや、何でもねぇ。悪かった」
するりと離された腕に僅かな虚無感を覚えるも、何時もの様に笑顔を貼り付ける。
「どうしたんですか?隊長。十六夜の月にでも充てられました?」
くすくすと笑って彼が使っていた湯飲みを手に取り、給湯室へ向かった。
それを洗って、私が部屋へ戻る頃には、きっと彼は居ないだろうと、願いに近い思いを抱いて。
予想通り、彼が先に帰っていた事にホッとして。
同時に僅かな寂しさを訴える胸に気付かない振りをした。
あの時、彼が何を言いかけたのか、知りたい様な、知りたく無い様な、複雑な気分に捕らわれながら。
私はその日、眠りに落ちるまで月を眺めていた。
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