01

おばけやしきの子

物心つく前から、恐らくきっと、私はそう呼ばれてきた。
家の外に出たことなんてないけれど、明るい外から聞こえる子どもたちは、私のことをそう呼んでいる。
おばけやしき。おばけがいるおうちのこと。私はそう言われていることに特に不思議に思ったことはない。だってそれは、本当のことだから。
家の中では今日も囁き声がする。私を呼ぶ声だ。返事をすると影が見える。ぶくぶくにふとっている影のときもあれば、枝のように細い影のときもある。私はそれを、クロと呼んでいる。単純だ。影は黒いから。

母も父もいないこの屋敷で、私は何不自由なく生きている。いつから一人なのかはわからない。
でも気がつけば、私の周りにはクロがいたし、私はクロに育てられていた。

いつからか、クロは影ではなくなっていた。うすぼんやりとその姿が見えることがある。赤黒い肌色、大きな目、口も私を丸呑み出来そうなほどに、大きい。
黒い姿をしていたからクロなのに、まるで黒くないではないか。きっとそれは、とてつもなく恐ろしい姿をしているのだと、主観ではなく、客観的にそう思った。

クロは私のことを呼ぶことはあっても、質問には答えない。会話ができないのだ。その代わり私の頬をそっと撫でたりする。
いつも私に食事を用意してくれて、食べさせてくれる。食べるとすごく元気になる肉。普通の人がどんなものを食べているのか知らないけど、いつも食べているこの肉を食べると、私は1週間くらいなにも食べなくても生きていける。

自分が何歳かもわからないが、はっきり覚えている限りクロとの生活が2度目の春を迎えた頃。
クロは家に戻らなくなっていた。
さすがにお腹も空いた頃。私はいつまでも帰らないクロに嫌気がさして、初めて、家の外へ、出てみた。

クロはいない。どこにもいない。クロがそばにいるとなんとなく気配を感じるものだが、それすらもわからない。
どこにいったの、クロ。
ずっと外から見ていた、家の前の公園のベンチに座り、膝を抱える。
青々として明るかった空は徐々に赤みを増していき、そしてクロのように真っ暗に日が落ちてゆく。
そんなとき、私は誰かに声をかけられた。
闇夜に溶け込むような真っ黒な服を着た知らない男の人。

「どうしたの?」

真っ黒な服を着ているけど
真っ白な髪をしていた。
真っ黒なサングラスをかけているけど
すごく綺麗な青い目をしていた。
その黒いサングラスからのぞくその視線を、私は逸らすことが出来ない。
むしろ、なんて、なんて美しいんだろうと、生唾を飲んだ。
なまつばを、のんだ。
なんて、なんて、なんてとっても、おいしそうなんだろう。と。
そう思った瞬間、私はその男に飛びかかっていた。
とてもお腹が空いている。もう1ヶ月もなにも食べていないのだ。だからちょっとくらい、ちょっとくらいほんのひとかじり。そんなに大きな体をしているんだ。ちょっとくらい食べちゃっても、文句はないだろう。
と心の中で0.01秒。
飛びかかった瞬間に私は顔を抑え込まれ、地面に叩きつけられていた。

「ぐっ!あ゙ぁ!!」

頭が割れたのか、血がたくさん出ている。こんなに自分から血が出たのは初めてだから、ギョッとした。

「呪霊でもねえ、呪詛師でもねえ。なんだこのガキ」

綺麗な目がずっと私を見てる。
きれい。すっごくきれい。その目を、その眼を、その瞳を、口の中で転がして、噛んで、舐めて、なんて、なんて、なんておいしそうなの。
餌を前にした腹を透かした犬のように、涎がダパダパ出てくる。もう飲み込むこともできない。垂れ流して、首をつたうこともなく大量に、地面へ落ちてゆく。

「…マジかよ」

綺麗な目は困った表情をしていて、頭をぽりぽりとかいた。
私はお腹がすいてすいてすいてどうしようもなくて、自分の腕にかじりつくと綺麗な目は私の顎を抑えて腕から口を引き剥がす。

「おい、やめろ」
「ふ…っ、んぐ!」
「ったく、やめろって」

めんどくせえなもう!とあっという間に口をなにかでぐるぐる巻きにされて、肩へと担がれてしまう。
忘れては行けないのは私の頭はかち割れていて、いまだに血をながしつづけているということ。
血が流れるのを感じる度にお腹がグルグルとなる。その度に綺麗な目はため息をついた。
空腹と貧血でくらくらする。肩に担がれ移動されている揺れでさらに気持ち悪くて、吐いたかもしれない。断定できないくらいに意識が朦朧とし始めて、自然と眠りにつくように、ゆっくりと、私は意識を失った。

「目が覚めた?」

その言葉を実際に聞いたのは生まれて初めてだったので、理解するのに少し時間がかかった。
右と、左と、目だけ動かすと、明るい白い部屋に、真っ黒な服を着た人が何人かいて、私を見下ろしている。私は両手両足を拘束具に繋がれていて、身動きが取れない。

「屍鬼がこんなガキに受肉してるってマジかよ」
「大マジ。しかもこの子、辛うじて自我を保ってる」
「俺、食われかけたんだけど」
「そのまま食われたらよかったんじゃない?」

大人だ。女の人も、さっきの綺麗な目もいる。

「これ、食べれる?」

そう差し出されたのは白くて薄いスポンジみたいなのに、緑の草のようなものが挟まれたもの。
ぐうぐうと未だに腹がなっていて、思わずゴクリと喉を鳴らす。半ば無理やりその奇妙なものを受け取り、私は思い切りかぶりついた。

「…ゔっっ!…っげぇぇぇ」

それは、食べられたものではなかった。
臭く、泥のような味のする食べ物だった。
思い切り吐いた私を綺麗な目は汚物を見るような目で私を見ている。私は、その、その目を食べたいのに。

「人肉以外は受け付けないってわけね……」

女の人がため息をつく。じんにくという言葉が、私にはわからない。
でもなんとなくわかったのは、私が、このヘドロのような食べ物を食べられないって言うことが、おかしいということ。普通ではないということ。危険だということ。

「あなた名前は?」
「……、寧々子」
「寧々子。あなたは呪われている」
「呪…」
「その呪いに心当たりはある?」

黒い髪の綺麗な人。この人も美味しそうだ。

「…クロのこと?」

心当たりといえば、もうそれしかない。人ではない影に、私は育てられてきた。でもひどい言いようではないか、呪いだなんて。私のことを平気で捨てて、どこでどうのうのうと生きているかも分からない、人間の方がよっぽど恐ろしいだろう。

「お腹空いた……お肉…食べたい…」

あまりの空腹に、また意識が朦朧とする。
綺麗な目にむかって、手を伸ばしたかったが、手枷のせいで叶わない。
その目をいつか、口に含んで、ゆっくりと、ゆっくりと味わいたい。
そうしたらきっと、私は飢えることは、なくなるだろう。