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たちまち領域の穴に飛び込んできたのは黒い髪の男の人。あまりにも突然で一瞬だけど全員で呆気に取られていた。
その男は真希ちゃんの持っていた呪具を奪うと陀艮をボコボコにし始めた。私たちはその光景を警戒しながら眺めることしかできない。
必中効果が消えているとは言え、陀艮を圧倒している。

「伏黒くん、もう少しもちますか?」
「…はい」
「申し訳ない。彼に賭けます」

あまりにも早かった。途中禪院のおじいちゃんの介助があったとはいえその人はあっという間に陀艮を祓ってしまったようだ。領域が解けて、景色は駅の構内に戻っている。
ここまではいいとしよう。死者も出ていない。でも残る問題は、この男は私たちの味方かどうかということ。
勝てる気がしない。最悪全滅も有り得るかもしれない。その男の次の行動に全員が警戒していた。

「恵!!」

狙われたのは恵。気がつけば構外に投げ飛ばされていた。早い、私よりも早いし、禪院のおじいちゃんくらいに早いかもしれない。でも彼は一体誰だと考えている暇すらない。問題は次から次へと向こうからご丁寧にやってくる。

「逝ったか…陀艮」
「漏瑚…」

領域の外で待機をしていたのだろうか、気がついたら陀艮の傍に漏瑚がいて、すでに灰になってしまった陀艮の亡骸を見つめている。これは、まずいのではないだろうか。漏瑚は陀艮よりもずっとずっと強い。

「やめて!!」

その言葉を放った瞬間には七海は強い炎に包まれていた。肉の焼け焦げる匂い。七海の肉の匂いに一瞬だけ目眩がするとまたその瞬間には真希ちゃんが燃やされる。「やめてよ!!」再びそう言ったときにはすでにおじいちゃんも倒れていた。足が動かない。いや、動かしたところで私は漏瑚に抵抗できるかすら怪しい。私は漏瑚よりも遥かに弱いから。
三人とも焼かれて丸焦げになっているのに、三人ともそんなになっているのに、私だけはいつもの姿でただ突っ立っているだけ。

「貴様何をしている」
「…何って、言われても」
「我々を裏切るのであれば殺す」

完全に本気の目だ。めちゃくちゃ怖い。
いや、冷静になれ。真希ちゃん、息してるか?七海は?おじいちゃんは知らないけどあの二人がこんな簡単に死ぬとは思えない。でも漏瑚は二人を殺したと思っているから駆け寄って息があるのが分かったらもう加減はしないだろう。わずかな可能性に望みをかけて、三人を捨て置くことにする。

「悟の封印には協力した。これ以上は私の好きにさせてもらう」
「そうか。夏油にはなるべく殺すなと言われているが、仕方ない」

すごい殺気。汗が出てくる。これ私死んだかな、なんて思いながら一歩だけ後ずさり、けどその分漏瑚も詰めてくる。そして漏瑚が私に向かって手のひらを差し出したその瞬間。

「ッ!?」
「なに…この感じ」

それは異様で邪悪な気配。でも一度感じたことのある気配だ。どこでだったろうか。比較的最近のことようにも思えるし、すごく昔のことような感じもする。当然漏瑚も感じ取ったようで、チッと大きな舌打ちをすると私そっちのけで気配の方へと走っていってしまった。どうやら、私を殺すよりも優先するべきことが起きたらしい。
そうとなればすぐに真希ちゃんに駆け寄って安否を確認する。すごい火傷。でもよかった、息はしてる。私の反転術式でどうにかなる状態ではないけれど、せめて少しでも生存率をあげる為に反転術式を施す。同様に七海も。おじいちゃんは、もうダメかもしれない。脈も弱いし、息も出来ていない。内臓までやられているようだ。

「こんなに呆気なくやられちゃうなんて…」

きっとどこかに硝子がいると思うんだけど残念ながら私はその居場所を知らない。恐る恐る、ポケットに入っているスマホに手を伸ばした。
ずっと取り上げられていたけど、連絡手段にとニセモノが私に新しいスマホをくれたのだ。通話機能とSMSしか使えないけど。
電話帳もニセモノの番号しか登録されてない。でもね、小さい頃からもう何回も電話した、あの人の電話番号なら覚えている。
ゆっくり間違えないように番号を押していって、通話ボタンを押した。

「もしもし」

電話の向こうから大きな声が聞こえる。登録してない番号だろうし名乗ってもいないのにこの一言で私が誰かわかったようだ。

「真希ちゃんと七海が瀕死なの。禪院のおじいちゃんはもう駄目かもしれない。……うん、そう。場所は井の頭線のアベニュー口。助けに来てあげて。え、私?私は無事だよ。…うん、うん。…あー、そうだね…」

怒っているのか、呆れているのか、よく分からない声だ。いつもは容赦なくピシャリと怒るのに、怒号は一切聞こえてこないし、少し声が震えているように思う。

「…悪い娘でごめんね」

電話をきる。きっとすぐに折り返しがくるとおもうから登録以外の電話番号は着信拒否にした。
さて、漏瑚をおいかけよう。あの気配のことも気になるし、漏瑚が急いでこの場を去るなんてよっぽどのことだ。
気配の方へ走っていくと血の匂いが強くなってきた。あ、これ、脹相の匂いと一緒にしてたやつ。多分、悠仁の血。それで、この妙な気配の正体は、多分、宿儺だ。

「漏瑚いた!うぇ、なんか燃えてる」
「…なんだ、殺されに来たのか」

JRの改札口付近。予想通りそこには悠仁がいた。意識はない。漏瑚が悠仁に無理やり何かを口に突っ込んでいるけど、あれは宿儺の指だろうか。なるほど、ある程度指を飲ませて、主導権を宿儺に握らせる。そして、

「ここで宿儺を復活させるつもり!?」
「貴様も知っているはずだぞ、我々の目的に宿儺は必要不可欠だ」
「でも悠仁が!」
「ええい喧しい!貴様も消し炭にするぞ!」

漏瑚めちゃくちゃ怖い顔をしている。本当に怖い。一体何本あったのか、次々と指を飲ませて最後の1本になった。2、3本どころの話じゃなさそうだ。
宿儺がこんなところで復活したら、私に残された未来はただ一つ。死。死しかない!

「ゲホッ」

冷や汗だくだくでどうするかどうするかと考えていると、咳き込む声。振り返れば漏瑚に燃やされたどこぞの術師だろうと思っていた燃えている塊はまさかの美々子と菜々子だった。漏瑚に燃やされたのは間違いではないだろうが、どっちかの術式で防いだのだろう、荒い呼吸、怯えた様子で漏瑚を見ている。

「生きておったか」
「え、なんでここに二人がいるの?」
「次から次へと、手間をかけさせるな」

再び二人を殺そうと漏瑚が手をあげる。でも、おかしい。手首より先についているはずのものがない。そこからは、ボタボタと生臭い血が流れている。
瞬時に悟る。目覚めたのだ。呪いの王、両面宿儺が。

「一秒やる。どけ」

こんなんだった?両面宿儺って。私が目の当たりにしたのは悠仁が指を一本食べた時。その時よりも比べ物にならない威圧感。「呪いの王」。伊達じゃない。
どけ、と言われた瞬間に、私と漏瑚は反射的にそこから飛び退いた。

「頭が高いな」

体が勝手に動いて、両膝両手を地面につく。それ程の恐怖。その瞬間には頭の上を突風のようなものが駆け抜けて、後ろの壁が破壊されていた。頬に少しだけ血がはねる。どうやら、漏瑚の頭が少しばかりスライスされたらしい。

「片膝で足りると思ったか?実るほどなんとやらだ。余程頭が軽いとみえる」

やべえ。まじで土下座しててよかった。死ぬところだった。

「ガキ共。まずはオマエらだ。俺に何か話があるのだろう。指一本分くらいは聞いてやる。言ってみろ」

なるほど、この双子は宿儺に用があって指を飲ませたのか。私と漏瑚が感じたのは双子が指を解放したからだったのか。それに漏瑚はすぐに気がついて追った。勝手に宿儺に復活されては困るから。
双子が、ニセモノの傑を殺せとお願いする。夏油様を解放して、と嘆願する。ニセモノが余程許せないらしい。私はもう二度とあの体に触れられないと思うと、あの血を飲めないと思うと、ニセモノでもいい、死なないでほしい、なんてそう思うのに。傑の肉体がそこにある。傑はそこにいる。だからもう二度と殺さないで。そう思うのは、私がおかしいからなのかもしれない。
頭を下げ続けながら、宿儺目の前では異議申立てもできない。ていうかしたら死ぬ。そうやってただ宿儺がどう返事をするのかと待っていると、音もなく、静かに、隣から大量の血液が降り注いでドチャリと重たいものが落ちる音がする。肉だ。私の目の前に転がってきたのは肉。人の肉。目を離せなくて呆然としていると今度はもう一人も殺された。
呆気ない。双子なんて正直私にも勝てない雑魚だけど術師ではある。それなのに、こんなにも簡単に、簡単に殺されるんだ。

「お前はなんだ」

人を殺したというのに血の一粒もついてない手が私の顔を持ち上げる。悠仁の顔なのに、悠仁じゃない。殺意など何一つ欠片も感じやしない。羽虫よりも矮小な存在で、自分の価値を説くことなんて恐れ多くてとても出来やしない。
でもきっと「なんだ」と聞かれて答えなければ死ぬだろう。障害物は避けておく。道端の石ころを蹴飛ばすようなものだ。
何を答えようか必死で頭を回転させていると、宿儺は私の顔を右へ、左へと動かし始めた。まじまじと私の顔を見て、なんなんだと泣きそうになっていると、何か納得したように、笑った。

「お前、屍食姫か」
「…へ?」
「久しいな。しかしわからん。なぜそんな姿をしている。…まあいい。先に呪霊だ」

そう言うと宿儺は私から離れて漏瑚に向き直る。
恐怖と緊張で心臓がバクバク飛び出しそうなくらい跳ねている。死ぬかと思った。死ぬかと思った。
どうやら私は殺される程の罪は犯さなかったらしい。何が正解で何が間違いかも分からない。いや、それよりも。
ししょくき、とは。
屍鬼ではない、はっきりと『ししょくき』と言った。そんな呪霊は聞いたこともないし、資料で見たことも無い。しかも宿儺の私を以前より知ったような言い方。いや全く身に覚えがない。

「おい、邪魔だ」
「えっ、あ、ッ、うそお!?」

浮遊感、どころの騒ぎではない。疾駆する感覚。でも空気の抵抗を全身で感じて、景色がどんどん流れていく。ていうか、投げ飛ばされた。壁にぶち当たってぶっ壊しながらもスピードは中々落ちず、骨が砕け肉を突き破っても止まらない。
もしかして数百メートルは飛ばされただろうか、やっとこさ最後の壁にぶつかって地面にどちゃりと音を立てながら倒れ込む。途中からは呪力で体を守ってたから何とかなったけどなんかやばいところのやばい骨が出ている気がする、が、もう反転術式で治りかけている。あまり気にしないようにしないと。にしても痛すぎる。何が起きたんだとその場にへたりこんでいると私が飛ばされた方向から爆発音。どうやらいた場所が吹き飛んでいるようだ。宿儺と漏瑚が戦っている?ということは、私は宿儺に「ここは危ないからあっち行っててね」てされたってわけ?

「ししょくきって、なんだ」

私のことをそう呼んだ。それに加えて面識があるような言い方。しかも邪魔だと宿儺が思ったのであれば容赦なく私のことを殺していたはずだ。でも殺されてはいない。宿儺の生前の頃の話?仲が良かった?でもなぜ『ししょくき』と呼んだ私に最初から接触しなかったの。悠仁が肉体の主導権を握っているから?それとも取り込んだ指の数のせい?

「この体の原因が、『ししょくき』なのかな」

屍鬼は、人の血を飲む吸血鬼みたいな存在。人の死体に巣食う呪霊で、屍鬼に侵された人間の肉体は日光を浴びれば焼けてぐずぐずになってしまい、肉体を失うとまた新たな肉体を求めて彷徨うような、そんな呪い。
一方私は受肉しているとは言え日光に当たらなくても死なない。でも、人間の肉を必要とする存在。屍鬼とはまた別の呪いだ。人の肉を食べる、屍鬼。屍食鬼。そんなところだろうか。
宿儺と知り合いってことは、私ってば千年も昔から生きてるってことなのか。
今頃漏瑚とどんちゃんやっているのだろうが、行かなければ。
瓦礫を払い立ち上がる。うん、怪我は全部治ってる。地震のようにミシミシと建物が音を立てて揺れているけど、多分宿儺と漏瑚だろう。
行かなければ。私は何者なのか、ししょくきってなんなのか、彼とはいつ出会っていたのか、私の知らない私を知っている彼に、私は会わなくてはいけない。