記憶を辿ろう


五条さんに呼び出された。呪術界ではいつ何が起こるかわからない。取り返しのつかない事にならないように、いくつか『至急』の合図があった。
胸ポケットに入れていた小さな端末が震える。それはその至急の合図の一つ。すぐにスマートフォンを確認する。五条さんからの連絡だった。
【小春を頼むよ】
とてもシンプルな内容。同時に送られてきた位置情報。意味がわからない。しかしこの連絡方法で五条さんから連絡は来たことがない。小春という名前には心当たりはないが、一般人を巻き込むような事態が発生したのかもしれない、と、夕食の最中だったのもお構い無しに私は家を出た。
しかし、何だこれは。
指定された場所に向かうと呪霊の呪の字も感じない、ただの場末のバー。小春という名前を知っているかと店のマスターに聞くと奥のカウンターでのんびりと赤ワインを飲む女性がいた。

「あれ?あなたが七海さんれすか?」

私が近づいたのを察知したのか、振り返り、顔をこれでもかというくらい嬉しそうに崩して私の名前を呼んだ。体も揺れていて、明らかに酔っ払っている。
急いで五条さんに電話をかける。任務へ向かうの車内だったのか、ツーコールで通話に出た。

『あ、小春いた?』
「これはどういうことですか」
『僕のオトモダチなんだけどさ、めちゃくちゃ酒好きで男好きだから七海付き合ってあげてよ』
「付き合ってって…、そんなことで緊急端末を使わないでください!」
『僕にとったら緊急だったからさ。んじゃ、よろしくね』

そう、一方的に切られた通話。もう一度かけ直そうも、電源は切られてしまった。
五条さんにまんまとしてやられたらしい。こんな酩酊状態の女性の相手などしている暇は私にはない。しかし、これでは一人で帰ることも出来ないだろう。放っておくわけにもいかず、後日五条さんにはそれ相応の対価を支払ってもらうと心に決めて、彼女の隣に座った。

「はじめまして、悟くんの友達の小春れす」
「初めまして。七海です」

既に酒臭く、あまり呂律も回っていない。
失礼だとは思ったが、深い溜息がでる。しかしこの目の前の女性はそんなことすらお構い無しに、マスターに空きグラスを注文し、すぐに出てきたそれに彼女は赤ワインを注ぐ。かなり酔っ払っているように見えたが、ワインの注ぎ方の所作は美しく思えた。

「えへへ。外国人さんとは思いませんでした。かあっこいいですねえ」

ニコニコと何が楽しいのか陽気に笑いながらグラスを傾けて、乾杯を促してくる。それに応じて少しだけ音を立てるように、グラスを合わせた。

「…私はクォーターで外国人ではありません」
「ほお〜」

頬はほんのりと赤く、瞳には潤いが満ちてキラキラと輝いている。薄暗い照明に照らされて、服装は薄着、やけに艶かしい彼女の姿に、どこに視線を寄越していいのかも分からず、グラスだけをじっと見つめた。

「…もしかして悟くんに騙されてここ来ました?」

その通りだ、という言葉を言われ、顔を上げる。まさにそうだからもう帰ってもいいかと言ってしまうのは簡単だ。でも彼女の顔を見るとそれすらも憚られる。まるで少女のように潤いをもった瞳に、落胆した表情。彼女もまた五条悟に振り回されてるのだと思うとあしらう事ができなかった。

「…まあ、何かの縁です。しかしもう貴女は飲まない方がいい」
「酔ってないれすよ」
「いいえ、酔ってます」

無理やりグラスとボトルを取り上げ、代わりに水を出してもらう。不服そうではあったが自分が酔っていることを多少は自覚しているのだろう、大人しくそれを一口だけ飲んで、不満そうにため息を漏らしていた。

「七海って苗字ですか?」
「ええ」
「下のお名前は?」
「…建人ですが」
「けんとくん。ふふ、来てくれてありがとう」

春の綿毛のような柔らかな表情。私のことを名前で呼ぶ人は少ない。身内くらいだろうか。慣れなくて落ち着かない、手持ち無沙汰なような感覚。反応に困り、つい酒を煽ってしまう。
そんな私を見て、「おいしいよね、これ」と彼女は私の手に自身の手を重ねる。少しばかり体が硬直し、彼女を見やると変わらず嬉しそうな表情。ああ、確か、五条さんは彼女のことを電話で酒好きの他にも言っていたな。

「ね、チューしよ」

男好き、と。
とろん、と蕩けるような熱っぽい視線。チュー。と言われて思わず目がいくのは唇。ぷっくりとして、ほんのり桃色に色づいたそこに、目を奪われる。
私も、アルコールが回ってきたのだろうか。いや、確かにここに来る前にも既に晩酌をしていたが、酔うほどは飲んでいない。
そもそも普段このように他人と一緒に飲むことすら少ない。ましてや初対面の異性。どうしていいか分からず、堪らずトイレに立ち上がった。彼女は不服そうに口を尖らせたが、案外平気な顔をして「いってらっしゃい」と手を振っていた。
帰ろう。このまま長居したらより面倒なことになるだろう。彼女もまだ意識はしっかりとしていそうだし、タクシーを呼んで、そのまま家に帰そう。そう決めて、彼女の元へ戻ると、先程まで私の座っていた席に見知らぬ男性が座っている。彼女を挟んで、その隣にも。会話を弾ませて、知り合いかと思ったら聞こえてくる会話によるとそうでもないらしい。片方の男は彼女の腰に腕を回し、えらく密着しているし、もう片方の男は度数の高い酒を彼女に勧めている。
しかし意外なことに彼女は抵抗していた。ニコニコと笑いながらも男から離れようとしているし、酒も拒否している。よく聞けば、楽しそうに弾んでいたと思っていた会話も、ただのナンパに絡まれているそれだ。
仕方ないか、と今日何回吐いたかもわからない溜息を吐き、絡まれている彼女の肩に手を置いた。

「失礼。私の連れに何か御用ですか」

陽気に喋っていた男は顔を強ばらせ、悪態をつきながら離れていく。こういう時、クォーターの日本人離れした顔立ちや体格だと楽でいい。近寄り難いとも言われるが。当の彼女は目をパチリと瞬かせて、私の行動に驚いているようだった。

「建人くん、帰ったかと思ったあ」
「…なぜですか」
「うざそうにしてたから〜」

間違いではない。否定できずに無言でまた椅子に座る。
彼女は再びニコニコと笑って私に顔を寄せてきた。素早く私は自分の顔の前に手を出し、彼女の唇が私の掌に当たる。ルージュをつけているからだろうか、少しばかり粘っこく、それでいて柔らかい。
また目をぱちぱちと瞬かせ、彼女はあの綿毛のような笑顔を私に向けた。

「手のひらにリップついちゃった」

少女のように笑い、おしぼりで私の手を拭う。真っ白なタオル地の布に薄紅色の汚れがついて、私の掌は綺麗になったのかもしれないが、彼女の唇は、先ほどまでツヤツヤとしていたのに少しばかりその輝きを失っていた。
飲み直そうよ。と彼女は今度は度数の低いカクテルを選ぶ。赤ワインをがぶ飲みされるよりかはマシかと、それを私は許してしまった。
それから彼女は色んな話をしてくれた。そのほとんどが仕事のこと、自分が経営するカフェの話で、声を上げて笑うような話ではなかったが、不快ではなかったし、彼女の経営する店には興味があった。
毎日ケーキを焼いて
毎日豆を挽いて
毎朝、朝日に照らされながらする店内の掃除はとても楽しいのだそうだ。
そう話している彼女自身もとても楽しそうで、その場所に対する愛情が伝わる。

「好きなんですね、仕事が」

彼女の笑顔につられて、無意識に、口角が上がった。

「うん、大好き」

そんな私の顔を見て、彼女は満足気に微笑む。
素敵なことだと思った。私の仕事に対する思いには『楽しい』なんて気持ちは微塵もない。クソだと逃げ、逃げた先もまたクソで、結局はここに出戻ってきた。
やり甲斐は感じている。この世の中に必要不可欠な仕事。しかし、常に死と隣り合わせで、時には他人の為に自分の命を差し出す必要がある。自分の命だけなら、どれほどマシだろうか。仲間の命すら、他人の為に投げ打ってくれと頼まなければならないことさえある。
やり甲斐は感じている。生き甲斐も。
でも彼女のように、笑顔で語れる仕事ではない。自分の仕事に対する思いに後ろめたさすら感じていると、彼女の華奢で小さな手が私の手を掴んだ。彼女は基本的に、突然触れてくる。

「ねえ、私、建人くんの恋人になりたい」
「…は、」
「恋人、いる?」
「…お酒の飲み過ぎです。落ち着いてください」
「建人のこと、すきになっちゃった」

細く白い指が、職業柄決して綺麗とはいえない私の指に絡み、ぎゅう、と、優しく、大切なものを包むように握られる。
やはりこれ以上飲ませるのは良くなかった。ノンアルコールのもので我慢をさせるべきだった。彼女の顔はまさに私に対して恋愛感情を抱いている顔。いつの日だったか、そうあれは中学生の頃、話したこともない同じクラスの女性に告白された時、あの彼女と同じような顔をしている。

「すき、建人くん」

ただ彼女と違うのはこの目の前の女性は大人だということ。酒に酔って色っぽく、私を完全に、落としにかかっているということ。

「私は初対面の方と衝動的な交際をしたりはしません」
「んん、では私を、彼女にするメリットを言います〜」
「メリット…ですか」

五条さんの"オトモダチ"という時点で、デメリットしかなさそうなものだが。
聞く必要はないと思いながらも、つい、彼女に耳を傾けてしまう。それはきっと、私も酒に酔っているからだ。

「まず建人くんは、お顔がすごーく疲れてるので、仕事終わりにはおいしいケーキを毎日用意します!」
「私はそこまで甘いものを口にはしません」
「え…。じゃあですね、建人くんセットを作りましょう。建人くんは何が好き?」
「…強いて言うならパンでしょうか」
「本当!私、酵母も作ってて、パン焼くから食べてみて。結構おいしいんだよ」
「夕食に毎晩パンは食べれません」
「じゃあパンは建人くんランチセットにしましょう。挽きたてのコーヒー付き!」
「…結構魅力的ですね」
「でしょ?」
「あとは?」
「ん?」
「メリットは、それだけですか」

意地の悪いことを言っているだろうか。けれども私の質問に、想定外だと言わんばかりの顔をして、あからさまに焦っている。確かに彼女の手作りのパンも気になるし、珈琲も飲んでみたい。だがまだ足りない。さあどう答えるかと彼女の反応を楽しんでいる自分がいる。そして漸く思いついたのか彼女はハッと顔を上げたが、すぐに顔を赤らめて、私の耳元に顔を寄せた。

「えっちが上手です!」
「…。」

呆れて、返す言葉もない。ため息をつけばまた焦った様子で「これでもだめれすか!」と酔って舌っ足らずな口調で狼狽えている。
しかし彼女との生活も、悪くはなさそうだと思ったのも事実。五条さんとどういう関係なのかは分からないが、彼女のその、建人くんセットというのを、食べてみたいと思った。

「では、よろしくお願いします」
「へっ」

自分から言い出したのに偉く驚いている。その顔が可愛らしくて、つい、笑ってしまった。
そしてまた顔を赤らめて、「じ、じゃあチューする?」と言い出したので、私は彼女の手をとり、「それは私の家で」と、柄にもないことを言って、その手を引いた。
この後のことは、言うまでもないだろう。

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