あなたを殺すための懺悔



暫く遊び回って足を落ち着けたアパートは狭くもなく広くもなく、居心地がいいわけでも悪いわけでもなかった。中心街に建っているにしては安いアパートだ。それでも、トイレとシャワーが分かれていて、バスタブ付き。おまけにバスタブは猫足の洒落たものだ。金色のメッキが所々剥がれていたが、あえてそれがアンティークな雰囲気さえ醸し出していて、なんとなく気に入っていた。
入浴剤で白く濁らせた湯を掬っては戻し、掬っては戻す。名前も覚えていない男から貰った蜂蜜と花の香りのする入浴剤は、あまり好みではなかったけれど、新しい入浴剤を選ぶ気力も、もう一度湯を張り直すほどの余力も無かった。
顔だけを浮き出すようにして湯に浸かっていると、窓辺に置いていた花瓶の花が枯れている事に気がつく。新しい花を買おうかどうか考えて、買うべきではないなと思い直した。今は昼間から悠々とバスタブを使う余裕があっても、どうせあと一週間もすればこのアパートは引き払わなければいけない。

団長直々に全員集合の収集がかかってから三日が経った。直々にと言っても、シャルナークから通話越しに聞いただけだ。シャルナークは昔から変に過保護なところがあって、定期的に生存確認をしようとする。別に拒むほど疎くも思っていないので毎回日常的な雑談をするのだが、三日前、シャルナークはサリカを散歩に誘うような勢いで団長からの伝言を告げた。クロロはこちらから電話をかけたら七割くらいの確率で応えるくせに、仕事のことになるとどうしてこうも周りくどく伝えてくるのか、理由はきっと一生わからない。
収集がかかった理由はなんとなくわかった。近々ヨークシンシティで大掛かりなオークションがある。団長はそこに目をつけたに違いないらしかった。

ふと、玄関の呼び鈴が鳴った。
家の前で停止するオーラを感じ始めてから、三十分ほどだった。神経質な男のオーラだ。
それからその人物は呼び鈴を鳴らしたのにも関わらず、家主が玄関の扉を開けるのを待たずに中に入ってきた。鍵がかかっていないのを知っているからだ。
その人物のオーラが少し玄関で停止する。いつもならすこし時間を掛けて丁寧に靴を揃えそうなところを、数倍早く通り過ぎるところからみて、随分と早くこちらに来たいようだった。そのままリビングを通過し、足がバスルームの扉の前で止まる。
「鍵は閉めろと言っただろう」
地を這うような、それでも中性的で透き通った声が扉越しに響く。
「クラピカ、今日は怒ってるの?」
バスタブから沈んでいた半身を乗り出すと、水面が揺れてぽちゃぽちゃ音がした。
「ああ怒っている、怒っているさサリカ。どうしていつもこんなに警戒心が薄いんだ。女性の一人暮らしのアパートなんていつ何が起こってもおかしくないとは思わないのか」
「何が起こってもっていうか、何かが簡単に起こるほど弱くもないよ」
「オレが言っているのはそういうことではなくて貞操観念や危機管理感だ」
サクサクと穴を縫い進めるように、正しいことをそのままぶつけてくるのがクラピカだ。思ったよりもはっきりものを言うし、屁理屈は屁理屈だと言って跳ね返す。その姿勢はいつも通りだけど、ただ鍵の話や貞操観念の話がしたい訳ではないだろうと思った。それと、クラピカの声には、怒りと言うよりも、行き場のない強い感情が滲んでる気がした。
扉からずるずると布を引き摺る音がする。クラピカが座り込んだのかもしれない。
弱々しくなったクラピカを見るのははじめてではない。というより、クラピカがわざわざこのアパートまで訪ねてくるとき、彼は毎回ぼろきれみたいだ。倒れこむようにしてやってきて死んだように眠っていくか、逃がしようのない、血のようなどろどろしたクラピカのこころを、少ない言葉でこの部屋に落としていくか。どちらにせよ私はそれでとても居心地が良い。美しくて強かなクラピカの掃き溜めになれればいいと本気で思っている。
「もう何日寝てないの?」
「寝ようと思ったときに寝ている」
「答えになってないけど」
「自分の認識で必要な睡眠は取っているという意味だ」
「それって生きるのに必要最低限のって意味に聞こえるけど」
「オレが寝ていようがいまいが、サリカには関係のない話じゃないか」
今度は泣きそうな、子供みたいな声だった。
じゃあどうして?どうして関係のない私に助けを求めに来たの?突き放して欲しくはないくせに?
そう言いかけてやめる。クラピカは助けて欲しいなんて言えない。クラピカは幻影旅団に対する怒りと憎しみだけで生きてきて、それだけのためにこんなにも強くなった。それだけのために全てを捨てて、全てに手をかけた。救済を求める行為はクラピカのそれを否定してしまうだろうから。
「ねえ入ってくれば?鍵、かけてないよ」
何も言葉は返って来なかった。その代わりに少し経って静かにドアノブが回った。
少し開かれたドアの隙間から侵入してきたスーツには皺一つなくて、逆にそれがクラピカのやつれた顔を引き立てていた。前に見た時よりも深くなった目の下の隈と、白いシャツのコントラスト。
ゆらりと目の前に立ったクラピカの顔は、俯いているせいでよく見えない。前髪が少し伸びた気がする。出会った時よりも影のかかった顔を見てそう思った。
「どうしたの?」
声を掛けてもゆらゆら突っ立っているだけでなにも言わない。今日のクラピカはやはり何かがおかしい。そもそも裸の女がいるとわかっていて、バスルームに入ってくるような男ではないのだ、クラピカは。
暫く腕だけを乗り出して何か言い出すのを待ってみても、何も起こる気配がないので、だらりと垂らされた腕に手を伸ばした。クラピカは抵抗しなかった。指先を掴んでゆっくり引くと、後からついてくるように足が動く。指は死んだ人間みたいに冷たい。生きた姿そのままに人形になってしまったみたいだなあなんて思っていると、クラピカはスーツ姿のままバスタブに足を突っ込んだ。あまりに予想外の行動に呆気に取られていると、そのまま流れるようにもう片方の足も湯に浸かって、とうとうそのまま湯の中に腰を下ろした。クラピカの体積分増えた水が溢れて床に流れていく。あーあ、と声が出た。掃除するのは誰だと思ってるんだ。
ゆるく掴んでいた指先を離そうとすると、強く握り込まれてしまった。
「そのスーツいいやつじゃん、濡れちゃってるよ」
「少し黙ってくれないか」
クラピカはそう言って完全に背筋から力を抜いて、髪をかき上げた。水に濡れたところがそのままの形にとどまって綺麗な顔があらわになる。すこぶる機嫌が悪い。でも、いつもからかったときになるような不機嫌さではない。
「あ、わかった、人を殺したの?」
ピンときてそう言ってみると手を握る力が強くなったのがわかった。
「まだ馴れないんだ」
「馴れるわけがないだろう」
「わかったって、怒んないでよ」
クラピカは怒りの温度に対して、随分と正しすぎる。人を殺すには、殺していくには、歪みきれていないものが多すぎる。
「わからないんだ。私は復讐のために生きてきた。そのためにハンターになった。人殺しにだってなるつもりだ。しかしそれでオレは正しいのか?この怒りは命に変えてでも幻影旅団に返さなければならない。でも人を殺すのが、同胞殺しの幻影旅団のように、人間の命を奪うのが、恐ろしくて仕方がない。オレは赦されるだろうか。クルタの血に、同胞の目たちに」
目からはらはらと涙が溢れていった。迷子になった子供のように、自分が行くべき道を探して泣いている。
立てられた膝を割って、首元に腕を絡めると、クラピカの目から溢れた雫が首筋を伝って白濁の中に落ちていった。
かわいそうなクラピカ、私がその敵だとも知らないで。
「サリカ、君はオレを赦してくれるか」
クラピカは私に請うように私の手の甲にゆっくり額を当てた。彼は私に懺悔しているのだ。
どうかゆるしてください、かみさま。
そう言われてる気がする。
変なの。だって神様はずっと前に死んでいる。神様なんていたら、クラピカの同胞は殺されてないし、私は盗賊なんてやってないはずなのにね。
「赦すわ」
いつか私を殺しても。
クラピカが恐る恐る腕を回してきた。顔を覗き込むと、その瞳は盗みたくなるほど美しい緋の色をしていた。本当に綺麗な目。もうずっと目あかくしてなよ。
いつかクラピカは幻影旅団を一人残さず殺すだろうか。その前に、旅団の誰かがクラピカを殺すだろうか。
そんなことを考えながら、あやすように目の前の金髪をかき混ぜる。どちらでも悲しいけど、クラピカに殺されるのはいいかもしれないなんて考える。怒りを美しく表してしまう二つのあかをみながら、未来がどうなるにせよ、この気持ちはまっしろに隠してしまおうと思った。


かみさまどうかこのひとをたすけてあげてください







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