誰が為の善意か

もう、いいや。そう脳が答えを弾き出した途端あんな必死に動かしていた足は驚く早さで減速していった。
髪を、頬を、肩を伝い濡らす雨は先程までの雨霧が嘘かのように強く道路にも降り注ぎ、それこそ叩きつけると形容するに相応しい。
学校を出てから傘も差さず駆けていた体はすっかり体温を奪われ自分でも驚く程に芯から冷えきっていた。
雨滴を吸い込んだ制服はずしりと重く、道を踏みしめる度濡れた靴下が靴の中で嫌な音を発する。
帰宅し私のこの姿を見ただけで出迎えた彼は事の顛末を把握し、肩で…いや全身で大きな嘆息をつくのだろう。

夕方から雨が降るからと持たされた傘は今頃傘を忘れたと嘆いていたクラスメイトが大いに活用しているに違いない。
目を閉じ浮かぶのは顔を顰めたクラスメイトに傘を差し出す己の姿。相手が何かを言い出す前に矢継ぎ早に予備の傘があるから大丈夫と、ある筈もない予備の傘を取りに教室に駆ける背にかかったのは感謝の言葉。
教室でどんより厚い雲から落ちる雨を眺める傍らそのクラスメイトが校門を出たのを視認してから数十分…教室に人っこひとり居ない状態になってから私はやっと腰を上げた。
雨が弱まるタイミングを伺ってみたものの今日はどうも駄目らしい。短く息を吐き鞄の中身だけでも濡れないようにしなくてはと考えながら下駄箱を後にしたのが10分前。
雨が勢いを増し雷鳴が轟き出したのも時同じくして10分前。

カッターの上にベストを身につけているのが不幸中の幸いか。下着が透ける心配をする必要はなさそうだ。
それこそ頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れの現状を今更どうにも出来るわけでもないし無駄な抵抗は止めてゆっくり歩いて帰ろう──。

「幾ら待てども梓は帰ってこないし豪雨が降り出すものだから迎えに来てみれば…」
目の前に突如現れた背の高くガタイのいい男性は私の姿を見るなり肩を竦ませた。

「朝に私の身を案じて傘を持たせてくれたのにごめんね」
彼は脳内でイメージした映像と同じように全身で深い息を吐いた。私が何を考え如何に行動したのか見通したように。

「人に優しいのは結構だが自分の事がおざなりになっているのは如何なものかな」
「ごめんね。次からきちんと考えて行動する」
私の返答が腑に落ちないと惜しまずに彼は眉間に深い皺を刻んで表した。
己を顧みず時に犠牲にしてまで他者を慮り行動し、それによって彼に謝罪したのはこれが初めてではない。
片手では数え切れないほどにそれを繰り返しているから不満なのだ。

「俺が来なかったらどうするつもりだったんだ梓」
「絶対に来てくれるって信じていたから来ないだなんて想定していないよエミヤ」
名を呼ばれた彼は短くそうかと吐き捨てると冷えきった私の体に腕を伸ばして己の懐に引き入れると頭からタオルを被せた。

「もうひとつ傘を持って来なかったの?」
「万一の事を想定して急ぎ家を出たら忘れて…笑うな」
肌を朱色に染めバツ悪そうにそっぽを向く彼が愛しくて堪らない。
あれだけ降り続いた雨もそろそろ止むかな…と厚い雲の切れ間から僅かに差す光を見つめる顔は晴れやかだった。

極夜