明朝の出来事

枝先の瑞々しい葉を揺らす風音を聞きながらディオネは一心不乱に刃を振り下ろす。
太陽の光が差し込まないうちに寝床を後にし王都から少しばかり離れたこの場所で武器を振り下ろして眠気を、一日の始まりに対して気だるげな己の考えを振り払う。
昇ってきた太陽の眩しさに目を細めながらディオネは額から伝う汗を拭った。

「今日はこれくらいにしておこうかな」
朝から気合いを入れすぎると午後からの執務に支障が出てしまうし、何事も程々が一番だと持ってきていた手拭いと所持品を手に取った。

王都に戻って王や彼の臣下たちと顔を付き合わせる前に不快感すら覚える汗を流そうと更に奥へ足を進める。
数刻もしないうちに開けた場所──広大な湖に辿り着いたディオネは自身の服の紐に手をかけた。
衣服を脱ぎ払って丁寧に畳むと若干の肌寒さを覚える湖の水面に脚先をつけ、そのまま頭の先からつま先まで全身を湖へと投げ出した。
数秒後水面に顔を出したディオネは大きな伸びをしながら鈍痛を訴える指先に視線を落とした。

「日に日に怪我が増えていくなぁ」
やっと左手の怪我が治ったと思えば次は右手、左足と毎日どこかしらを負傷している事に苦笑いをしながらぺったりと張り付いて視野を阻めている前髪に手を掛ける。
アルトリアと共に村に居た時は肩につくかつかないかくらいの長さだった髪も大分伸びた。
最も、髪を切る時間すら惜しく感じて時間の大半を訓練または王の命令に宛がってしまっているのでそうなって当然と言えばそうなのだが。

「そろそろ戻らないと……あの子も寂しがっているだろうな」
ご機嫌ナナメな愛馬の姿を瞼の裏に浮かべながら腰を上げたディオネの視界に、美しい銀の髪が映り込む。

「ディオネ殿?」
「ひっ!ベ、ベディヴィエール殿!?何故このような場所に……」
胸元を隠し、再び湖に身を沈めたディオネの問いに彼は何て事のないように答える。

「ディオネ殿が愛馬に跨って駆けて行く姿が見えたので何かあったのではないかと思い……何度か声を掛けようと思ったのですが集中して素振りをしておられたので今の今まで声を掛けられず、申し訳ありません」
「いいえっ!ベディヴィエール殿の気配に気付かずこちらも申し訳ございません!毎朝の日課に赴いていただけですのでご心配は無用……くしゅっ!」
「体が震えていますよ。私は気にしませんので上がって来られては如何でしょうか」
それが出来れば苦労はしていないのです……!という言葉をぐっと飲み込んでディオネは紫色に変色した唇から乾いた笑いを漏らした。

マーリンが施した大規模な幻術によって円卓の騎士及び兵士達には私とアルトリアは"男"と認識されていると当人は言っていたが、彼の前に裸体を晒すのとそれは別問題。
僅かに眉を顰め顎に手を置くベディヴィエールの若草の瞳は逸らされる事なくディオネへと注がれている。
悩みに悩み抜いたディオネは己の良心とベディヴィエールにひっそり謝罪を述べながら、それはそれは申し訳なさそうに口を開いた。

「実は左胸に酷い傷跡があるのです。怪我はとうの昔に治っているのですが、傷跡は色濃く大変醜悪なので人目に晒すのが幅かられまして」
「そうとは知らず申し訳ございません!後ろを向いておりますのでゆっくり衣類を着て下さい」
ベディヴィエールの人の良さに感謝しながら湖から上がったディオネは髪から滴り落ちる水滴を手拭いに移し、手早く全身から水分を奪い去った。

「お待たせしました」
「もう少しゆっくり身支度を整えていただいて構いませんよ。髪から水が垂れています」
ディオネの白い首筋にぴたりと引っ付いた髪をベディヴィエールの指が触れる。

「ベディヴィエール殿には見苦しいところを幾度もお見せする形となり誠に申し訳ございません」
ベディヴィエールから顔を背け乱雑に髪を拭くディオネに肩を竦め、困ったように笑った青年の手が今度はディオネの手を掴んだ。

「綺麗な髪をなさっているのですからもう少し丁寧に拭かれた方がいいですよ」
「ありがとう、ございます」
今まで外貌を異性に褒められた事がないディオネは顔を真っ赤にしてベディヴィエールに礼を述べるだけで精一杯だった。
あんなに心地よいと感じていた風が今は生温く感じて、非常に気持ち悪かった。

極夜