出会い

湯川ひかるは大学のキャンパスにあるベンチに座っていた。大学構内に植えられたサクラはもう満開を迎え、風が吹くとと花びらが舞い落ちる。ひかるは綺麗に装丁された焦茶色の本の表紙を優しく撫でた。

先程ひかるは後ろから女性にぶつかられた。そしてその女性はひかるに一瞥もくれることなく、そのまま走り去ったかと思えばモバイル転移ポータルで消えてしまった。あの様子を見て察するに恐らく授業に遅刻しそうだったのか。本を落としたことにも気づかないのだからよっぽど慌てていたのだろう。

あれは一体何だったのかしらと思いながらひかるは本を拾った。そしてとりあえず近くにあったベンチに座り今に至る。
ベンチで足をぶらぶらさせながら、ため息をついた。大学の事務に届けようにも彼女は入学したてで授業で使用する教室や施設、食堂くらいしかポータル設定を終えていなかった。
「歩いて行くにも場所がわからないし……。」

これがあの女性にとても大切な持ち物であることは確かだ。今時本なんて持ち歩く人なんていない。だから必ず持ち主に返さなければならない。でもどうすれば。


そうだ。ひかるはモバイルを起動し、大学マップを表示した。しかし画面はノイズに塗れ、到底見れたものではなかった。
「ここは電波が悪いのかしら。」
落胆し、マップを消した。彼女のモバイルの電波状況は赤色を示していた。これはひかるのモバイルが絶望的に繋がりが悪いことを表している。キャンパス内を歩き回り電波状況のいいところを見つけそこでマップを表示、事務の場所を確認。そして事務で落としものを預ける。これが一番適切だと判断した。

ひかるは立ち上がり適当な方向へ歩き出した。
もし人とすれ違えばその時に事務の場所も聞けばいいから早く事が済むわ。


__本当に?


彼女は足を止めた。本を見つめる。一般的な本よりも少し分厚い。表紙には何も書かれていない。裏に名前は?書かれていない。背表紙には?何か書かれていた跡があるが埃が被っていて読めない。傷をつけないようにひかるはそっと埃を擦り落とした。
『醒深潭』
金の字でそう印刷されていた。
「セイ……?シンタン?」
醒深潭、それはひかるの知らない本の名前であった。

彼女は小さい頃から読書の虫で世界のありとあらゆる本をジャンル問わずたくさん読んできた。彼女の家は資産家であったが故に本が断熱材代わりになる程度には沢山所有していた。彼女が生まれた時代には文化というものは蔑ろにされていた。ただ効率の良い生産と消費、国の発展のみを重んじる、そんな時代だ。紙の本なんて資源の無駄だ、そもそも本を読んで何になるというのだ。個々の精神の向上、哲学?それが生産の何に繋がるというのだ。これが今の風潮だ。昔は授業科目として存在した古典、音楽、美術、書道、歴史、倫理は廃止され代わりに基礎工学、情報テクノロジー、政治経済が必須科目となった。
そんな時代にも関わらずひかるはずっと読書にのめり込んだ。主に電子書籍ではあったが、たくさんの本を読んだ。辛うじて国に残された3つの図書館がある県に住んでいたことも幸いして紙の本に触れる機会も人よりもずっと多かったものの、国立図書館に残された本は実学的な本ばかりで彼女の心を躍らせるようなものはなかった。
本ばかり読んでいるひかるを見て馬鹿にするものも少なくなかった。教師たちの評価もあまり良くはなかった。しかし彼女は勤勉であり成績もとても優秀であった為そんな彼女に口出しするものはいなかった。

__この本を読みたい。

あの場所でぶつかったのだから、さっきのベンチに座ってあの人が戻ってくるのを待てばいいじゃない。すれ違いになると厄介だわ、それにこの本は紙の本。貴重だから事務に渡すのも危険かもしれない、内容によってはもしかしたら処分されるかもしれない。私が預かったまま座って待つのがいいわ。
「普通に考えて、あそこで落としたかもしれないって思ってもう一度ここを訪れるわよね。下手に動かない方がいいわ。」
自分に言い聞かせるようにしてそう呟き踵を翻した。

とても静かなキャンパス。人は皆、転移ポータルを使うため誰の姿も見えない。桜がひらひらと舞っている。加工写真のように嫌に青い空が気に食わない。
歩きながらひかるは本のページをそっとめくった。

「あっ!さっきの!」

突然の人の声にびっくりして顔を上げると一人の女性が立っていた。その女性はひかるにワタワタと駆け寄ってきた。
「君はこの本の中身を読んでしまったかい?」
「いえ……。」
ひかるは目を伏せて狼狽えながら返事をした。今まさに読もうとしていたところであったことはもちろん伝えなかった。
「そうかい……ならいいんだが……。」
女性は突然ひかるの顔を覗き込んだ。ひかるはその行動の目的も意図も、女性の感情も何もかもが読み取れず驚き、ただただ狼狽えるばかりであった。

一瞬その女性の目が青く光った。

「え?」

その瞬間、風が強く吹上げサクラの木々は一斉に揺れだし花びらが散り乱れた。
「きゃっ…!」
ひかるは咄嗟に捲りあがりそうになっているスカートを押さえた。女性はひかるから本をひょいと取り上げてぺらりと数ページめくり、何かを呟き本を閉じた。

「拾ってくれてありがとうね。この本は大切な本なんだ。君は紙の本を所有するということはどういうことかわかっていて、かつそのことに対して理解もあったようだから事務に届けないでいてくれたんだろう。感謝するよ。」

風が止んだ。

ひかるは呆然と女性を見つめることしかできなかった。そしてはっと我に帰り先程の女性の発言をもう一度反芻した。紙の本を所有するということの意味……理解……。もしかして彼女は私と同じ部類の人なのか…?という懐疑と期待を抱いた。

「それじゃあね。」
女性はモバイルをいじり始めた。転移するのだろう。
「ま、待って…!待ってください…!」
おっ!と驚き、女性は少しニヤッとした笑みを浮かべた。
「どうしたんだい?」
ひかるは心を落ち着かせるため胸に手を当てふーっと息を吐いた。

「どうして…


ビーッ!ビーーッ!ビーッ!ビーーッ!


女性のモバイルが赤く光を放ち警告音を響かせている。女性はこんなことは初めてだと驚き、慌てふためいた。しかしそんなことは関係ないとひかるは続けた。

「どうして、あの時キャンパス内を歩いていたんですか?ポータルで移動できるのに。」
女性は異常事態を伝えるポータルから目をひかるへと目線を移し興味深そうに彼女の瞳を見つけた。

「“効率”悪くないですか?」

女性は目を少し見開いた後、ふふっ。と少し笑い、そして不敵な笑みを浮かべた。

「君は面白い人だね。」
ハハハ!と腹を抱えて女性は笑った。

「まぁ、とりあえず近所のカフェでも行こうよ。立ち話も何だし。」

赤い光は消え警報音は止まった。二人は大学を後にした。

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