※モブからのDV表現あり


鴨川ボクシングジムには1人女がいる、選手やジム生ではなく事務員兼マネージャーである
そんな彼女の顔に大きな絆創膏が貼られていた

「よぉどうしたんだそれ」
「今朝思いっきり寝ぼけて階段から落ちたの」
「珍しいな」

もうかれこれ7年の付き合いになる彼女に声をかけたのはこのジムの世界王者、鷹村守だった
18の頃に知り合い互いに長い付き合いになった為に目の前で椅子に座るナマエのことは何となくわかってしまう、決してそんなドジをする女ではないということを、約半年前この女に男が出来た、それは盛大にからかったことをよく覚えている、もう二十代後半になってしまったのだ結婚についても考えて当然だろうと鷹村も理解はしていた

「男じゃねぇだろうな」

低い声で呟いた、少し肩が揺れたのが答えだが彼女は「そんなわけないでしょ、ほらつまんない事いいから練習行っておいでよ」といって自分よりも2倍は大きい背中を押した、結果として事務所から追い出され何とも煮え切らない気持ちのままそれを当てるようにサンドバックを殴りつければいつもよりも派手な音がジムの中にうるさいほどに響いた
苛立ってたまらない、奥歯がギリギリと音を立てる、あぁそうだ自分はこの女に惚れているからだろうと鷹村は思った

「新しい事務員のミョウジナマエだ」
「初めまして、ミョウジナマエです、ボクシングについては知識はありませんが精一杯サポートしますのでよろしくお願いします」

そういって頭を下げた彼女はまぁ人並みに美人だとは思った
変わった経歴の持ち主で会長の知り合いの孫でありその繋がりで事務員として雇われたのだという、近頃はダイエット目的などでもボクシングをする連中は増えた、そのお陰で八木さんなどマネージャー業よりもトレーナー業が忙しい日々が増えたせいだろう、もう1人ほど人員が増えれば…と考えて増やしたのがナマエであった

「あの…もう少し脇閉めた方がいいと思いますよ、あと足の部分も、今度の相手の方…」
「あ?」
「鷹村さんほどなら今度の人程度ならパワーで押し切れますけど、多分外人選手相手だと難しくなるからテクニックもやっぱりいりますし」
「…ボクシング知らねぇんじゃないのか」
「したことはないですよ、でも本とかビデオとかはそれなりにみてます」

恐る恐る声をかけてきたかと思えば素人のアドバイスだった、普段ならば無視するところを何故か彼女の意見に素直に従ってしまった
それだけでパンチの威力が上がったのか今までよりもサンドバックは大きく浮き上がった、思わず目を丸くしてみてみたら彼女は嬉しそうに微笑んでいた

「だからこいつをトレーナーにするって本気か?」
「トレーナーでは無いマネージャーじゃ」
「どっちにせよ選手の隣に立つのには変わらねぇだろうが!」
「鷹村…お前とてあの娘の目はそこいらの人間と違うのは分かってるはずであろうが」

ある日鷹村とナマエをみていた会長が言い出したのはナマエを事務員ではなくマネージャーにするということだった、マネージャーはマッチメイクは勿論選手を支える役目が大きい、相手選手の隙や弱点を目ざとくみつけるナマエは腕さえあればボクサーとしていける場所までいけそうな程だった
それもそのはず彼女はこの鴨川ジムに来る前のプロのジョッキーだったのだ、所謂騎手というものである、両親どころか祖父母までもが騎手の出である彼女はいわばエリートだった…だがしかしプロになって一年目の事故により騎手をやめたのだという
だからこそ目が肥えているのだ、相手の弱点をみつけることに対してはプロなのだろう

「私は喜んでお受けします、それで選手を支えられるなら頑張ります」
「事務員としても変わらず仕事をしてもらうことにはなるがいいか」
「俺様は反対だぜ」
「別に構わん、貴様にではなく木村につけるまでのことよ」
「何でだよ!」
「嫌なのだろう」

完敗だった、結局会長の思うがままに鷹村はナマエが自身の専属マネージャーになることを受けた
とはいえもちろんスパーの相手ができるわけでもミット打ちの相手ができる訳では無いのでナマエは基本的に鷹村のマッサージや食生活やそういった細かい部分のサポートに回ることになった
鴨川ジムの看板を大きく背負う鷹村はあまりにも自由すぎるせいだ、少しでも落ち着いてもらうため…そして、何かあれば直ぐに会長に告げ口をしてもらう為のいわば鎖だった
それが気付けば7年もの付き合いである
なにかと目につくようになるが男女なのだからその感情が変わることもあるだろう

「すみません、少し御手洗行ってきますね」

口元を押えてトイレに駆け込むナマエは今日何度目なのか、鷹村は黙って見ていれば心配そうな木村も同じように「ナマエさん調子悪いんですかね」といった、そんなことはわかっているが何となく青木にムカついてエルボーを入れれば彼は地面に沈んだ
残念ながら鷹村の機嫌はよくないのだった
気付けば陽は沈み、外は暗くなりみんなゆっくりとジムから帰っていく、思ったよりも立て込んでいたのかナマエは未だ1人事務所に残っており鷹村もなんとなく残ってしまっていた

「帰らないの?」
「お前こそ帰らねぇのか」
「もうちょっと仕事残ってるから」
「調子悪いんなら帰れよ」
「月のやつが近いだけだと思う」
「女は不便だねぇ」

からかうつもりで鷹村が告げればナマエは思ったより深刻な顔をして眉を下げて同意した、何が彼女を曇らせるのかはっきりとは分からないがそれが男では無いのかと思えた
時刻は21時を回っている、流石にそろそろ帰るかとシャワーを浴びて戻ればナマエも片付けをしていた

「送ってってやろうか?」
「送り狼怖いしなぁ」
「誰がてめぇなんか襲うか」
「そうだね、お言葉に甘えちゃいます」

嘘だ、本当はめちゃくちゃにしたい
今日久しぶりに見た気がする彼女の笑顔に胸がこそばゆくなってしまう、隣を歩くナマエはやはり女だからか身体は小さかった
鷹村の住む家とは10分程の距離にあるナマエの家の前まで送ってやるがナマエは家にあがる階段の前で立ち止まっていた、手を重ねられ思わず驚きナマエをみつめれば

「送ってくれてありがとう、鷹村くんが居たから元気でたよ」
「そりゃどうも」
「それじゃあおやすみなさい」

ようやく家に入っていった彼女の背中を見つめて自分の手に残された熱をみつめた、こんなにも寂しい熱があるんだなと思えてしまい小さく息を吐けば寒空の下で吐いた息は白くなっていた
翌日の事だった、ナマエが珍しく休んだのは
鴨川ジムに来て初めての休みに思わず驚くがここ最近の体調不良を思えば当然かとも思えたが妙な胸騒ぎがしてしまい無性に身体を動かさないと落ち着かなかった

「昨日はごめんね、練習も付き合えなかったし今日は沢山頑張ろうね」
「おまえ…それ」
「え」
「それはなんなんだよ!!」

思わず声を張り上げればジムの中に声が響いた
鷹村が声を荒らげたのも無理は無い、珍しくナマエがいつもとは違う時間にやってきたかと思えば彼女の顔は絆創膏ではなく大きなガーゼが貼られ頭には包帯が巻かれていた、誰がどうみても大怪我で服装も肌は全く見えないほどに隠されていた

「昨日車に跳ねられちゃってね、動けるんだけど結構打撲とか酷いからそれで」
「嘘ついてんだろ」
「嘘じゃないよ、本当に」
「俺様のこと舐めてるのか」
「舐めてないけど…でも、本当なの」

思わず彼女の手首を握ったが当の本人は怒らないでよ。と苦しそうな笑顔を顔を浮かべるものだから鷹村は歯を食いしばって拳を握った、今にでもナマエを殴るのではないかと思えてそれを見ていた一歩や青木と木村たちが慌てて止めに入るが鷹村は大きな舌打ちをしてロードに行ってしまった

「ナマエさん…本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫…鷹村くんに心配させたくないだけだから、みんなもごめんね」

小さく呟いた声は先程割って入った3人にしか聞こえなかった、そのあとすぐに持ち前の明るく通った声で練習再開の声を出されれば思わず全員がすぐに練習に戻ってしまう

腹の中にでかいフナムシがいるような気分だ、気持ち悪くてたまらない、どうしてあいつは隠すんだと、恋人でもないから仕方ないのかもしれないがそこまで頼れない男なのだろうかと思えた
明るく笑うあの女の笑顔を奪ったもの全てが憎らしい、この感情は初めて世界ベルトを奪った時のリング上での気持ちと一緒だ、腸が煮えくり返りそうなほど怒りがフツフツと湧いてくる
結局いつもの倍くらいの距離を走って戻ってくれば夕方になっていた、今日は事務仕事がメインなのか事務所に引っ込んでパソコンを睨みつけるナマエをみつめた

「そんなに見られたら仕事できないよ」

気付いた時にはナマエは隣に立っており困ったように笑っていた、その笑顔はいつもと似たような笑顔でどことなく安心してしまう、けれど腕を掴んだ時にみえたのだ青い痣は腕にもあった、となれば隠していた場所全てにあるのだろう…そう勝手な憶測で考えては苛立ちばかりが募る
ようやくパソコンを閉じてコートを羽織ったナマエが事務所から出てくればトレーニング室には1人鷹村が座って待っていた

「ようやく終わったのか」
「待ってたの?」
「悪いかよ、遅いからな…俺様が送ってやるよ」
「いいよそんなの」
「うるせぇな!なら彼氏にでも迎えに来てもらうか?」
「そ…それは」

完全に脅えた目をしていた
初めて見るその目に嬉しさなどない、いつだってこいつは自分の前で笑っているのに何故好きなはずの男をいわれて笑わないのだ
そんなの答えはみえている

「お前あいつに何かされてるんだろ」
「違う」
「まぁいい、兎に角送らせろ」

それ以上彼女に問いつめても何も言わないのはわかっている、あぁみえて1度決心すると意地でも口を開かないのは過去に彼女と口喧嘩をした経験上わかっているのだ
隣同士で静かな住宅街を歩く、静かで暗くて男女が歩くと雰囲気が出た、どうすればいいのかと鷹村は考えていた、何も話そうとしないナマエに痺れを切らして家に乗り込んでも彼女は喜びも感謝もしない
ゆっくりと家が近づくというのにナマエの足取りは重くなっていき、そして足を止めた

「私ね…妊娠、してるみたい」
「はぁ?」
「ここ最近調子悪かったでしょ?病院に行ったの…そしたら、妊娠してるって」
「今の男か」

小さく頷いた、嬉しい報告のはずなのに彼女はちっとも笑わない、それどころか自分の体を小さく抱きしめて今にも泣きそうな顔をしていた

「本当はあの人とすぐ別れる予定だったのに、あの人別れるって言うとすぐ殴るの…だから、その」
「お前の傷はそいつか」
「別に鷹村くんに助けて欲しいって思ってないよ、でも少しだけ疲れたから話せる人が欲しかったの」
「俺様は別にお前が」

「知ってるよ」

助けを求めれば応じると言う前にナマエは強い瞳で答えた
強い女だ、だからこそ鷹村は好きになった、たかだか2つ年上の女だから強い訳では無い彼女の経験が過去が強くさせたのだ

「ナマエ!」

まるで夢から現実に引き戻すように名前を呼んだのは見ず知らずの男だった、傍から見れば好青年風の男で鷹村をみるなり少しだけ唾を飲み込んだのがわかる
走ってやってきたかと思いきや「彼女がすみませんね、ご迷惑かけてるみたいで」などとほざいて手首を掴んでいた、その力の強さは鷹村がボクサーだからこそわかるもので明らかに相手を痛めつけるような力で握っているのだ、ナマエは怯えきった顔をしていたが鷹村は何も言わなかった
手を引かれ歩き出す時ナマエは小さく口を開いた

助けて

「わかってらぁ!」

仮にもボクシングの世界王者だ、一般人の男に容赦なく殴りかかったのならそりゃあ1秒もかからずKOを取れるはずだが敢えて鷹村はそうしなかった、あえて力を抜いてギリギリ一般人でも立てるような力加減にした
驚いたその男は立ち上がったかと思えば何かを言っていた、こんなことをしてただで済むと思うのか?警察沙汰だぞ…と、だが鷹村も馬鹿では無い、ナマエを自分のもとに抱き寄せて腕をまくった、明らかに転けたものとは違う暴行された後だった、男もそれには何も言えずに目を逸らした

「警察に行くか、このまま縁を切るかどっちがいいんだ」

まぁどちらにせよKOするんだがな…と鷹村は男に呟いて綺麗に顔面に右ストレートを入れればサンドバックよりも軽いせいか男は壁に衝突して1発で失神してしまった
結局ナマエの家に帰るのも違う気がしてしまい、目を丸くしていたナマエを連れて自分のアパートに連れ込んだ、ナマエはマネージャーとしてプロが素人に拳を出すなんて勿体ないと先程の元恋人への心配などもせずにいつも通りに叱りつけた、ほっとする反面大事なことを忘れていたと思い声をかける

「で、どうするんだ腹のガキ」
「どうするもこうするも産むよ、片親になるけど今どき珍しくもないでしょ」
「…それでいいのかよ」
「仕方ないよ、あの人とは無理なんだもん」

確かに片親は珍しくない時代だがそれでも女手ひとつで育てるのは大変な苦労を知るのは目に見えていた
鷹村は握られていた手を重ねて目の前の女を見つめて声を荒らげる

「違ぇよ!おっ、俺様が…」

「俺様がそいつの親父になってやろうかってことだよ」
「え」

あまりにも思わなかった言葉にナマエは目を丸くして重ねられた手と鷹村の顔を何度も見合せて、わけがわかなさそうな顔をしていた
痺れを切らした鷹村が珍しく顔を赤く染めて怒鳴りつける

「何度も言わせんじゃねぇよ」
「違うのそれって…その」
「そうだよ、嫁に来ねぇかってことだ」



もう随分と冷え込むようになったなと息を吐きながら思った
病院の前には大柄な男が1人えらく落ち着きなく立っていた、時折体を動かしているが動きから見てボクシングだろうと思うが近付いて尚のこと驚く、それも当然あの世界ベルトを2本持つ鷹村守なのだから

「鷹村くんお待たせ」
「おう!どうだった男か!?女か!?

先程までの緊張感のある顔が一人の女性が現れたと同時に柔らかくなりまるで花が咲いたように笑った、そして即座に荷物を奪いお腹を撫でた、まだ膨らみもあまりない細い体だ

「まだ4ヶ月弱らしいから分からないよ」
「いつぐらいにわかるんだよ」
「えー、6ヶ月とか?そんなに気になるなら一緒に入ったらいいのに」
「俺様はいいんだよ、で出産予定日は?」
「それがね」

ナマエにとってはじめての検診だった、ドキドキと胸が高鳴ってしまいゴクリと唾を飲み込んだこの緊張感はリングでも味わえないものだ
真剣な顔をしたナマエが同じく唾を飲んだあと嬉しそうに笑った

「七夕なんだって」
「…そりゃお前」
「そう」
「俺様の誕生日じゃねぇか!!」

思わず声を張り上げれば彼女はケラケラと子供のように声を上げて笑うが鷹村は目を丸くしてナマエを抱き上げて顔を寄せた、それはもう嬉しそうに幸せそうに

「というかお前も鷹村だろうが」
「…守くん?」
「あー、くすぐってぇな」

幸せそうに微笑んで彼女のお腹に顔を寄せた、血の繋がりではなく魂の繋がりだと子供対して鷹村は感じながら強く愛する妻を抱き締めながら歩きだす、恥ずかしいと言われても離さずもう二度とあんな顔をさせないと誓って自分と彼女の左手の薬指を眺めるのだった。