「もうね…別れよう」

目の前の恋人は申し訳なさそうな顔をしてそう呟いた
来なれたファミレス、いつもの席、デートだと言わんばかりにめかしこんだその姿はいつみても好みだ
付き合い初めて3年目、特に変わりもせず付き合い続けていたのに彼女はそういった

「おい、どういうことだよ」

怒気を孕んだ声が二人の間に響いた
けれど彼女はやはりいつものつり上がった眉を八の字にして

「もう無理なんだよ、私と鷹村くんじゃ…ごめん」
「だからなんで!」
「ごめんなさい」

律儀に自分の会計分をテーブルの上に置いて走り出していってしまう彼女の背中を慌てて追いかける、どうして…なんで…
ファミレスのドアを乱暴に開いたそこには彼女はいない、ずっと3年間愛し続けているはずの恋人が


「ハッッ!!」

目が覚めれば見慣れた天井がある
枕元の時計を見れば丁度起床時間で自身の中の体内時計は今日も調子がいいものだと感心してしまう
それにしても嫌な夢を見た、ナマエと別れる夢だ、あんな悪夢たまったもんじゃあないと家に置いている家庭用電話が留守電の合図をしていた、適当にそれを流して朝の支度をしていれば聞き馴染みのない女の声が聞こえた

『昨日はすごく楽しかったです、また是非遊びましょうね』

まるで語尾にハートが付きそうなほどの甘ったるい声
これが原因かと気付いて身体中から嫌な汗が出てしまう、昨日珍しくいい試合をした青木村のコンビに気分を良くして飲みに行こうといった
そうすると彼女のいない木村が「俺もそろそろ彼女欲しいな」と言い出した、さすがに彼女持ちが二人いるのだからキャバクラになんて……


行った
これは男同士の内緒だと肩を組んで華やかな夜の世界に足を伸ばし羽目を外した、普段恋人では感じない香水の匂いと肌を感じその1人が鷹村の耳元で囁いた「私もうすぐあがりなんです」アフターではなくあがりの誘いにまずひとつ唾を飲んだ、そのあと視線を下にやれば彼女とは違う寄せてあげられたたわわな胸と赤い口紅がみえた
そして気付けば2人で駅のホテルにもつれ込んで、2.3発ぶちかまして…気付けば家にいた


ジムに行くのがここまで億劫になるのは中々になかった
だがしかし行かないという選択肢はもちろん無く、ドアを開けた、いつも通り練習生達に挨拶をして更衣室に入り着替えをし出れば先に来ていた昨日の戦友ともが顔を青白くさせて立っていた
そして奴らの視線の先には雑誌を片手に立つ老人が1人

「鷹村…キサマこれはなんだ」
「な、なんのことだか」
「見えんのか、では読んでやろう『世界王者、秘密の密会!?美女を片手に夜ボクシング』だと」
「さてなんのことだろうな」
「キサマという男は!一体何度すればっ気がすむんじゃっ」

激昂する会長が鷹村を杖で強く叩きつける、叩かれ慣れたとはいえ会長の言葉は耳に痛いほどであった
騒ぎ立てている間に事務室のドアが開き、鷹村にとって1番問題の存在が立っていた

「会長その辺にしませんとそのうち本気で拗ね始めますよ彼」
「ナマエ、お前さんがそれをいうか!お前さんが1番怒るべきであろう」
「いやぁまぁそうですね」

ようやく会長の猛攻が終わったかと思いきや問題児の恋人ナマエは鷹村をちらりと覗き見たあと小さく笑った

「まぁ監督不届きということで」
「甘やかしすぎじゃ」
「ふふ、会長も怒りすぎたらまた疲労で倒れちゃいますよ、八木さんから美味しいお煎餅貰ってますから少しお茶しましょうね」

ここでもう話は終わりだというようにナマエは会長の肩を押して会長室に向かっていった、戻り際に鷹村をみつめた彼女は「あんまりダメだよ」という顔をしていってしまった
その反応には木村も青木も鷹村をみつめて絶句してしまう、こういった鷹村の不祥事はなにも初めてではない付き合い始めてから未遂も含めれば5.6回目であった
交際前から鷹村の悪癖は知っていたナマエだが、交際をすれば周りも収まると思った、だがしかしそんな期待とは反対に収まることも激化することも無く時折このように事件を起こすのだ

「俺もトミ子にこってり絞られましたよ、付き合いとはいえ〜って」
「まぁそりゃあそうだわな、鷹村さんはどうするんです」
「どうするもこうするも事の発端はテメェだろうが」
「いででででで、俺たちはアフター行ってないですから!!」

チョークスリーパーを決める鷹村の腕の中で木村が叫んでいた、そう言い合っていれば事務所のドアが開きナマエが3人を睨みつけており慌てて3人はロードをしに逃げるように飛び出した
昨日の女はナマエとは反対の女だった、派手な金髪バサバサのまつ毛に濃いメイクに高いハイヒールに胸元の開いた服
男というのは時折どうしようもない部分がある、どれだれ惚れ込んでいても別の食事を食べたくなるのだと鷹村は自分を正当化する、それに対してナマエは黙って聞いてくれた、聞き分けがよくわがままを言わずボクシングに理解のある最高の女だ

「いい女だよな」

いつもの河川敷沿いの道を走りながらそう考えた
柔らかい笑顔に少しキツめの目元だが本人の性格は至って温厚で姉を思い出す、ボクシングを見るときの目といえばまるで子供のようで気分がいい

「鷹村くんの事が好きです」

ある日の祝勝会の帰り道、2人きりの時彼女は真っ赤な顔でそう鷹村に告げた、女は好きだ…だがしかし特定の存在を作る気はなかった
なのにナマエだけはそれでもいいと思えたのはきっと彼女が自分の全てを近くで見ているからだろう
真っ赤な顔で瞳を潤ませる彼女に男心が揺れて

「俺ァよ、縛られるのが苦手だ…そこいらのアベックみたいにイチャつく気もねえし、知っての通りボクシングが1番だ、それでもいいなら考えてやるよ」

本当は素直に受け取りたい言葉だと言うのにひねくれた彼はどうしてもそう強気で言ってしまった
それでもナマエは嬉しそうに微笑んで

「お願いします」

と丁寧に挨拶をした、そういうところからすべて好きだ
好きだから何をしてもいいというわけじゃないのは理解している、それでも彼女を試すように初めの頃にほかの女を抱いた、それが雑誌に掲載されても彼女は眉を少し下げて

「程々にしてね…あと、避妊はちゃんとするんだよ」

などと親のように言うだけだった、本当は嫉妬して欲しかったのかもしれない
彼女が自分を知った顔しているのが嫌だったのかもしれない、兎に角原因は分からないが女遊びを辞めるという選択肢は鷹村には出て来ずに生活が変わるということもなかった
けれど決して愛がないわけではない、鷹村は記念日や誕生日やイベントを素直にナマエと祝いプレゼントも送った、そしてナマエかそれを身につけていると気分も良かった、まるで自分のものだといっているようだからだろう

外は随分と暗くなり疎らだがみんな帰っていく
ナマエも自身の仕事を全て片付け終えたのかトレーニングルームを眺めており鷹村をみては声をかける

「今日話あるからご飯いこう」

嫌な予感がしたが断る理由もないと思い承諾した
周りの人間にも緊張感が走ったほどだ、いよいよあの男も振られるのか?と期待してしまう
シャワーを浴びながら彼女の気持ちがわからずに苛立つ、こんなことならしなければ良かったといつも思った、実際に恋人意外と体を重ねたのは久しぶりのものた、全員帰宅したのか静かな更衣室で着替えをして戻れば用意を終えたらしいナマエがコートを羽織り待っていた

無言で2人で歩く
ちらりと腕時計を見るナマエ、その時計もネックレスもピアスも全て鷹村が与えたものだ、初めこそなんでもいいと言って安物をつけてた彼女に小物くらいは買い換えることも少ないからいいものを使えとプレゼントをしてから彼女はそれを愛用している
貰ったから使っているのか、好きだからか、どういう意図で使用しているのか鷹村には分からない

「今日ここでもいい?」
「いつもここだろうが」
「あいにくオシャレなお店は知らないからごめんね」
「構わねぇよ」

おいおいマジかよ、夢で見た光景とおなじだ
まさか正夢ってやつじゃあないだろうな…と鷹村は冷や汗をかきつつ店員に案内されたいつもの席に腰掛ける、メニューを互いに見合って注文をしたが何も決まらずに取り敢えずドリンクバーを頼むナマエといつも通りにステーキ定食を頼んだ鷹村
そして2人だけの空間に変わり鷹村から問いかけた

「で話ってなんだよ…」
「そのね…あー…」

偉く歯切れの悪いセリフだ、苛立ちと不安でたまらなくなって来てしまう
こんなにプレッシャーを感じるのは人生において初めてにも感じた、耐えきれずに強い口調で彼は言う

「言いてぇことがあるならはっきり言えよ!」

言わないでくれ、そう願わずにいられない
万が一夢と同じ内容なら俺はお前を手放せないかもしれない
最低なことをしているのは自分だとわかっている、都合がいいこともわかっている、なのにこれ程手離したくない女なんて初めてだ

「そのさ」

いうな、頼むからお前は俺様の隣にいやがれ

「結婚しない?」

いう…「は?」

「いや、あぁいう記事が出るのはもう慣れたけどね、流石に少しは心にダメージくるんだよね」
「でも確実なものってなんだろうって思ったら、鷹村くんと結婚するのが1番かな?って」
「だめ?」

極端かもしれないけどね、と付け加えたナマエに呆気を取られていれば店員がお待たせしましたーと間延びした声で鷹村の前にステーキ定食を並べて伝票を置いて帰った
いつもならば直ぐに口につけるのに彼女の言葉に驚き固まった鷹村はステーキ定食に手もつけずに問いかける

「振られねぇのか?」
「私が?」
「いやオレが」
「まさかぁ…反対ならわかるけど」
「そっちの方がねぇよ」
「不安だったんだ?」
「ちーーーっとだけな」
「私はいつもだよ」
「悪かった」

あの傍若無人の理不尽王鷹村守が頭を下げるなんてそれこそスクープだとナマエは小さく笑った
彼からすれば笑い事では無い、だがしかし彼女はテーブルに肘をついて鷹村の顔をみつめる

「本当は腸が煮えくり返りそうなの」

口元を隠す彼女が笑っているのか悲しんでいるのかも読めない
けれど続ける
それが鷹村守と付き合うということなのだろうと、世界を股に掛ける男を止めるなんてそんな大層なことをできる女ではない、それどころか一応とはいえ恋人という立ち位置にいるだけ自分は恵まれているのだと、正直鷹村は聞いていて頭が痛くなった、惚れた女になんてことを思わせているんだと本当にいまさらながらに思えた

「笑っていいよって言うのが、王様の女なんだって言い聞かせたら何とか我慢できるんだけどね」
「我慢しなきゃいいだろ」
「そりゃあ難しいよ」
「なんでだ」
「好きだから、嫌われたくないし」

女なんてワガママじゃないか
月に一度のものでホルモンバランスが崩れて泣いて怒って笑って感情が激しい、なんなら鷹村の相手にしている女なんてワガママなんて可愛いものじゃなかった、あれ買ってこれ買ってあぁしてこうして、とにかく自分至上主義のタイプばかりの中でナマエのような大和撫子はいなかった

「ご飯冷めちゃうから食べて、私もコーヒー入れてくるから」

席を立ち上がったナマエの背中を見て、食事は無駄には出来ないと勢いよくステーキ定食を口の中にかきこむ、ふとドリンクバーコーナーを見ればコーヒーがいれ終わるのを待つナマエに男が声をかけていた初めこそ何かわからないのかと思えばえらく距離が近くニヤニヤと笑うものだから鷹村は手に持っていた空の茶碗を手で粉砕して大股で近付いた

「誰の女かわかってやがんのか」

流石に彼の形相をみた男は顔を青白くさせて慌てて逃げだした、そんな弱い男が人の物に近づいてるんじゃねぇぞ…と悪態ついていればナンパされた本人は至って気にしたような顔もしておらず感謝の意を述べるものだからゆっくりと鷹村はむかっ腹をたてていった

「結婚つったよな?しようぜ」
「ムキになってる?」
「なってねぇよ、お前を他のやつに取られたくねぇからだ」
「鷹村くんはほかの女のものになるのに?」

痛いところを突くな、う"っと顔を顰めた彼は胸元あたりの恋人に視線を向ければ彼女は酷く悲しそうな顔をしてきた
そりゃあそうだ、口先だけでどれだけ好きと言ってもあんなことをしていたら意味が無いのだ、説得力がないのは自分自身がよくわかっている

「俺様を独り占めする権利をお前にやる」
「それって私にメリットってある?」
「当然俺様の独り占めができるからな」

嫌なのか?と彼女の目を見れば少し間を置いて柔らかく笑う

「素敵なプロポーズだね」

ドリンクバーコーナーの前でいつまでも2人でいれば邪魔になると彼女に手を引かれて席に戻れば粉々にされた茶碗がありナマエは苦笑いをしてコーヒーを一気に飲み干してレジに向かい外に出た
少し遅くなったせいか外は人も少なくなっていた、ナマエは鷹村の手を引いて足取り軽やかに歩いていた

「ねぇ鷹村くん、結婚しよう」
「…さっきからそう言ったんだろうが」
「私意外と遊ばないで欲しい」
「おう」
「ボクシングと私だけがいいな」
「おう、守ってやるよ」

そういえば彼女は酷く嬉しそうに笑っており、どうしてこの笑顔を守ってやらなかったのかと自分を責めてしまう
本当はこの笑顔に守られていたのは自分だと気付いてしまう、その笑顔で「いいよ」と言われれば自分は悪くないと正当化してしまうのだ

「愛してるよ」

暗い住宅地でナマエはそういって鷹村の胸ぐらを掴み寄せて唇を奪う

「誰にも渡さないから」

強い瞳だ、まるでボクサーのような熱い瞳
溜まった唾を思わず飲み込んで彼女を見つめ鷹村は自分を掴む彼女の手に自分の手を添えた

「俺様を精々食い散らかしてくれよ」

噛み付いて手放さないで欲しい、そう願えば彼女の強気なつり上がった眉が嬉しそうに上にあがって唇を重ねられる
まるでもう二度と離さないというように、鷹村はその強引なキスが心地よく思わず何度も唇を重ね合わせたのだった。