「いやだよ…」

もう涙で前がみえない、だけど目の前の一郎くんはいつも通りの平然とした姿で立っていて私の髪を撫でる

「別に別れるって言ってるわけじゃないだろ、ジムが別々になるだけだ」
「でも…高校だって今年で卒業だし、会えなくなりそうで」
「まぁな」

あんなに熱い目をした彼を見たのは初めてだった、幕之内くんと出会って一郎くんはいい意味で変わった
今迄はただお父さんの背中を追いかけるボクシングだったけれど良きライバルをみつけたから彼はますます強くなるだろう、だけど離れたくなかった恋人として同じジム仲間として

「好きなのは絶対に変わらないから泣くなよ」
「絶対、絶対…好きでいてね」
「あぁそれにデートだってするし朝のロードくらいなら一緒にできるから安心しろってば、それにナマエがいるとオレも集中できない時があるしな」
「なんで」

突然の爆弾の投下に思わず驚いて声を失う、だって私一郎くんの邪魔をしていたなんて思わなかったから
もしかしていつも隣で同じメニューこなすのか嫌だったのかな?
そう思っていたら少し彼は恥ずかしそうな顔をして

「お前の練習してる姿が好きだから」

私も!と大声をだして一郎くんに飛びついた、体幹がしっかりしてるから体が崩れることなんてなくて私の背中に手を回して優しくキスをしてくれた、うん…うん…一郎くんのことが大好きだ
それから一郎くんは直ぐにジムを変えた、川原ジムに行ったらしく遠くは無いとはいえ電車を乗ったりしなきゃいけない、会えないわけじゃないし家だって引っ越してるわけじゃないからよかった


そんな日々を過ごして
そして気付けば数年、一郎くんとは離れ離れになっても寂しくはなかった、試合にはいつも来てくれるし休みが合えばデートもしたし時々スパーの相手にもなったし

「それで一郎くんが」
「やっぱり宮田くんはかっこいいですよね」
「うんうん、この間なんてね」

特に私には良き理解者が出来た、それは私の恋人のライバルである幕之内一歩くんである
彼のボクシングは一郎くんとは真反対で性格も反対だ、それでも幕之内くんは初めて一郎くんに出会った頃に心底惚れて憧れていたのである
同じく私も一郎くんに惚れて憧れて、その結果ボクシングを始めた身である、私達には共通点が沢山ありそして同じジムということもあり仲良くしていた、暇さえあれば話をしてお茶をして時々彼の家の手伝いもした、特に彼には好きな人がいるようで彼の話を聞くだけでまるで少女漫画読んだ気分でキュンキュンしてしまうのだ
そこいらのこのジムにいる下品な大人(誰とは言わない)とは違う、そんなピュアな恋愛に胸がときめいて、そして同じような気持ちになるのだった

「それでね幕之内くんったら」

約1ヶ月ぶりのデートだと言うのに恋人のナマエはオレなんてそっちのけで幕之内の話に夢中だった
鴨川ジムを抜けてからも女ひとりであんなに厳しいジムでボクシングを続けてくれてることは内心嬉しかった、女だてらに容赦のない拳とテクニック、女にうつつを抜かすつもりはないがナマエは特別だ、だからこそ何年も付き合ってきている
なのにいつからかデートのメインの会話は幕之内だ、オレだって嫌いという訳じゃあない、言いたかないが認めてはいる、けれどまるでオレなんて要らないように他の男の話ばかりをされれば気が悪いったりゃありゃしない

「一郎くん」
「なんだよ」
「体調悪い?具合悪そうな顔してるよ」

そういったナマエに思わず顔を背ける、こんなくだらないことを伝えられるわけもない自分のプライドを大事にしていた
だがしかしこういった時に限って引く気は無いのか随分と聞いてくる始末で思わず強い口調で「別に何も無い」といってしまえば少しだけ寂しそうな顔をされる
それがまた自分の中のなにかに触れてしまい言いたくもないようなセリフが零れた

「そんなに幕之内が好きかよ」
「え…」
「答えてくれ」
「そりゃあ(友達として)好きだよ」
「…オレよりもか」
「(一郎くんは彼氏だから特別だし友達としてなら)うん」

雲ひとつない晴天の下で二人の間には雷が落ちたように感じた
宮田は足を止めて地面を見つめて拳を血が出そうなほど握りしめる、その姿にナマエはさらに慌てて手を取ろうとするが彼は余裕もなく払い除けてしまう

「別れよう」
「な、なんで」
「オレじゃなくていいんだろ、悪いな分かってやれてなくて」

待ってとナマエがいうまえに彼は走り去っていった、追いかけることも出来ずに彼の背中を見つめながら涙ひとつも出なかった、それは悲しさを通り越していたからだろうか

「練習する気がないから帰らんか!」

鴨川ジムに響き渡った怒号は周り全員を萎縮させるほどだった
怒られた当の本人は珍しく随分と落ち込んでいるようだ、せっかくミット打ちだというのにあまりのやる気のなさが伝わったのか会長に怒られリングを降りてしまう、あの日から食事が喉も通らない、連絡をしても帰ってこず1人で家に入れば自然と涙が溢れる始末で毎日目が腫れぼったかった
隅の方のベンチに座ってグローブやバンテージを片しているナマエの横に座った鷹村は反対にバンテージを巻き始める、どうやら代わりにミット打ちをするようだ

「何落ち込んでやがるんだよ、もしかして宮田と何かあったな?」
「鷹村さんに関係ないです」
「オレ様が当ててやろう…ズバリ、別れたな?」

その言葉にナマエは鷹村が座っているベンチを勢いよくひっくり返した、あまりの彼女の暴れぶりに目を丸くしつつも冗談交じりに

「これでようやくオレ様のところに安心してこれるじゃあねぇか、よかったな」

と本人は至って真面目に慰めの言葉を告げたつもりだが彼女の目から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていくものだから流石に慌てて駆け寄る、鷹村がナマエを泣かせたと知って全員が囲い込みなんだなんだと慌てふためく

「お…おい、何も泣かなくていいじゃねえか、宮田以外にもいい男はいるはずだ」
「居ないんだもんあんなにかっこよくて強くて素敵な人いないもん」

そのままうずくまって泣きじゃくるナマエに流石の王者も頭を抱えた、近くの青木に小銭を投げてココアを買ってこいと命じてベンチを片しつつ鷹村は考えていた
そもそも女嫌いの宮田がこの女と付き合い始めたことは当初驚いたが2人とも随分と仲が良く別れる素振りはなかった、それどころか会う度にナマエの様子を聞いてくるしまつであちら側も随分彼女を好いているようにみえていた、ここ数年の変化で大きいと言えば遠距離になったりジムが変わったりだがそんなことであの男が負けるわけもないだろう
となれば何かほかに原因があるのでは?と丁度戻ってきた青木からココアを受け取って渡してやる、少し落ち着いたナマエとベンチに座り話を聞いてやる

「で?どうやって振られたんだ」
「突然(幕之内くんが)好きか?って聞かれて、好きって答えたら振られました」
「…おかしいな、そんなので振られることねぇだろ」
「でも現実ふられたじゃありませんか!!」
「物を投げるな!オレ様に当たるな!」

再度暴走したナマエがベンチをひっくり返した、鷹村はもうこの女はダメだと内心嘆きつつもなんだかんだで可愛い後輩たちをこのまま別れさせたくはなかった
結局その日から1週間は来なくていいと会長に厳しくお叱りを受けた暴れ馬のようなナマエはその一声でとぼとぼと怒られた犬のような背中を見せて帰っていった

「それで話って」

時刻は21時半を回っていた、ジム終わりに話があるから来いと呼ばれ久しぶりに会う男は酷く怒ったような顔をしていた

「ナマエを泣かせやがってどういうつもりだ」

鷹村にとってはナマエは女の唯一の後輩だ、健気で真面目で少し抜けていてけれど芯が通っていて男なんかよりも随分といい性格だった
簡単に言えば彼にとってのお気に入りの後輩なのである
だがしかしそのお気に入りのひとりには目の前の宮田一郎ももちろん入っている、かわいい後輩2人ではあるもののナマエは妹のように思う時もあったそんな存在を泣かせる男にした覚えはないと思っていた

低い男の声にどんな話をしたかは分からないが少しだけ冷や汗が背中を伝った

「アイツが好きなやつがいるっていうから別れたまでだよ」
「ンなわけねぇだろ」
「知らないくせにオレたちのことで口挟まないでくれよ、話はそれだけ?帰るよ」

通り過ぎようとする宮田の首元のシャツを鷹村は掴んだ、相変わらず馬鹿力だなと感じつつも彼の隠されない怒りについて宮田も同じく怒りが込み上げてきた、誰よりも泣いて怒鳴って暴れ回ってやりたかったのだから仕方がない

「テメェふざけんじゃねぇぞ」
「ふざけてなんかねぇよ」
「ナマエが泣いてても気にならねぇのか」
「あいつがオレを振ったんだ、泣きてぇのはオレだよ」

情けなくてしょうがないと宮田は歯を食いしばっていた、その言葉にさらに訳が分からなくなってしまう

「おい、聞いてる話と違ぇぞ」
「は?」
「アイツはキサマに振られたって」
「そんなわけないだろ、幕之内のことが好きか?って聞いたら「うん」って言いやがったんだ」

鷹村は止まった、1分ほどしてからこの2人が盛大な勘違いを引き起こしていることに気がついた
普段察しが悪い男でもわかったことをこの2人はわかっていないのかと思うとため息がこぼれてしまう

「あーそういうことか」
「なにがだよ」
「とにかく一度ちゃんと話せ、言葉が足りねぇんだよアー馬鹿馬鹿しいクソして寝よっ」
「だからっなんのことだよ」
「…あいつはお前一筋だよ、馬鹿なくらいな」

そう言いきって帰っていく鷹村に苛立ちを感じつつも冷静さを取り戻した宮田はひとつ深呼吸をして携帯を開いてメールを一通送った


まぶたの腫れは引かない、氷やら冷やしたスプーンを当てても中々ダメで取り敢えず分かりにくいようにと縁の太い伊達メガネをつけてみれば少しマシに見えた気分になった
狭いワンルームの部屋を夜中にもかかわらず騒がしく片付ける、数分前にチャイムが鳴ったからだ、こんな時間に非常識だと思って居留守を決め込もうとしたが何度もチャイムを鳴らされて仕方なくドアフォンを見てみれば愛しの恋人がいたのだから
待っててとは伝えたものの家の中は大荒れだ、毎日プロとは思えないほど不摂生な生活を送りお酒の缶が転がっているのを慌てて片付けて兎に角マシな見た目に…と思っていたが短気な彼はいい加減にしろと言いたげにまたチャイムを鳴らした

「凍死させる気か」
「ごめんなさい」
「まぁいいけどな」
「コーヒー入れるね」

久しぶり見た一郎くんはやっぱりカッコよかった、けどどこか不機嫌で私はやっぱり何かをやらかしていたのだろう
部屋の中をきょろきょろと見渡す彼に一応掃除はしたから大丈夫だと思いたいが何となく落ち着かずにコーヒーを2人分入れてテーブルの上に置いた
向かいあわせで座る中互いに言葉は出てこずに時間だけがすぎていき、時計の針が嫌に耳に入ってくる

「なぁ」「ねぇ」

ようやく沈黙を破ろうとしたのに互いの声が重なり合い益々話しづらくなってしまった、互いに譲り合うがどうも噛み合わないこんな事は初めてかもしれない
それから結局先に折れるのは意外にも短気な宮田の方だった

「暫く休みなんだって?」
「…うん、会長さんに怒られちゃって」
「何してんだよ」

本当は言いたかった、一郎くんに振られたせいで私はダメになったやっぱり私は一郎くんが居なきゃ何も出来ない愚図であると
けど今はそんな場合じゃあない、きっともっと大事な話をしに来たのだろう付き合ってる頃に借りてたビデオとか記念日に贈りあった物を捨てろだとかお前のこういうところが嫌だったとか

「オレのことを嫌いになったのか」

湯気を立てるコーヒーを見つめている時静かな部屋の中で彼の声が溶けていった、言葉の意味がわからずにナマエは思わず顔をあげて目の前の彼を見つめれば酷く真面目な悩ましい顔をしていた

「え…な、なんで、逆に一郎くんの方が私の事嫌いになったんじゃないの?」
「なるわけないだろ」
「だって私シチューにご飯入れるタイプだし、お味噌汁でねこまんまするタイプだし」
「米が好きなのは知ってる」
「じゃあ下着ここ5年くらい変えてなかったりとか、一郎くんから貰った服しか着てないこととか、周りの人に一郎くんのことめっちゃ言いふらしてることとか」
「下着は変えた方がいいんじゃないのか…だからどんなことでも嫌いになってるわけないだろ」

彼は酷く呆れた顔でため息をこぼしていた、ナマエはますます訳の分からなさそうな顔をするがそうしたいのはこちら側だと一郎は思っていた
久しぶりにみたナマエは少しだけ窶れているようにみえる、鷹村から1週間謹慎処分を受けているとは聞いていたが別れて数日でここまでになるとは思いもよらなかった

「それより幕之内とはどうなんだ」
「本当一郎くんは幕之内くん好きだね、元気にしてるよ」
「好きなのはお前の方だろ」
「そうかな」

困ったように笑うナマエにどうしてだと聞きたかった、お前はあいつが好きなんだろう?だからオレは別れたのに
好きならあいつに助けを求めて甘えればよかったんだ、なのにどうして別れたオレを想うように言うんだ

「私は一郎くんしか好きじゃないよ」

泣きそうな顔でそういってナマエは三角座りをして顔を隠すようにしてしまう「なぁ」と声をかけても彼女は返事もしない
訳が分からずに苛立ちだけが募る、いつもそうだ短気だからすぐに苛立って彼女を傷つけている自信はある、無理やり手首を掴んで顔をあげさせれば情けないほど真っ赤な顔で涙を貯めていた

「お、おい」
「未練たらしいってわかってるよ、でも…でも私一郎くん以外好きになれないんだもん…一郎くん以外考えられないんだもん、なのに突然振ってきたかと思いきや優しくしてきたりさぁ、好きじゃないなら勘違いさせないでよ」

諦められないよ。とナマエは大きな目から涙を子どものようにこぼしていった

「好きだ」

謝ろうと口を開く前にその言葉が先に出た、え?という小さな声が部屋に消えていく前にその体を抱きしめて背中に腕を回してもう一度言った
ただそれだけしか言葉が出なかった、自然と顔を見合って近付いてキスをした「私も」と鼻を垂らしながらいうのがこいつらしいなんてちょっとだけ笑ってしまいながらもようやく冷静になって互いの心境や今回の件についてしっかりと話をした

どうやら勘違いをしていたと2人が気づいたのはそれから1時間後の事だった

謹慎処分の開けたナマエは酷く嬉しそうに笑ってジムに入ってきた、しっかりと会長達には謝罪をして許可を貰いまた練習に打ち込んだ
その代わり鷹村は珍しく目の下に隈を作って今にも倒れそうな顔をしていた

「鷹村さん今日は一緒に帰りましょうね!」
「断る!貴様らの惚気を聞きすぎてもうオレ様は死にそうなんだ!」

あの日の仲直り以来毎日ナマエと宮田から電話やら家やらで惚気を聞かされ続ける鷹村はどうやらキューピットのつもりが馬に蹴られる側になってしまったようだった。