少女にとってそれが初恋という訳ではなかった
それこそ遡れば小さな恋は幼稚園時代からあったものでそれが歳を重ねるごとに重く大切なものに変わっただけだ、少女は奥手で自分から行動に移すことは無かった、その為小さな恋を見つけても叶う気はしなかったしそれでも不満はなかった
そんな少女にも大きな恋が現れた、年上の正直その相手は他人から見ると優しい雰囲気の男にはみえなかった、事実どちらかといえば意地の悪い他人から"悪魔"なんて呼ばれるような男だった
それでも少女からしてみれば彼は立派な1人の大人の男性でそれが子供ゆえの憧れかは分からないが恋心になっていた

「アクタベさんのことが私好きなんです」

祖母の持っている建物を一部借りて探偵業をしている彼と気付けばそれなりに仲が良くなり、仕事を手伝うようになった
2人きりの事務所は基本的にとても静かであり彼女はそれさえ好んだ、静かな部屋の中、本を捲る音、コーヒーの香り、なんとも言えぬ古書や書類の匂い、それらは自分とは無縁なようでいて近く感じてミステリアスで魅了される
時間給のバイトとして雇ってもらって気付けば1年、高校三年になった少女はある日部屋の暑さなのか仕事の疲れなのかそんなことを発した、男は本を読む手を1度止めて顔をあげて少女のデスクをみれば彼女は「あ、間違えた」といった顔をしていた
別にいうつもりは全くなかった、仕事をしてふと身体が固まった為にほぐそうと背伸びをした時に彼を見たときその顔をみて自然と言葉が漏れてしまったのだ

「ありがとう」

たった一言、それだけを告げた彼にほっとした様な残念なような気がしてしまう
そのまま無言になってもう一度仕事に戻ろうとした時男はいった

「高校生に手を出すほどオレもゲスじゃないから、卒業したらね」

その言葉はいったいどういう意味なのだろうかと少女は思った
だってそれは卒業したら考えてあげる、なのか卒業したら付き合っていいよ、という意味なのかはたまた高校生はそういう風に見れないから諦めて欲しい。という意味なのか
全くもって分からないが少女は「はい」と健気にいい子ぶった返事をした
翌日バイトに行くのは正直億劫だったがいってみれば彼は居らず今日の仕事内容のメモ書きが残されており静かにそれをこなしていれば彼が帰ってくる間もなくタイムカードを切って帰った、そんな日々を過ごしたあとに再会した彼は何やら不思議な道具やらなんやらを片手に「ちょっと海外旅行にいってた」といって戻ってくるものだから「そうだったんですね、しばらく帰ってこないから心配しましたよ」なんて話をしたらいつも通りに感じてまたいつも通り打ち解けてしまった

それから2年後、少女は大学生になった
高校卒業と共に事務仕事とは別で悪魔の召喚やら生贄の用意なんかで忙しなく過ごし新しいバイトにきた佐隈とも仲良くなった
あの時の話を彼女は薄く覚えているが特に互いに何かが変わることは無かった、二人で出かけることも特別なにかをすることもなくただいつも通り二人で海外までグリモア回収をしたり仕事終わりに食事に行ったり、家まで車で送って貰ったり程度でそんな事は昔からあったことのため何も特別なことは無かった

「じゃあお先失礼します」
「送ってくから、もうちょっとまってて」
「わかりました」

暗くなった外を眺めて明日は一限からなんてことを考えつつ手持ち無沙汰になってしまったことにソワソワしてテーブルの上に置きっぱなしであった雑誌を手に取る
"カップルで行きたい旅先スペシャル"と書かれた雑誌は到底今椅子に座って眉間に皺を寄せている男のものには思えず、そのまま本を開いて読み進める、どこもかしこも仕事とはいえアクタベさんと行ったところだな。と思っていればパソコンを閉じる音が聞こえた

「お待たせ、いこうか」

ジャケットを肩にかけて車のキーを指先で持つ彼は何年も過ごしているのに変わらないなと感じられた
下に降りて駐車場にある乗り慣れた車の助手席のドアを開けてシートベルトを締めれば早速車は走り出す、徒歩10分程度の場所だから大丈夫だといっても毎度送ってくれる彼の優しさに甘えた
ラジオも音楽も掛からない無音の数分間がいやでは無かった
見慣れたアパートが現れて降りる準備を始める、車が止まりシートベルトを外しいつも通りありがとうという前にふと思い出して口を開いた

「すみませんが金曜日早上がりしてもよろしいでしょうか」
「いいけど、何か用事?」
「はい、大学の飲み会がありましてそれに参加するので」
「そう・・・女の子だけ?」
「いや、男の人もいると思います」
「何時から」
「18時から21時くらいには終われるかな」

珍しく掘り下げて聞いてくるものだと感じつつもなにか急ぎの仕事でもあったのだろうかと不思議に思ってしまう
携帯のカレンダーに打ち込んだらしい彼は「わかった」と一言いったのを最後に別れの挨拶を告げてドアを閉めた
部屋に入るまで見守ってくれている彼をみて嬉しさに胸が高鳴りながらもドアに入る前に見えない可能性があるものの手を振った、どうやら見えたのか確認をして車が発信したのを見て今日もいい1日だったなんて思うのだった

「それじゃあ明日は私いませんから念の為急ぎのものとかは全部済ませて必要書類もまとめていますから、何かあれば」
「うん、明日行くの?」
「はい、学校終わりにちょっと用意してからですけど」
「そう」
「なにか?」
「いや、楽しんで行ってらっしゃい」

木曜日の帰り再度飲み会の旨を伝えればどことなくソワソワとした様子の彼に疑問を抱く
考えすぎなのかもしれないと思いつつも少しは自分のことに悩んでくれているのかと思うと勝手に舞い上がってしまった
本当に恋人だったなら異性との酒の席も行かなかっただろう、だがしかし過去のあの話は所詮夢物語のようなものでナマエにとっては過去の恋だった、アクタベさんへの気持ちは少しだけ封印して万が一いい人がいれば恋をするのもいいかもしれないと思いながら目を閉じた

駅前の居酒屋は金曜日のせいもあって人々の喧騒に塗れている、そういえば事務所のみんなで飲んだことは無かったと思いつつ案内された席に座って適当にビールを頼んで大学生らしい宴の波に飲まれていく


金曜日に近づくに連れてアクタベさんの様子がおかしかった、明らかに機嫌が悪い、舌打ちは多いしアザゼルさんやベルゼブブさんに八つ当たりが行く、その度に事務所が汚れるのでやめてほしいのだがそれをいうのも恐ろしい程だった
そんな中でナマエちゃんがいった

「さくまさんすみません、金曜日飲み会があって事務所に来れませんので」

あぁそういうことか。と納得したこの鬼悪魔のような上司が理由なく機嫌悪いのは月に1度あるのだが今回はどうやら原因があったらしい
アクタベさんは口に出してるのか知らないし、ナマエちゃんもどうか知らないが2人は互いを好き合ってる、私が知らないだけで本当は付き合っているのかもしれない、だけどそんなことは微塵も出さないあたり年下なのにナマエちゃんは案外大人なのかもしれない
この間もカップル向けの旅行特集がある雑誌を置いていれば「ここアクタベさんといったところばっかりですね」なんて笑いながら話しかけているのを見た、え?旅行なんて行くくらいなんですか?と思ったがどうやらそうらしい。
大抵の人が彼を恐れ泣き喚きそうなのにナマエちゃんはアクタベさんと長い付き合いだからか何も気にした様子はないのか普通に話しかけるし、どことなく楽しそうだった

「なぁさくまさん」

お通夜か死刑台を並んだ死刑囚なのか分からないがそんな重たい空気の中癒し枠の彼女がいない事務所で声をかけられた
少しだけ肩が震えて聞きたくないな。と思っていればそんなことを気にせず彼は続けた

「彼氏いるのに飲み会行くのは女性としてどうなの」

絶対あの子のことじゃんと思いつつも流石に声も出せなくなりPCをタイピングする手を早める、隣のアザゼルさんが「アクタベさんあかんで、こいつにそんなん聞いても彼氏もおらんねんから分かるわけな」グリモアが投げつけられて顔が潰れた、言わんこっちゃない

「そっそうですねぇ、仕事とか学校とか付き合いの上仕方ないこともあるんじゃないでしょうか」
「彼氏がいても?」
「そういうものですし、まぁ心配なら迎えに行ったりとかするのがいいのでは」

そういうとアクタベさんは何となくそうかと納得したような顔をした、まぁこの人の場合はどれだけ誘われても基本的に飲み会には行かないし依頼人と深く関わることもないから分からないんだろうな
というかやっぱりあの二人付き合ってたんだ。なんて思いつつ早く帰りたいと思うのだった


サークルにも部活にもどこにも所属せずにいたため初めての大学の飲み会は学年や学部問わずなものだった、じゃあなぜここに彼女が来たかと言えば高校時代からの友達にどうしても来て欲しいと言われて誘われたのだ
男子7割女子3割の飲み会の席は正直どこも飢えたケモノの目が光ってはいるが気付くことは無い、一人暮らしの彼女からしてみればタダ飯タダ酒は有難いことこの上ないというだけだ
ふとこんな大衆居酒屋にはあの人と来たことはなかったと思った、いつも静かなレストランやカフェでお茶をするくらい、人混みや騒がしい場所が嫌いだから自然と避けてしまっていたのだ
男女が絶妙にいい雰囲気になる中でもナマエはひとりただアクタベのことを思っていた、自身の隣に座る男の甘い言葉に振り向きも聞こえもしていていないほどで彼女は気付いていないが新しい恋をするのは到底難しいのだ
ふと震えた携帯に思わず取りだしてバレないように開けば想い人からのものだった

"もうすぐ21時だから店の前にいる"

その言葉に顔を上げてみてみれば時刻は21時を回ろうとしていた、慌てて立ち上がって制止する男の声も聞こえずに立ち塞がる者を物理的に跳ね除けてコートと防寒具とカバンを手に取って慌てて店の外に出る

「もういいの」
「はい」

車の外で彼はただ静かに待っていた、慌てて近付けば彼は自然と車の中に入っていくので後を追うように助手席に座る
ラジオも音楽もない車中はとても静かで酔いの回った体には心地いいほどだった

「場所よくわかりましたね」
「・・・まぁ大体」
「ふふ、やっぱり探偵だからですかね」
「飲み会どうだった」

珍しい日常会話を求められて目を丸くして適当な返事をする、友だちが男の人と連絡先交換をしていただとかビールはやっぱり好みじゃないとか
アクタベさんとはいかない店で新鮮だったとか、アクタベさん以外と飲むのは初めてだっただとか、アクタベさんといけたら楽しそうだなとか

「そこまでオレのこというなら、今度から男いる飲み会行かなくてもいいんじゃない」

貧乏揺すりのように苛立ちが指先似でていてハンドルを握る人差し指がリズム良くハンドルを叩いていた、彼は真顔で何一つ表情が変わらないのにどことなくイラついていることをそこで気付いた
けれどナマエからしてみれば不思議な事だ、別に恋人でもない上司と部下の関係の人間にそんなことを言われるだなんて、念の為にいうが彼女も少なからず酔っていただからこの男に対して普段よりも強気になっていた

「別にアクタベさんは彼氏じゃないじゃないですか」

キキィッと大きな音を立てて車が突如止まった
驚いて目を丸くするナマエと反対に怒りが最高潮に来たであろう男は苛立ちを隠すことなくナマエをみつめた

「へぇ」

そうして彼はシートベルトを外して助手席に身を乗り出してみつめた

「オレはナマエさんの彼氏じゃないんだ」

その時の彼女の頭の中は?であった
実際自分たちは付き合っていないのだから当然である、ただの片想いでしかないのだから何を言っているんだと不思議な顔をすればますますアクタベは不機嫌になったためにナマエも何かを言わなければならないと思い口を開く

「だって私アクタベさんに好きって言われていませんよ?」

人生においてこの男がそんな顔をするのは最初で最後かもしれないなと彼女は感じた、例えるなら鳩が豆鉄砲食らったような顔と言うやつだ、もちろんほかの人間と比べてとてつもなく分かりにくいが明らかにそんな呆気を取られた顔であった
大人の恋愛において「好きです、付き合いましょう」という言葉はあまりない事だ、だがしかし夢みる少女にはそんなことは分かりもしないためそれが普通だと思っていた
アクタベ自身は「卒業したら」といっていた、彼女が高校卒業して直ぐに近くに温泉旅行に行った、もちろん手を出すことは無かったが男女二人で旅行に行った時点でそれはもう交際以外なんでもないないのでは?と思えた、おまけに1度や2度の話では無いのだから

「好きっていえばオレのものになるんだ」
「・・・ずっとその言葉がほしかったんですけど、無いから新しい恋を探そうかなぁって思ったんですけどずぅっとアクタベさんのことが頭から消えなくて」

ゆっくりと狭い車内で助手席に2人寄っていって、そうして顔が近付いた見慣れたはずの変わらない顔立ちは何処と無く怖いのに慣れたせいでそれさえも格好よくみえていた

「好きだよ」

あまりにも似合わない彼の言葉に呆気を取られる間に顔が近付いて離れていった


「お疲れ様でした」

普段通りの日、普段どおりの仕事、普段どおりのあの人
何も変わらない、いつもの様に送っていくと短く告げられてその言葉に乗って静かな車内で話も程々、互いに車におりてふと彼の大きな手が重ねられ歩き慣れたアパートのエレベーターをあがり2人して同じ部屋に入る
それだけが少し変わった程度でやはり2人は特に何も変わらなかった、ただ少しだけ前よりも纏う雰囲気が甘くなった程度のこと