近頃はよく桜の木を日本以外でも目にする機会があるとオニは感じた、あまり考えたくは無いものだが彼の実家の庭には大きな桜の木があり、毎年立派に芽吹いた、薄桃色の花弁はやっとの事花咲かせても大抵雨風に晒されてすぐに枯れてしまうのだ。
彼は目の前の桜を眺めていた時、突風に晒された花弁が舞い落ちる視線の先に見えた女性に目を奪われれば向かいの女性も彼を見て微笑んだ。
「広くん?」
それはあまりにも懐かしい声に彼は思わず目を見開いて、十数年前の記憶を引き出したのだった。
桜が舞う頃、オニはランドセルを背負っていた、誰もが新学期に新しいクラスと楽しそうに話をする中で彼は孤独でいつも玄関先まで見送ってくれる祖父に「いってきます」と告げるだけでそれ以外に彼に話しかける存在はほとんど居なかった。
幼いながらにそれが当然のことだと理解するのは多少残酷だが仕方の無いことで彼は好きではないが集団行動を学ぶために大きな家から出ては顔をいつも通り俯かせようとした、父の部下からの送迎を断ったのは手を煩わせたくないことと少しでも父を感じたく無かったからで、一歩足を踏み出すと自分は家からも外からも隔離された世界に繋がるような気がした。
そんな中、彼が一歩踏み出し地面を見つめた時、ふとみえた見慣れぬ足に視線を下から上にやれば一人のランドセルを背負った少女がそこにいた、見覚えのないその少女は満開の桜を大きな口を開けて見つめておりオニが出てくると同時に彼に向かって微笑んだ。
「おはよう、素敵な桜だね、あなたの家?」
「あぁそうだけど」
「この一本だけが咲いてるの?それとも他にもあるの?」
「いやこの一本だけ、そこらの桜より大きいんじゃないかな」
素っ気ない返事だと幼い彼は我ながら感じた、仕方ないことだ祖父や周りの大人以外話すことは無い、祖父からは愛情を向けられても時折顔を合わせる父からは嫌悪に近い眼差しを向けられそれ以外の大人は皆無関心かおべっかしか立てない、子供はみんな彼の家を知っているため気さくに声をかける訳がなかった、その中で見知らぬ少女の眼差しはその桜のように綺麗に感じられたのだ。
「最近引っ越してきたの、あなた何年生?私五年生」
「一緒…というか俺と一緒に歩かない方がいい」
「なんで」
「なんでって、それは」
見たらわかるだろう。と彼はランドセルの肩紐を握り直して視線を自身の家に向けた、彼女は彼の家の中を覗き見たが特に気にした様子もなく「広いんだね」といった、五年生ともなれば漢字もそれなりに読めるがこの表札に書かれた"渡辺組"という意味がわからないのかと彼は子供ながらに冷たい眼差しを向けた。
「あなたが誰とか知らないし興味無い、それより一緒に行こう」
新しい学校だから友達がいないの。
そう言って笑う彼女に手を引かれてオニは外の世界と繋がれたような気がした、それがたとえ桜の花びらのように散ってしまうものだとしても。
「久し振り、何年ぶりかな?元気にしてた?」
「あぁそれなりに上手くやってる、お前はどうなんだ」
まさかこんな日本から離れた土地で会えるとは。と告げれば彼女は旅行中だからと笑った、こんな偶然もあるのかと立ち寄ったカフェのテラス席から二人は桜が咲き誇る公園を眺めつつ話をした。
「広くんが自衛隊にいって、その後何処かにいったのは聞いてたけど今もそういう感じ?」
「色んなところを練り歩いてる、お陰様で英語は日本語より上手い」
その言葉に彼女がオニが軽快に冗談を言うだなんてと笑った、気恥しさを感じつつも実際彼が日本語以上に英語を使う方が長い時間を歩んでいた為、久方振りの日本語は下手では無いのだろうかと不安に感じれば彼女は特に気にした様子は無かった。
「ずっと待ってた、帰ってくるの」
その言葉にオニは顔を伏せた、17歳のあの頃彼女を置いて逃げ出したことは唯一の後悔だったからだ…
小学校からの付き合いは当然二人を切っても切り離せないものに変わった、オニから距離を置く同級生達を無視して彼女はいつもペアで行う活動ごとには彼を一番に誘ったし、彼からしてつまらない修学旅行でも教師に相談をして二人グループでの行動とさせてもらった、周りが彼から離れれば離れるほど彼女はオニの隣にいてくれた、まるで番のように。
「喧嘩したの?」
「向こうが殴ってきた」
「それは向こうが悪いね」
思春期の子供は血気盛んで、小学生の頃は怖がって関わってこなかった者たちが血気盛んに喧嘩を売りに来た、オニは弱くはなかった、反対に孤独を生きていた故なのか彼はずっと力を持て余すように喧嘩というものを理解していて売られたものは買ってやった。
そうして時折傷を作る彼に保健医も関わりたくない為に彼女が変わりに消毒液を付けて絆創膏を貼ってやった、喧嘩をする時の彼を遠目に見ることもあり集団で襲おうとする者がいれば大きな悲鳴を上げて教師を呼んだ。
生憎彼女は素行が良く、周りの人間も彼女を受け入れていた、オニに対する優しさも彼女の慈悲なのだと周りが噂することを二人は良しとしなかった。
「口の中切れてる?」
「あぁ痛いから見てくれるか」
中学二年生の頃、二人きりの保健室でそういったオニに顔を寄せた彼女に自然と二人が唇を重ねたのは当たり前の事だったのかもしれない。
オニは彼女さえいればこの世界でどうにか踏ん張れると感じていた、どれだけ父親の仕事も父親自身も嫌いでも、祖父や祖父の話、そして彼女が全ての支えに感じられた。
「次の授業遅れちゃうよ」
「少しだけならいいだろ、喧嘩してたのはみんな知ってる」
五分くらいなら大丈夫と抱き締めれば彼女は優しく背中をさすった、優しい彼女のシャンプーと柔軟剤の香りが心地よいと彼は目を閉じて感じた、幼い二人は互いを静かに愛し合っていたのだ。
だからこそ彼女が普通の女学生として他人に好かれることに嫉妬をしたし、オニはそれなりに学生らしい日々を送れた、それが永久でないことを互いに理解していてもわずかながらの幸福であるから。
「あの日一緒にいけばよかった」
その言葉にオニは顔を伏せて静かにテーブルを眺めると彼女の左手には当然指輪が存在してきた、17歳の誕生日と同時に父からの教育が次第に入るようになった、それは暴力的で受け入れたくない全てであり誇りを捨てた父を憎む程だった。
外の桜の木は冬の寒さに葉をつけることも出来ずに風に揺れていた、雪が降りそうなほど寒い冬だった、オニは着の身着のまま刀を抱きしめ逃げ出した、スリッパのような薄い外履きを履いて飛び出した彼は彼女の家の前で立ち止まり明かりのつく部屋をみつめた
「いつか俺はあの家を出る、その時は一緒に行こう」
彼女がオニと親密になることは親もよく思っていないことを知っていた、それは当然のことで彼女の全てを傷つけているようなものだ、それでも愛し合う青少年たちは止められなかった大人達は目を瞑ることにして見つめていた。
約束というにはあまりにもちゃちで意味の無いものだった、この時彼女がカーテンを開けてくれればと願う彼の気持ちは届かず、その場を後にした、彼は彼女を守れるわけが無いと現実を理解していたから
「そしたら私も一緒に軍隊にいたかな」
「どうだろうな、お前はそういうタイプじゃない」
「強くない?」
強い弱いの話ではなく普通の男と結婚して平凡な幸せを持てばいいのだとオニは口にせずにも願っていた、テーブルの上に置かれた彼女の指先がオニの節くれだつ指先を撫でればそっとその手から彼は逃げてしまう。
「私ね、いまはもう渡辺を名乗ってるのよ」
あなたは戸籍上義理のお兄さん。そう笑った彼女の言葉に鈍器で殴られたように感じつつも彼女はオニの父が養子を取り、その男と結婚させたのだと告げる。
そのやり方はオニを苦しめるためのものだと理解しており、彼は彼女を見つめて父親への怒声を浴びせたかったが何も言えなかった、それは彼が逃げ出した責任だったからだと彼自身理解していたから。
「大丈夫、酷い事はされてない」
「…そうか」
「でも私やっぱり広くんと結婚したかった」
その呟いた彼女になんと彼が声をかけれたものか、かけられるわけが無いのだと顔を伏せれば、テラス席の鈍い椅子の音がして彼女立ち上がる
ふわりと隣を通り過ぎる前、彼女は香水の香りをさせて立派な女へと成長を感じた、それでも変わらぬシャンプーと柔軟剤の香りがまるでオニへ彼女を忘れさせないようであり、確かに二人の想いがあるようだった
「さようなら…最後にひとつだけ、オニの名はとても似合ってる」
高いヒールを奏でて行ってしまう彼女に「お前は似合わないな」と思ったことは口にできず、視線の先で彼女は男達に囲まれて慣れたように車に乗り込んだ。
一度も彼を振り向かずにもう二度と会うことは無いというように、彼は静かに去りゆく車を見たあと桜を眺めた、あの時の二人はもうどこにもいないのだと感じながら、コーヒーを眺めれば桜の花びらが一枚入り込み、その花びらはピンクから茶色へと色を変えた、思い出を現実へと塗り替えるように。
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