上手くいくはずがないと理解をしていながらもそれでも互いの情に流されたのは事実だった、若い頃というのは無謀なもので大きな困難があってもきっと乗り切れると思っていたが現実は大きな困難よりも砂利道のようなものだった。
「だから言ったのに」
それでも最後の印鑑の意味なんて無かったと思うのは何年ぶりのことだろうか。
目の前の軍服を着た見知らぬ男性は「サインを頼めますか?」と声をかけた、決して宅配業者では無い身なりの相手は薄暗い表情であるが手渡された書類に記載されてある文言を見ては皆等しくそうなるだろう。
"ジョン・プライス、遺品受取書"
数枚の書類に目を滑らせる、彼が兵舎に残していた私物に遺族年金の手続きから恩給まで、その金額は女ひとりで暮らすには充分ありがたいものであった
目の前の男性に「荷物は全部受け取るからもしあの車の中にあるなら持ってきてもらえる?」といえば彼は静かに席を立った、天涯孤独の身であったプライスの荷物が彼女に届くことは至って自然の流れであり、彼女は書類を目にしては僅かばかりに目頭が熱くなるように感じつつも書類に全てサインをするが現実味は何も無かった。
「どうして私なんかに受取人に指名したんでしょうね」
「あの方は貴方を心から大切に思っていましたよ」
「…知ってる」
そんなこと他人に言われなくとも。と思いつつも心のどこかそれがお世辞で自分がただ彼を一方的に思ってただけだろうと悪く考えてしまう彼女はダンボール箱ひとつだけを受け取り玄関のドアを閉めた
「意味なんてないと思うけど」
そう呟いたのは久方ぶりに帰ってきたプライスがリビングに半分記入を終えた離婚届を出したからだった、ビールを片手にキッチンテーブルで一人で飲んでいれば帰ってきた彼は何も言わずにそれを置いたことにそう呟いた、胸の内は張り裂けそうよりも納得だった。
「これ以上お前を縛り付けたくない」
「縛られた記憶なんてないけど、そう思うの?」
「新しい相手を見つけられるだろ」
「実はとっくに」
意地悪だった、そんなわけが無い、それをプライスは理解していても互いに顔を見ていなかった為彼がどんな思いなのかを理解はできなかった、向かいに座った彼は飲みさしのビールを奪って飲んでは「家はお前が好きにしてくれ」という
まるで役所の人間よろしく傷心状態の人間に対して冷静に話をする彼は本当に愛していたのだろうかと彼女は考える、少なくとも彼女は一年のうち三ヶ月程しか帰ってこない彼をそれでも愛していた。
例え夫婦仲というものが世間的に見て冷めてたとしても、同じ空間にいるだけで幸せだった。
「…本当に別れたい?」
「お互いの為だ」
「お互いって私はそう思わないから貴方の勝手な思い込みよ」
「あぁそうだ、それでいいサインしてくれ」
ボールペンを紙の上に置いた彼に思わずテーブルの上のビールを手に取って彼に掛けようとするも中身はカラだった、仕方なく瓶をテーブルに置いて見えた彼の表情は暗く悲しそうであり、決して喜んで彼もしたい訳では無いのだと理解する。
「サインを拒絶したら」
「勝手にやる」
「女々しいことを聞いていい?」
なんだ、私の事はもう愛していない?
こんなことを聞くのは初めての事だった、何年間も共に生きてきた中で彼女は弱音を吐きたがらなかった、そう思っていても面倒くさい女ではいたくなかったのに今回ばかりはそれを許さなかった。
プライスは彼女を真っ直ぐと見つめた
「すまない、俺は返せなくなった」
天秤があるのならその愛を秤に乗せて比べたのだろうかと思いながらも、決して否定では無い彼の言葉から温もりを僅かに感じては書類にサインを書くしか無かった、それこそが彼の望みであったから、唯一のものだったといえるだろう。
ダンボール箱を開ければ直ぐに彼のドックタグと帽子が乗せられていた、戦争犯罪人として扱われていた筈のあの男も最後は英雄として返されたことには素直に国に感謝をしたいがこの国への憎しみも存在している。
衣類の上にはさらに封筒が乗せられており鍵が二点と住所や銀行口座などその他解約等が必要になりそうなものばかり。
五年ほど前彼の部下であるソープから刑務所に収容されたという話からして契約が続いている場合は掃除が大変そうだと想像する
「だからする意味なんてないって言ったのに」
どうせ彼が後処理を頼むのは自分だけだと彼女は自惚れではなく真実を感じていた、実際問題その通りになった為離婚届など無意味だったと感じつつ久方ぶりにみた彼の筆跡を撫でては恋しさが胸を募せる、彼が手紙をくれたことは交際した時の記念日以来でその時もメッセージカードに"ありがとう"の一言だけだった。
『普通は愛してるとかじゃないの?』
『俺がそれを紙に書くと思うのか』
『それをするのが花を渡す目的じゃない』
初めて貰った花だというのに思わず可愛げのないセリフを吐いたのは彼があまりにも似合ってないことをした事と、嬉しさからの照れ隠しだった。
可愛い物言いをできないと内心自分でも嫌気を指す彼女は意地悪を続けようとすればプライスは「もういいだろ」と眉間に皺を寄せてキスをした、不器用な男だったと思う。
服や下着に歯ブラシと取り出していく中で次に現れたのは彼を象徴とするシガーケースだった、こんな世の中で紙タバコではなく葉巻を吸う彼は物珍しい男でありつつも彼女はシガーケースを開いて彼がしていたように先端をカットしては火をつけては一口吸って直ぐに燃えないように置いてその煙を眺めつつダンボールの中をさらに漁る
「財布に本に……」
思わず手を止めてしまうのはいよいよ底が現れた時、一枚の写真立てが置かれていたからだった。
プライスと彼女がセルフィーで写真を撮っていた時のもの、まだ二人は年若く情熱的な時の時代、大尉でも中尉でもない本当に若い彼との時間を過ごした時の写真にはとても幸せに笑う二人がいた
胸の痛みがジクジクと広がり始めては思わず写真立ての裏を返す、気恥しい若い二人の写真は彼女が自分で撮って印刷しては彼に押付けたのだ裏側に"愛してる"と書いていた筈でそれを確認しようと写真立てから取り出した
「……バカ」
煙は揺れていた、部屋の中には彼の葉巻の香りと衣類から香る彼の香りがまるでそこに居るようだった、写真の裏にはやはり彼女自身が書いた大きなアイラブユーの下に、狭苦しいと言わんばかりの小さな文字で
"愛している、我が妻よ"
と彼の字で書かれていた。
渡した時や結婚の際に飾っていなかったはずの写真をどうして彼は一人になってから飾ったのか、そしてそのペンの濃さから当時書き足したものではなくここ数年なのだろうと理解すると同時に彼女は次第に溢れ出した涙が止められずにいる。
「馬鹿なジョン、貴方が死んで良かったことなんてこの葉巻が廃盤になる前に逝けたことよ」
きっと貴方はこの葉巻が廃盤になったと知れば眉間に皺を寄せることを知っているから。ずっと彼が被っていた帽子を抱き締めては顔に押さえつける、彼の質素なシャンプーと大好きだった香りがそこには強く染み付いていた、彼女よりもずっとこの帽子の方が彼と傍にいたのだから当然のことである
「愛してる」
例えその声が何処にも届かずともそれでいいと彼女は呟いて写真を眺める、そこにはもう二度と戻らぬ二人がいた、それでも胸に秘めた互いの気持ちだけは変わらなかったのだと気付く彼女は写真の中の夫を撫でる、不器用でどうしようもない、ジョン・プライスを
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