死を経験するのは何度目だったのかとニクトは考えた、頭の中で騒ぎ立てる自分たちは生きることに対してだけは意見が合致する、どれだけうるさい声が聞こえても次にこうしたらいいというのはメインの脳みそが同じだからなのかハッキリしているが、彼の着慣れた分厚い装備でさえも銃で撃たれれば痛むし、その痛みが彼の頭を刺激した

ニクトは油断していた訳では無いが警戒を怠ったとは自分でも思っていた、市街地での戦いで民間人の子供がその場にいた時、彼は子供かと気を緩めた、普段ならそんなことは無かったはずだ、だがしかし何故かその子供の顔を見た時彼は気を弛めた、そんな場所ではないのに
内戦の続くこの国の政府側に就いたニクトたちはその子供にやられた。曲がり角からでてきた子供の顔を見て、そしてその身体が飛び出してきたと同時に細いその体に巻かれた一発の爆弾に彼の部隊は壊滅した

頭が酷く痛い、それは物理的なもので頭の中で彼を呼ぶ声が聞こえた、普段聞こえるどの自分でもないその声、直撃だったとニクトが思うものの瞼を開けることは出来なかった、瞼がゆっくりと下がり眠気が来るような感覚に彼は誘われるのだった……

◇◆◇

大切なことを忘れるのは何故なのか
忘れてはいないが度重なる任務の忙しさに蔑ろにしてしまうのは仕方ないことなのだと彼は言い訳をした、今日は結婚記念日で本当にこの日に思い出せてよかったと彼は酷く安堵した
一体どれほど家を開けていたか、一年?二年?いやもっと?分からないが彼には随分長く夢から醒めたように感じた、あの爆発に巻き込まれても無事に生きられたのはこの日のためだったのか、きっと彼女は拗ねていただろうにとニクトは足早に懐かしいロシアの地を歩いていた
時刻は日付も変わる前、花屋もケーキ屋も開いていなかったが代わりに24時間のスーパーは開いている

彼は寒さに身を震わせつつも足早に店の中に逃げ込んで、カートとカゴを片手に広い店内を駆け巡る、このワインは彼女が好んでいた、このアラカルトは好きそうだ、カロリーを気にしそうだからヘルシーそうな方を、このお菓子は懐かしい、なんてニクトは嬉しそうにマスクの下で笑った、頭の中の彼らも同じように懐かしんで彼女ならこっち、いいや違うこっちだ、と言い合いをすることを無視した

全てのノイズを払いのけて会計の為にレジにいけば眠たげなやる気のない店員は彼とカゴの中身を見て一瞬たじろった、普段ならきっと彼は黙って財布を開いて待っていただろうが気分が良かった、目の前の男を見下ろしてはバーコードを読み取る姿を眺めて

「結婚記念日だったんだ、しばらく忙しくて帰れてなかったし忘れてた、きっと今頃カンカンに怒ってるだろうな」

彼の大きな独り言に店員はどう返せばいいのかも分からずに「チキンくらい焼いてくれてるんじゃ?rと聞いてきたがニクトは店員に人差し指を振って、チッチッチッと舌を鳴らした
まるで彼は泥酔した客のように上機嫌だと感じることだろうが彼はずっと鮮明でハッキリしていた、こんなに気分がいいことなんて結婚式ぶりかもしれないと思ったほどでニクトは左手を摩った、そこにある指輪が愛おしいのに何故忘れていたのかと考える度に嫌になるが今ではそれが何よりの幸福で彼はマスクの下で笑う

「ウチのは祖母仕込みのボルシチとピロシキだ」

どんな時でも絶対に彼女は祝い事には代々伝わってきたレシピのボルシチとピロシキをしてくれる、それはどんな高級レストランや一流シェフには適わないものでニクトがこの世界で一番の美食だといえるほどだ


彼女はとても愛らしい人だった
出会いは本当に偶然で、ニクトがまだ独身時代スペツナズにも入る前のずっと若い頃、兵舎暮らしの彼もたまには息抜きにでもと街に出た、そこで出会った女性に彼は一目見て"いい"と思ったのだ
互いにそう思ってしまうと気付けば二人でウォッカを数杯飲んで気分を良くしてバーのトイレに流れ込んだ、若い頃なのだからそうした事も不思議ではなかった
そのバー自体は治安もあまりよくないからか二人が使用していた隣の個室に男女が入ってこれば二人は繋がり合いながら思わず目を丸くして「ここってそういう場所なの?」なんて互いに思った
残念ながら二人ともその店は初めてだった、軍生活で華やかさのないニクトと一般市民だが最近男を失った彼女、つまり二人は肌の寂しさを紛らわせたいと思っており、気付けば二回戦を彼女のベッドで過ごしていた

ニクトは彼女が悪くないと思えた、しかし軍生活の彼はそんなにアプローチは出来なかった、様々な場所に移動したし顔を合わせることなど数ヶ月に一度、けれど彼女は連絡を送ってくれたりニクトがいけばいつでもドアを開けてくれていた

「ちょっともう苦しいっ」
「仕方ないだろ、何ヶ月だと思うんだ?」
「さぁ?そんなに寂しいなら辞めちゃう?」

そう彼女の意地悪な質問に彼はそんな訳があるかと唇に噛み付いて答えた、そうした付き合いをしてスペツナズに入隊して数年後ニクトもそれなりの階級につき兵舎とは別に家を持つことを考えて花と指輪と断られた時…いや断らせないためのウォッカを片手に家に帰ったのだ
ドアをノックして直ぐに聞こえた足音に彼はドアの前で姿勢を整えた、そして玄関の電気が灯ると彼は開くドアに期待をして花を差し出して、ドアが開いて彼女の足が見えると同時に告げたのだ

「выходи за меня」

少しだけ気恥ずかった、服装は普段と変わらない軍用のシャツにズボンとブーツで髪型も気は使ったが、きっと街にいる男よりかは幾分か芋臭かったとニクトは自分が田舎出の男だと理解していたから思っていたこともある
それに比べたら彼女なんて月や太陽のように眩く美しい人だと彼は心から思っていた、いつだって彼の心の安らぎで求めるもので、愛すべき人であり、彼女の為ならこの世界のどこで戦っていても孤独を感じないだろう
答えない彼女に不安げに見つめれば、顔を見つめるまもなく片膝をついた彼に飛びつくものだからニクトは玄関三段しかない階段から二人して落ちたのだ「嬉しい!」という声と共に落下したことから地面で割れた高級ウォッカに視線を奪われた彼女の顔をきっと忘れることなんて無理だと思った

無理ではなかったのだ

本当に夢から覚めたようだった、家に帰らなくなってから数年は経過している、あのとき彼女の連絡先を入れていた端末はもうない事だろうし、ニクトはスペツナズを大軍した後、傭兵として活動していた
すっかりと抜け落ちた記憶はあまりにも気持ち悪かったが思い出せば彼女の笑みがずっとニクトの頭の中を支配した、かわいい彼女も流石に怒るのだろうかと彼は車を運転しながら考えた
頭の中の自分はいいことも悪いこともいうが、その時ばかりは普段通りのニクトが彼らを黙らせて、全員が彼女に会いたいと願っていた
今の姿には多少驚かれるかもしれないが付き合っていた頃から怪我をすることを知っていた彼女は今回もまた普段のように

「また怪我したの?あぁ無事に帰ってきただけでも喜ぶようにしなきゃなのに」

そういってベッタリと抱きしめて傷口を優しく撫でては心配性の母親のようにいってくれるだろうと思う、それだけで彼はマスクの下でだらしない表情になる
傭兵であることは決まった勤務がないということ、任務のときだけ駆り出されるがそれも自分次第でスカウトを断ることが出来る、金に困ることは全くない彼はしばらく休暇にして彼女と長い時間を過ごそうと考えた
旅行に行くのもいいと思えた、マスクがあるため人目が多いところは苦手だが彼女の要望ならなんだって構わないのだ
万が一男がいたらどうする?と馬鹿な彼の一人が呟いた、不安がる気持ちもわかるがその裏を知っていた彼らは有り得ないだろうと一蹴した、彼女は芯の強い女性で男性に声をかけられることは多かったがどんなに離れていても彼以外を映さなかった

「私のかわいい小熊ちゃん」
「私の愛おしい人」
「私の一番の宝石」

彼女は様々な言葉でニクトを褒めたてた、それは少し子供のような口ぶりの時もあったが彼はそれがくすぐったくも心地よかった、胸の上で顔を埋めて髪を撫でる彼女のその眼差しと声と指先はニクトの魂を浄化していた
早く会いたいと、早く抱きしめてキスをしたいと、そう願うニクトはようやく見えた自分達の家をみては心が騒がしくなる、郊外からほんの少し離れた人気の無い場所だがその静けさが良かった

薄暗い家に寝ているのだろうとニクトは感じつつ後部座席の荷物を抱えて玄関を開けるが鍵がかかっていた事に彼はすぐ側の枯れた鉢植えを持ち上げてその下の鍵を取り出してドアを開けた

冷たい風が部屋を通るようで薄暗い部屋を彼は記憶を頼りに歩く、二階建ての未来を考えた広い家、あまり彼が関われなかったが互いに欲しいと希望して一から立てた家は部屋の壁紙ひとつさえ愛おしくて堪らなかった
ようやくリビングにたどり着けばそこは一人だったからかな随分と荒れていたことに苦笑いをしつつ荷物を片して、ニクトはホコリ被ったグラスを二つとウォッカを手にした、冷蔵庫の中は色を変えていたがここ最近は忙しかったのだろうと感じる

家にもろくに帰らず、全ての負担を彼女に掛けてしまったがローンはもうとっくに一括で返済できる上に、これまでの生活費は彼女に返そうと頭の中で考えつつ夫婦最大の愛の場所である寝室に向かった
きっと彼女はいつものネグリジェで眠っているだろう、二人用にと買った広めのキングサイズのベッドは喧嘩した時に距離を開けて寝るためと彼女は言っていた、しかし本音は子供と川の字で寝ても困らないようにだと知っていた

ドアを開けてニクトは足を踏み出して見えた彼女にニクトは思わず手に持っていたグラスを落とした

「…ナマエ」

彼女はベッドの上で眠っていた、ニクトの与えた肌触りのいいシルクのネグリジェを着て、変わらぬ美しさのまま、手首に大きな傷とその近くに果物ナイフを置いて、彼女は真っ白に眠っていた
割れたウォッカはあの頃のようだったがニクトは彼女に触れた、手袋を外して醜い自分の手を眺めながら彼女の頬や首や胸や手首にふれて

「はははッ!!あはははっっ!!!」

死んでる

誰かがそう言った気がした、ニクトは部屋から逃げ出した
リビングに行って椅子に腰かけて頭を抱えて部屋に置いてある安物の酒をかっ食らっては頭の中が騒がしくなるのをどうにか押さえつけたかったができなかった、全員が自分たちの誰かのせいだ、そうではないと理解していても誰かの責任にしたいと思った

そんな中、ふとニクトは目に入った手紙の束をみつめた
それはどれもが同じ病院からのものであり、彼は手が震えていたがそれを覗くしか無かった
病院名の横にすぐ産婦人科と小さく記載されたソレを彼は広げた、一枚ずつ広げてはどれもが大抵同じ内容で【陰性】の一言ばかりであり、それが何を意味するのかニクトは理解していた

「子供が欲しいの」

真剣な彼女の眼差しにニクトは満足のいかない子作りに悩んでいた
滅多に帰って来れなくとも周りは子供を作っていた、愛し合っているのに何故二人は望めないのかと悩み病院に行った
そして帰って来れない故に二人は体外受精を検討し、比較的種の少なかったと結果の出たニクトの貴重な生きた精子をそれぞれ冷凍したのだ
近くに置かれた通帳はここ数年やはり生活費以外でも大きく減っており、中古の家くらいなら帰るだろうと感じるほどである
手紙を数枚確認していく中で一枚だけ違うものがあった、小さなエコー写真に赤いペンで記載された文字

"私たちの赤ちゃん!!すごくかわいい!!"

たったの数ミリしかないのだと記載されたモノクロのエコー写真、ニクトにはどれがどれか分からなかったが心が暖かくなれた、希望だと思った
次の手紙を開く度にエコー写真と経過情報が書かれており、それは直近の日付であった
そして先週の手紙には一言【流産手術】と書かれていた

"私は母親になれなかった"

そう記載されており、近くにあるクシャクシャのメッセージカードを開けば仕掛けのプレゼントと風船の絵が飛び出して綺麗な文字が書かれていた

『おめでとうパパ』

たったその一言にテーブルの上にあるパンフレット全てを彼は床に投げ出した、机をひっくり返して酒を飲んでいたグラスを壁に投げ付けて、彼は寝室に駆け上がり眠る彼女を見下ろした

「俺がお前を置いてったから」

忘れなきゃ良かったとニクトは呟いて腰に携えていたハンドガンを頭に向けた、彼女はきっと一人で寂しい想いをしているから迎えに行かなきゃなと彼は思った
しかしふと視界に入ったベッド横のチェストの上にある日記帳、彼女の日課の手帳を彼は開いて読み漁る

――――――

○月✕日 彼がいってしまった、寂しいけど私もしばらくは病院と仕事を考えなきゃ

○月✕日 ダメだった、難しいらしい、彼には内緒

○月✕日 ダメだった、そもそも着床しても直ぐに死んでるって

○月✕日 ダメだった、私の方がダメなのかと聞いたけどそんなことは無いらしい、でも彼だってちゃんと大丈夫なものでシてる、相性が悪いのかも

○月✕日 何回したらいい?

○月✕日 もう子供なんていらない、帰ってきて欲しい

○月✕日 彼が死んだといわれた、私が子供を望んだから?彼か子供どちらかしかダメだったのだろうか、それなら尚更彼の子が欲しい

○月✕日 妊娠した、嬉しい、四週目だけど愛おしい

○月✕日 順調だ、十二週だって、お腹が少し大きくなったかも、かわいい子あの人に似てるといいな

○月✕日 妊娠二十一週、流産になった、大きいから手術が必要だった、二十二週より前だと流産の為、この子は名前もなく死亡届も出せずに消えていく、有り得ない

○月✕日 痛かった、人の形をしていた、私は何をしたのだろうか、死にたい

死にたい……死にたい………

○月✕日 これをみてる?あなたが世界で一番好きよ、本当は子供なんて要らなかった、あなたがいて欲しかった、子供はいたらいいけど、あなたが私の世界だった

愛してる……

―――――――

ニクトはベッドの上にあがり彼女を見下ろした、かわいい我が妻に彼はマスクを鼻先まで外してキスをした、乾いた唇に乾燥肌でよく唇がめくれる事を気にしていたと彼は思い出して愛おしく感じた

「もう一度子作りしよう、俺たちはもうここにいる」

彼女の身体を撫でる度にその冷たさと反対にニクトの身体は熱を感じた、久方振りに感じる自分の下腹部の熱に彼は自分でも驚いた、ここ数年はめっきりだった上に戦場の熱は頭の中で溶けだすものだったが身体に出てくることに新鮮味を感じられたからだ

彼女の綺麗な身体を撫でて乳房に口付けて、足を撫でるがそこは一向に濡れないことに彼は苦い顔をして顔を埋めた、甘い香りが広がった気がして心地よい、控えめな彼女はいつも声を抑えるが今日もそんな日らしいと彼は苦笑いをして程よく濡れればベルトを外して自分のモノを沈めた

「あぁナマエッ、ナマエっっ、熱いし狭いなっ…あぁクソッ」

子供のように腰を振った、彼女は微笑んでおりニクトは彼女の中に熱を何度も放った、本当に若い頃よりもずっと何度も溜まっていた欲望が溢れて彼女のナカに注がれる
夢中で抱いた彼女の腰や腕が僅かに痣のような色になっていたことに申し訳なさを感じつつもニクトは行為を終えた彼女の身体をタオルで拭ってやった

「なんだナマエまだシたいのか、熱い女だ、でもそろそろ飯にしよう」

気付けば夜から朝に、朝から昼になろうとしていた、全くこんなに盛り上がるとはと苦笑いしつつ彼は彼女をベッドに寝かせて部屋の中を片して冷蔵庫の中を漁るが少しばかり材料が足りないなと感じ彼女に「買い物に行ってくる」と告げて車に乗った、街へ向かう途中、ふと彼は動きを止めて一人の女を見つめた

………彼女はやっぱり生きていたのだと、彼は安堵しては彼女の歩幅に合わせるようにゆっくりと車を走らせるのだった
だって夫婦は永遠に一緒なのだから、きっと彼女はこの世界に存在し続ける、きっと姿かたちが変わっても

2025.05.06