三月

慣れない道に車を走らせた、ゴーストにとってどの道も自分にとっては馴染みがないものだ、この綺麗な車も彼が帰ってこなければ基本的には埃をかぶって駐車場に鎮座する寂しいもので、久方ぶりの主人のドライブにご機嫌にラジオを鳴らすように心地よく走っているように感じられた、三月下旬は寒さが比較的落ち着いている。
先日迄任務の関係からロシアにいたせいかイギリスは随分と暖かく感じられる程で車のエアコンさえ付けていなかった、タバコに火をつけて街の看板が見える頃ふと香ったバニラの香りに直ぐに彼女を思い出す
備え付けの駐車場に車を停めた彼はトランクから取り出した旅行用の黒いトートバックを二つ手に取ってはエレベーターに乗り込み使い慣れない鍵を使用してドアを開けた

「この暖簾だけでも外しておくか?」

目の前に広がるビーズ暖簾を片手で退けて部屋に入った彼はホコリ臭い部屋にやはり数ヶ月空けるのは良くないなと感じつつ、自分が来るまでの間に片付けられなかったダンボールを見ては小さな溜め息をこぼしては窓を開けた

「相変わらず静かな街だな」

嫌な喧騒は何も無いその街にゴーストは呟いた、数ヶ月前のソープからの提案を飲んだ彼はこの家をセーフハウスとして受け取った
ダンボールを開けて出てきた物騒な荷物たちの手入れと片付けをしなければならないと考えては少々重苦しいため息をつくものの窓を開けて入ってきた空気が悪くないからと彼はゆっくりと手を伸ばした、自分の仕事道具であり信頼のおける武器達を

ここまでの装備品をセーフハウスに置くことに普通ならば意味などないと理解していてもゴーストの住む世界はいつ何時何があるかは分からない、誰かが襲われることも自分が襲われることも、至って普通の世界であるのだ。
テレビが流すニュースを聞きつつ一つ一つをまるで我が子のように丁寧に拭いてしっかりと不備はないかと念入りにチェックをする、銃は女のようだと昔仲間が言っていたことを思い出す、まさにその通りで彼女達は扱いが悪ければ簡単に使用者に牙を剥く、反対に助けることもだ
銃を握り眠ることが何度もあった、女の横で眠れずとも武器があれば安心できるのだからゴーストは自分がこの世界から隔離されているとさえ考えてしまう
無骨なその手で一体何人を消してきたのかと考えたこともあるがそれを考えるだけ無駄だということも感じてはもう諦めたのだ、自分を責めることは幾らでもできるから

「休憩でもするか」

深く考えすぎだぞサイモンと自分に言い聞かせてはキッチンに立ち、持ってきていたインスタントコーヒーを淹れる、生憎とコーヒーマシンやティーポットなど用意するほど、この家には居ないことを分かっていたからだ
お陰で冷蔵庫は電源も差していないため彼は持ってきていたサンドイッチを片手にテレビを眺めては口の中に放り込んだ

「(あの店の方が美味いな)」

そう考えて頭の中に浮かんだ笑顔の女にこの街に来る度にあの女のことを考えるのはやめた方がいいと自分に言い聞かせた、あの女…というのはコーヒーショップの店員

「(ケイト・バニー・バニラ)」

名前にバニーもバニラも入っているなどまるでフィクションの中の登場人物の名前のようだと感じつつも、彼女は名前負けしない魅力はあるとも感じた

「やめろやめろゴースト、一体お前…はぁっ」

飢えてるのかと自分に問いかけた、一度しか会ったことの無い女だ、ブルネットにふっくらとした唇に長い前髪から覗き見える垂れた瞳と涙ボクロ、ハリと肉感のいいむっちりとした身体に手に溢れんばかりの胸元

「…最低だ」

頭の中のゴーストを殴っては目を閉じれば甘いバニラの香りがした

『サイモン』

そんな風に呼ばれたことなどないだろと思いつつも瞼の裏の彼女が足に触れて上に乗る、ずっしりとした躰に細い女よりもやはり肉感のいい方がいいな…と思い腰に手を添える、グロスがたっぷりとついた厭らしい唇が名前を呼べば思わずその顎先に手を添えたところで瞼を開く
久し振りの一人の時間だからこそだろう、無駄のことを考えてしまうと思い彼はたいして美味しくもないコーヒーを飲み干してはベランダでタバコを吸いまた作業に戻った、頭の中の煩悩は少しだけ、どこかに移動した。

荷物の整理と手入れは結局全てを終わらせることは出来ずに外が真っ暗になる頃、彼の腹の虫が限界を訴えるように音を鳴らした。
あれから休みなく作業をしたおかげで余計なことも考える余裕もなくして没頭出来たものの夕飯をどうしたものかと考える、ガスも電気も水道も通ってはいるが肝心の食材にしろ何もありはしない、反対に材料を買って自炊したところとてこの家に居るのは今日明日程度なので無駄なものを増やすのもと躊躇う彼はこの辺りを知るべくジャケットを羽織った

「…寒いか」

ふと視線に入ったのは以前彼女がくれた赤い手編みのマフラーであった、あのとき持ち帰りこの家のカウンターキッチンに置いたままだったと思い出した彼はそれを首に巻いて外に出れば丁度マスクとマフラーのおかげか夜の寒さは感じられなかった、ふわりと香るコーヒーとバニラの香りにまた彼女を思い出してはこれに関しては仕方がないことだろうと自身に言い聞かせる。

「あ、おかえり」

家が近いのだから仕方がなかった、見覚えのある背中を見つめては通り過ぎようとしたゴーストに対して声を上げた女に思わず視線を向ければやはり予想通りの相手であり彼女はその瞳にゴーストを映しては嬉しそうに笑みを浮かべた

「久しぶり、帰ってきてたんだ」
「あぁしばらく忙しくてな」
「こんな時間にお出かけ…というか夕飯?」
「何も無かったんだ」

軍人であるということを知っていた彼女は家を留守にしがちだということを察しては大柄な特徴的な髑髏のマスクをつけた男になるほど。と納得したような表情をしつつ看板を畳んで入口に掛けてある札を裏返した

「美味しい店案内してあげよっか」

ニッコリと楽しそうに笑った彼女に地元の人間に聞くのは確かにありだと判断しては「頼む」といえば彼女は笑みを浮かべて「少し待ってて」といって店内に入っていった
凡そ十分程待たされた末にでてきた彼女はシャッターを下ろしては分厚いダウンジャケットに赤いマフラーをしてゴーストの前に立っていた
フレンチ、イタリアン、中華、和食、軽食、レストラン、バル…と次々とこの街のどの店がいいかを指折り数えて押してくれる彼女は相当この街を知り尽くしているようであり、ゴーストは悩みつつもレストランやバルにしたいといえば次にどの店だ、この店だと説明をした

「兎に角美味しいお店は多いから安心して、それじゃあまた」
「そこまで話してて帰るのか?」
「ええ、そりゃあ仕事も終わったし」
「一緒に来るのかと」

てっきり当然だと思っていたゴーストは彼女のあっさりとした態度に酷く驚いて呟けば彼女はぽかんと口を開けた後に視線をおもむろに逸らしては照れ臭そうに笑って誤魔化すように頬をかいた

「てっきり一人が好きなタイプかと」

そう言われればゴーストは基本的には一人を好むタイプだった、仲間内で食事に誘われれば行くが自分から誘うことはやたら滅多にない、それが目の前の彼女に対してはどうだ
まるで当たり前のように一緒に食事をと言っているのだから不思議なことである、そのことを指摘された彼は妙に気恥しさを感じては思わず身体が強ばってしまう、頭の中では様々な言葉が浮かんで消えてを繰り返し、最終的に「イヤならいいんだ」という言葉が出そうになる前に彼女の笑みが深まる

「嬉しい」

たった四文字の感情を表現した言葉にゴーストは一体この女にはどうしたものかと考えてしまう
その反応にも困っていれば彼女の腹の虫が小さくなってお互いに顔を見合せた、彼女の頬が赤く染っては今日は忙しくておやつがなかったから。という言い訳を聞けばゴーストが彼女に言うことはひとつだ

「何が食べたい?」

彼女に案内されるがままに店から約数分歩いて狭い路地に入る、人一人が通るのでいっぱいの裏路地を行く彼女がひとつのドアを開けて「こんばんは」と声をかけて何も無いドアに入るのを後に続いた
狭く小さな店内は誰もおらず喫茶店やカフェのような店内はどこか古めかしい、薄暗い店内のカウンターでカップを磨いていた初老の男は顔を上げては「やぁバニラ、恋人かな?」と楽しそうに声をかける

「残念ながらお客さん、ミートスパ二つお願い」

奥にある小さな二人用のボックス席に行った彼女の後に続いて店内を歩き彼女の傍に足を止めればハンガーを片手に手を差しのべられジャケットだと理解しては外したマフラーと共に手渡した

「スパゲッティは嫌い?」
「いや、嫌いじゃないがさっきまで言ってた店と違うんだと思ってな」
「そうね、美味しいお店は沢山あるけど私は昔からここが一番なの」
「地元民しか知らない店という感じだな」
「ええそう、そういうのが好き」

隠し事やひみつ事が大好きなの。と顔を寄せて小さく呟く彼女はイタズラをする子供のようでいてゴーストは目を丸くしつつフワリと香るバニラの香りはやはりこの女特有の甘さで不快感がなく他には感じられないものだった
テーブルの上の紙ナプキンを二枚取ってはテーブルに置いた彼女はエプロンは?と聞くもので首を横に振れば彼女は紙エプロンを首につけた

「バレンタインには帰ってくるかと思ってた」
「立て続けの仕事でな」
「でしょうね、疲れた顔してる」

そういわれてはもとよりクマが消えづらい肌質で、彼女とは正反対の顔立ちであるゆえにそう取られても仕方が無いものだと感じた、見た目からして彼女は年下でソープと変わらないくらいの年齢だろうと感じた、キビキビとした動きとハッキリとした話し方は好感を持てるもので、そうした彼女であるから食事にも自然と誘えたのかもしれない

「でもきっとマスターのスパゲッティを食べたら元気が出るわ」
「そんなに美味いのか」
「ママが作ってくれたみたいに感じる」

彼女の言葉にゴーストは若干表情を固めた、家族というものは知っていた、父親のせいで家庭環境こそあまり良くはなかったがいい母親であったことを思い出した、そんな母が作ってくれたスパゲッティの味などもう彼は覚えてはおらずに返答に迷っていれば向かいの彼女も「自分の親の料理の味なんて誰も覚えてないよ」といった

「料理も場所も人もあるでしょ?その場所に連れていってくれるって」
「あぁ確かに、俺も時々仕事中に考えるな」
「それと同じなだけ、嫌なことを思い出させたなら話を変えましょ」

トンと手を叩いて笑みを浮かべた彼女は店の客の話やゴーストがまた来るまでの間にあった話を陽気に話した、彼女は決して彼にどうしていたかを聞くことはなく自分の話をした
彼はその話に静かに相槌を打っていれば空腹を刺激する香りが狭い店内に広がり、足音が近付いて二つのスパゲッティを置いた、大きなミートボールが乗ったトマトソースのミートスパにサラダまで付けられるものだからサービスが旺盛だと顔を上げればマスターは「バニラはダイエット期間中だろう?」という

「そんなことないし、本当だとしても彼の前で言わなくてもいいじゃない」
「ダイエット…まぁ確かに」
「おばけちゃんまで酷い、いいわよ私のミートボールあげる」

どうせ私は丸っこいもの。と呟いて一つだけミートボールを皿に乗せてきた彼女にゴーストは思わず頬が緩んで「そのくらい方が魅力的だろ」といえば彼女は驚いた顔をしたあとクスクスと口元を抑えて笑う

「おかしなことを言ったか?」

いや言った、ゴーストは女に愛想のいい言葉を伝えるなど滅多になかったのに彼女に対しては自然とそう言ってしまったからだ、けれどそれは彼が思ったからこそ出た言葉で決してお世辞ではなかった
そこいらを歩くミニスカートの女性と比べれば肉付きはいいかもしれないが至って健康的でセクシーな見た目だ、だからこそ別におかしな言葉じゃない、けれど彼女はそれ以上言及せずに粉チーズとタバスコの有無を聞いたあと黙って食事をした
ほとんど初対面の人間の前でマスクを外して食事をする、以前の時もそうだがゴーストにとってそれ自体がとても珍しいことであると彼女は知っているのだろうか、知っていたとしても変わらないのだろうか

髪を束ねて目の前の食事にだけ向かう彼女は友人と食事をするといった気軽なものではなく食べる為に来たというようで、大抵話が弾んで食事が冷めてしまう一般的な食事とは異なっていたがそれもまた心地よかった
先に食べ終えたのは彼女で静かに水を飲んではまだ食事をするゴーストを笑顔で見つめていた

「(そんな顔で見られて手が進むと思うのか?)」

まるで子供を見るような温かな視線に気恥しさを感じ、それから意識を逸らそうと目の前の食事に集中した、素朴な味だった
手作りの大きなミートボールに酸味と甘みがよく混じったミートソースに太めのパスタはよくある家庭の味で、何一つ嫌なところは無い、誰もが食べたことのある味だと言われれば納得してしまうもので初めに彼女が言った言葉の意味を理解してしまうほど

「少し席を離れるね」

ハンカチを持っていく彼女の行き先を理解しては紙ナプキンで口元を拭うと入れ替わるように店主がゴースト達の皿を下げた、まるで見定めるように見下ろす店主の鋭い視線に「美味かった、勘定を頼めるか」と声をかければ彼は首を横に振った

「バニラが初めて連れてきたお客さんだ、お代は結構」
「初めて?ここにずっと住んでこの店に通っててか」
「あぁそうだ、男も女も誰も彼女は連れてきたことは無いよ、君が初めてだ」

髑髏マスクの巨漢の風貌の悪い男だなんてなぁ。と笑う店主に口が立つ男だと思わず返事も返せずにマスクをした、六十代くらい男一人でする店にしては些か寂しいものだがそれが気にならないのはその雰囲気もあるのだろう

「彼女はここによく来るのか」
「週に一回くらいだが一人でね、この店はあまり人と来るのには勧めない」
「狭い店だからか」

苦笑いをされてしまう、確かに店は人一人通るので精一杯であるが店主の雰囲気や人柄に料理の味から見て表のテナントでも充分だろうにと思うものの彼はこれくらいがいいのだと言う

「バニラもここが気に入ってる、だから私もここで良かったと思う」

彼女は何度も会いたくなる不思議な女性だから。という店主の言葉はまるでゴーストの心情を言葉に出されたようだった

「マスター何話してるの?おばけちゃん困ってない?」
「困ってないさ、男同士の話をしてたんだ、この後二人は夜明けのコーヒーを飲むのかって」
「もう最悪、セクハラよ…そんなの言ってたらもう来ないからね」
「ああ悪いね、年を取るとお節介焼きをしたくなる、ゴーストくんアフターケアは宜しく」

戻ってきた彼女に軽口を叩く店主、その二人のやり取りは父子のようであった、流れるような会話についていけずに眺めていれば彼女はゴーストにハンガーに掛けていたジャケットを手渡して自分のジャケットに袖を通す前にカバンから財布を取り出すものの店主はそれを止めた

「彼から貰ったよ」
「そうなの?ごめんなさい私」
「…いや、あぁ気にしないでくれ俺が誘ったから当然だ」

慌てる彼女にそんな事はと否定しようとするも目のあった店主はウインクをした、女の前で顔を立てろと言わんばかりであぁ本当に世話焼きな年寄りだと感じた
そんな事をされずともゴーストはそれなりに経験のある男で女へのデート方法など分かっていると言いたかったが先にされてしまえば出る言葉も出なかった。
結局二人で狭い店を出て細い路地を抜ける迄にはあの店主の話で盛り上がり、ミートスパが美味しかっただとか悪くは無いがお節介焼きな店主だっただとか店のセンスはいい。などと盛り上がった
大袈裟な程にリアクションを取る明るい彼女と控えめだが静かに微笑むゴーストは互いに心地よい空気だ「今晩は…」とゴーストが口にする前に彼女は白い息を吐いては楽しそうに笑みを浮かべて一歩先に踏み出した

「とっても楽しかった、また行きましょう、それじゃあおやすみおばけちゃん」

ポケットに手を入れた彼女はニコリと笑ってそのまま歩き出していく、夜の中で揺れるマフラーは赤いためか視線を奪っていた
一人ぽつりと残されたゴーストは返事も出来ずに立ち止まったあとポケットからタバコを取りだし火をつけた
まるでティーンのガキだとゴーストは紫煙を揺らして自分に告げる、さっきまでいたあの香りがもう恋しくなる、バニラの甘い香りを…

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