オニは地面を踏み歩きながら考えていた、一体何を話せばいいのかどうしたらいいのかと、地面のタイルを見つめてそこに落ちたタバコやガムのゴミのように過去を切り捨てられたら良かったのにそれが出来なかった。
もうとっくに大人だというのに何処か落ち着かなくて、スマホで開いていた地図アプリは目的地に辿り着き、顔を上げればその視線の先には目当てのカフェがあった、寒い季節で息を吐くと白かったが彼はその店に足を運び店員に待ち合わせだと告げればテラス席だと告げられ足を進める。
寒い日であったのにテラス席に座る一人の中年の男は深い紺色のカシミヤのマフラーを巻いており、思わず彼は自分の首元に巻いたマフラーに手をかけてテラス席へ繋がるドアを開けると木の床は歪な音を奏で、その音に振り返った男は彼を見ては小さく微笑んだ。

「久し振り⋯広」

その日はもっと今よりも寒い冬の日だった、寝巻きのまま二本の刀を抱いて素足で逃げ出した、鼻で呼吸をするのも辛くなって口で呼吸をすると肺が凍りそうなほど痛くて、足の裏も爪先も全部が痛かった。
本当に痛いのはきっと胸だった、何もかもを捨てることが辛かったのは17歳の頃が初めてだっただろう。

オニがまだ渡辺広という名前だけで生きていたとき、彼は他の家庭の子供よりもずっと裕福であることを知っていた、しかし父が胸を張れないような業種であり他人が距離を置くような存在であることも。
広が彼と出会ったのは広が10歳の頃だった、前任の世話係が何かしらの理由で解雇されてしまい、その代わりに来たのが彼であり26歳のまだ若い青年で父が連れてきた人間にしては随分と柔らかい雰囲気を持っていた。

「字が綺麗だ、習字を?」
「お爺ちゃんが教えてくれた」
「へぇ俺もお爺ちゃんに教わったよ、男だからこそ綺麗な字を書けって」

そう言って彼は完成した漢字ドリルの文字を眺めては立派だと褒めた、以前の世話係とは違い勉強から送迎まで全てを担当する彼を祖父も気に入り、父が用意した人間だというのに信じられないほど穏やかに過ごした。
博識で話がしやすくそんな彼は広にとって年の離れた兄のような存在であり、学校という集団行動を目的とする小さな建物内で孤独でも、父親という本来子供を愛し子供が甘える筈の存在に見向きもされずとも彼や祖父がいれば何も思うことなどなかった。

「ゴミ箱にはいってたぞ」

夜更け、広の部屋に来た彼はそういって机の上に一枚の手紙を置いた、その手をなぞるように視線を投げればその手には一枚の紙を手に持っており、それはクシャクシャに丸めて捨てた筈の三者面談の紙であった。
丁度思春期となった中学生の広に対しての距離感も誤ることの無い彼は三者面談に関しては祖父か自分が行くかまたは適当な言い訳をしておくと告げて終わるものの机の上に置かれた「渡辺広さんへ」と綺麗な丸い字で書かれた手紙については物言いたげだった。

「ラブレターだろ」
「興味無い」
「そんなつっけんどんな態度を取るなよ、手紙だぞ?読んでから捨てろ」
「読む意味なんかない」
「相手の気持ちを無下にするな、別に答えをだせとは言ってない」
「別に俺の勝手だろ」

あんたに関係ない。も強く言い放った広はこの家の事や父親に対して強く反発するようになっていた、もちろん彼に対して思うところはあったのは度々彼が父と"仕事"をしている姿を目撃していたからだった。
所詮は彼は父親の部下であり、信頼足る存在だからこそ彼の世話係を任されただけのことだった、それを意識すればするだけ何処か苛立ちは加速してヘラヘラと笑っている呑気な同級生にも嫌気がさしてしまうがそれは正常な感覚であると世話係としての彼は受け止めていた。
床に投げ捨てられたシワの寄った手紙を拾ってはもう一度机の上に置いては広に優しく声をかける。

「読んでやれよ、答えがなくたって相手はそれだけで救われる」
「なんでそんなのいえるんだよ」
「⋯俺だって学生時代があったから」

それじゃあおやすみ。と言って部屋を出ていった彼が残した煙草の香りを感じながらゆっくりと手紙を開封した広はそれを読みながらずっと頭の中には彼がいた、この手紙の主が書いた想いを彼は密かにあの男に向けていると自覚していたから。
例えそれが若気の至りや思春期の勘違いだとしても、手紙に書かれた"何処にいてもあなたを考えてしまう"という一文に対して浮かんだ相手が彼だったのだから、それは紛れもなく恋だろうと確信しつつも胸の内に閉じ込めた。

広の生まれは冬だった、毎年顔も合わせぬ父親からのプレゼントは開けることも無いゆえに適当な場所に置かれるが祖父や彼から渡されるプレゼントは広にとって何よりの楽しみと喜びだった。
祖父から渡された以前から欲しがっていた盆栽鋏が与えられ、手に馴染む感覚や小遣いでは買えずに悩んでいた有名なメーカーのものに嬉しそうに感謝の意を述べた。
誕生日の日の帰り道、部活で遅くなった暗い夜道を帰ろうと校門を出て直ぐに見慣れた黒塗りのベンツに運転席にいる彼を見て広は慌てて乗り込んだ、誕生日の際にはいつも彼はドライブに連れて行ってくれた、星を見に行ったり夜景を見に行ったりとする時間はとても穏やかで幼い頃に初めてみせられた広が「また行きたい」といった為、毎年誕生日には必ず連れて行ってくれるようになったのだった。

「誕生日おめでとう」

そういった彼が笑って差し出してくれた包装紙に包まれた長方形の箱に何かと思いつつその場で開封すれば上等な黒い箱と見た事のある高級ブティックのロゴが描かれており、中を開ければそこにはカシミヤの紺色のマフラーが一枚入っていた。

「マフラー?」
「寒いだろ?カシミヤのやつは暖かくていいんだよ」
「別にマフラーくらい持ってる」
「知ってる、いいだろ?お前に似合うと思ったんだ、ほら貸してくれ巻いてやるから」

人のいない山の麓で彼はタバコを咥えながら笑った彼に広は好きにしろと学生服のまま見つめた、彼の手が箱からマフラーを取りだしては広の頬を撫でるとカシミヤの生地は心地よく感じていれば両手が広の首に周り何度か周回した、近付いた距離で感じるタバコや香水に整髪料の香りがして、薄い目で彼の顔を眺めれば男らしい眉毛も柔らかい目元も少しだけ乾燥した唇も朝に剃って少しだけ生えてしまった髭も、全てが触れてしまいたいと思っていた。
見上げていたはずの背丈はいつの間にか同じか広の方が少し低い程度に変わっていて、互いの時間が物語っていると感じる頃、距離は簡単に開いて両肩をポンと叩かれる。

「完成だ、よく似合ってる」

そういって笑った彼をみると幼く見えた、22時を回ったはずの街は光り輝いており人々は夜を知らないようだと感じつつ隣のタバコを吸う彼をじっと見つめた。

「吸いたいか?」
「え」
「別にいいさ」
「え⋯っと、ひと口だから吸いかけのでいい」

本当はタバコになんて興味はなかった、幼い頃から見ていた彼の喫煙する姿は何処か色っぽくて大人びていて憧れていたのに、それが次第に彼の唇に視線を奪われるようになっていただけなのだ。
それでもそんな言葉をいえるわけがなくて、広は彼の吸っている途中のものを求めてしまい、彼は素直にそれを差し出して吸い方を教えてやった。
肺の中に広がった苦い煙に少しだけ咳き込んでは笑われてしまうが吐き出した煙がマフラーに吸い込まれていき、香りを残すとき広は彼に包まれているように感じた。

「誕生日おめでとう広、来年はもっといいものを買ってやるよ」

そういって笑う彼に欲しいものなど何も無いとはいいきれずに笑い返した冬の日を広は何年経っても思い出してしまうのだった。
高校生にも上がれば次第に将来の話が浮かんだ、周りは何も言わずとも広は家業をといった視線を向けていたが祖父と彼はやはり違い、好きな道を進めばいいと背中を押してくれていた。

「そういえば元はこの仕事じゃないんだっけ」
「ン?あぁ自衛官だった、怪我で除隊したけど」
「なんでこんなとこに」
「成り行きかな、昔言っただろ?爺ちゃんが病気で金が欲しかったって」

勉強をする広の後ろで彼のベッドに横たわり片手で本を読む姿はまるで従来の友のようだった、広が彼を尊敬するのはあの男の傍にいても彼は平凡な男であろうとするからであり常に勉強に励み良き友人として共に過ごしていてくれたからだ。
そして広が彼に心を開くのもまた自分に似た共通点を持っていたからであり、両親を亡くして祖父母に育てられたが二人ともこの世から去った彼は病気の祖父のためにこの世界に来たということを。

「怪我しても異動があるだろうし、色んな仕事があるだろ」
「病気には金がかかるんだ、俺が部隊にいた時なんてやっす〜い給料だった、爺ちゃんのためなら何でもしてやれる⋯だからここに来た」
「ヤクザなんてクソだ」
「あぁクソだよ、本当に思う、その感覚で間違いは無い」
「じゃあやめろよ、もう何も無いんだろ?あんた一人なんだから指詰めろって言われたら俺がアイツに詰めさせてやる」
「広やめろ、お前までそういうこと言うな、それに俺はいいんだよ、ここに居たくて居るんだ」

馬鹿を言うなと広は彼に振り返った、こんな汚い誇りも無く人を傷付ける金に汚い生き方をする人間の何処がいいのだと告げれば本から視線を外して起き上がった彼は怒りを隠せぬ広に向き合った、数年前までの背丈とは逆転してほんの少しだけ彼の方が身長は低くなっていたがそれでも目線の高さはさほど変わらなかった。

「広がいるから」

お前がいるからここに居たいんだ。そういった彼に広は何も言い返せなかった、この家自体も憎らしくて堪らないのにそれでも彼や祖父がいてくれる、それだけで彼の心の救いになっていたのだ。
何も言い返せない広を抱き締めた彼は優しく背中を撫でてやった、互いに同じタバコの香りがしたとき、口にはせずとも繋がり合う何かを感じて広は彼の肩に顔を埋めた、この世の全てが憎くてたまらないと思いながら。

運命の歯車とやらは決まっていたのかもしれない。

「これからどうするんだ」

そういった彼の言葉に広はなにもいえなかった。
17歳の誕生日を迎える頃、偶然父との夕食の席に呼ばれ仕方なく同席した広は家業を継ぐ話をされた、まるで彼の人生や想いなど何一つ考えられないその言葉の数々に耐えきれなかった広はその夜、家を飛び出した。
ただずっと逃げたかったと願っていた彼は真夜中にたった二本の刀だけを手にして逃げ出した、適当なホテルに泊まっていた広のところに来たのはやはり彼であり、その日は広の誕生日当日だった。
連れ戻しに来たわけじゃないという彼は大きなボストンバッグを置いてその中に必要なものを全て用意していると告げた。

「財布と隠し通帳があるから好きに使え、パスポートもあるしお前英語が出来るから海外でもいい」
「なんでそんなに俺にするんだよ」
「お前の境遇が分かるからだよ、お前の親父は俺にとってはいい人だけど父親としては最悪だ」
「⋯だけどあいつの所に帰るんだろ」
「そうだ、戻らないなら俺はもうお前の世話係じゃない」

元から自分はあの人の部下だからと割り切った彼に広は思わず襟首を掴んで広いベッドの上に押し倒しては見下ろした。

「世話係だから優しくするのか」
「⋯そうだ」
「俺のことは親父のガキってだけか」
「⋯そうだ」

逃げて欲しかった。
いつものようにタバコを吸って笑って大丈夫だと子供扱いしてくれたら良かった、いっその事頬を打って現実を見て帰ってこいと言ってくれたら良かったと思いながらも何も言わない彼に広は泣きたかった。
声も手も震えていた広は唇を噛み締めて彼の胸に顔を埋めた、好きだから共に逃げて欲しいと守って欲しいと願ってしまうのはきっと彼が幼いからだろう。

「偽造した身分証明書を用意してある、お前が望むならそれをもって自衛隊の協力本部ってところにいけ、そしたら直ぐにでも入隊できる、何かあれば俺を親代わりに使え、これが俺に出来る最後の誕生日プレゼントだ」

優しく肩を押されてしまい彼は立ち上がり乱れた服を整えて広に背中を向けた。
ベッド上に散らばったボストンバッグの中身から出ている一枚のクリアファイルには様々な書類や身分証明書があり、そこには18歳として記載されたものも存在した、精巧な身分証明書はほんの数時間では完成しないものであると簡単察した広はこれは彼が以前から用意していたのだと気付いてしまうとベッドの上で項垂れるようにそれらを眺めて彼の背中に言葉を吐いた。

「いつも俺が欲しいものをくれないよな」

外は雨降っていたのだろう、彼は濡れていた、白いカッターシャツは雨に濡れて彼の肌を透けさせておりその広い背中には彼には似合わない和彫りが大きく深く彫られていた。
広の言葉を聞いた彼はただ静かに拳を握って何も答えることはなくその場を後にした、一人残された幼い彼はバッグから飛び出したタバコのカートンを掴んで壁に投げつけたあとバッグをひっくり返しては現れたカシミヤのマフラーを手に取って泣いた、もう二度とこの香りを感じることは無いのだと思いながら。

◇◆◇

「まさかこんな所で再会するとは思わなかった、元気そうでなによりだ」
「そっちこそ⋯老けたな」
「当たり前だろ、俺もうすぐ五十路だよ」

フフッ⋯と楽しそうに笑った彼に確かに互いにあれから随分と歳を重ねたと思うのは広があの時の彼と同じ歳になっていたからだった。
読んでいた本を閉じると同時にやってきたコーヒーに二人は再会をと一言告げて白いマグカップに唇を重ねた。
こんな所で⋯というのはここが日本ではないからであり、あの日の別れから二人は一切連絡を取ることもなかった為、互いにどのような生活を送っているのかは分からなかったがふとマグカップを握っていた彼の左手の小指と薬指が無いことに自然と広の目が移ってしまうが彼はその視線に苦笑いをした。

「そう⋯組を抜けた時にな、二本で勘弁してもらえた」
「じゃあ今は一般人か」
「そうカタギ、色々勉強して株とかで金稼いで金に余裕があるから今は本を書いたり写真撮ったりして生活してる」
「作家なのか凄いな」

お前ほどじゃないよ。と笑う姿に何処まで知られているのかと広が思っていれば彼は広が自衛隊に入り国外の特殊部隊員に選抜されその後国内にて特殊部隊に入隊したが彼の父による不名誉除隊があったことを話した。
父という単語を聞いたことは久方ぶりだがやはり彼に黒い影を残すようなものであったがそれを理解していた彼も苦笑いをした。

「お前のことで親父さんと揉めて結局辞めるって決心したんだ、だからこうしてお前に会えた⋯嬉しいよ」
「俺もだ」

彼の言葉に素直に返した広にそれでもあの再会は恥ずかしかったと照れ笑いをする彼に確かに少しダサかったと笑うのは、彼がこの街に来てスマホをホテルに忘れて仕事の待ち合わせ場所が分からずに慌てて声をかけたというのが偶然広であったのだった。
常日頃この街にいる訳では無い広は本当に偶然の出来事であり、目を丸くして驚いたが彼はマスクにパーカーをしていた広を直ぐに彼だと認識しては今日の約束を取り付けた。

「ずっと心配してたんだ、きっと大丈夫だって分かってても自衛隊はキツいし、傭兵に行くって噂で聞いた時は本当に心臓が止まるかと」
「俺の話はよく回ってるな、親父にも筒抜けってことか」
「いやあの人はもう知らないハズだ、俺と約束したから」
「なんて約束を?」
「もう金輪際、お前に関わらないって」

だから指を二本落としたんだという彼に広は申し訳なさを募らせた、いつだって彼は自分を守ってくれていることを知っていたが何も出来ずにいた。
店を出て二人は静かに海の見える道を歩いていた、最後に出会った時から変わらない互いの身長や歩幅、変わったのは歳を重ねたことや鍛えた広とそこいらの一般男性の体型をした彼というだけ、ほんの少し香るタバコの香りや香水は何一つ変わらないと感じては思わず身体が彼の傍に寄ってしまう。

「本を書いてるってどんな本なんだ」
「下らないラブストーリーだ、読む?」
「あぁ」

そういえば彼はウーンと唇を尖らせた後にまぁいいかとポケットに入っていた先程読んでいた文庫本を取り出して広に手渡した、まさか読んでいたのが彼執筆のものだったとは思わずに静かにページを捲って二人は海風を感じながら歩いていたかパラパラと捲り終わった本から思わず隣をみつめた。

「これって?」
「思い出」

どう見ても自分たちの話のようだったと感じた広はなんとも言えない気持ちであった、金持ちの少年の付き人となり、その16歳年下の少年に惹かれた男はそれを理解していても気持ちを抑えこみ守りたい一心でずっと彼の親やその環境と戦い続ける話。
きっと他人が読んでもフィクションにしか感じられない設定や軽く捲って読んだ文章の何処となく御伽噺のように感じる文体、それは広が好きだった彼の文章でもあった。
幼い頃読書感想文が苦手だった広と共に考えて書いてくれた彼の文章を広は何年経っても好きであり、どんなに美しい純文学を読んでいても彼の文体には適わないと思えたのは彼の全てが好きだからだった。

「結婚とか恋人はいないのか」
「薬指がないから結婚できない」
「茶化すなよ、いるのか?」
「いる訳ないだろ、いたら一人で過ごしてるもんか」

それもそうかと納得しては広は彼に本を返してまた二人は歩き始めた、時折あたる指先がもどかしいが何も言えずに歩き続けていた。
冷たい風が頬を斬るように撫でると思わずマフラーに二人して顔を埋めてその仕草に子供の頃のようだと笑ってしまう。

「傭兵をしていると、家を空けることが多いんだ」
「うん」
「数ヶ月とかあるから、帰ってすぐに窓を開けてホコリを全部出さなきゃダメで、それが大変だった」
「そうか」
「誰かがいたらいいなって思う⋯けどいない」
「あぁ」
「あんたが居てくれたら、いいってもう十年以上思ってる」

周りが結婚や恋人ということを羨むことはなかったが、隣にいてくれたらどれだけ辛い夜を慰められたのだろうかと考えてしまうと告げる広の言葉に彼は黙って聞いた後に答えを出さなかった、無言で居続ける彼にやはり駄目なのかと不安がっていれば小さな声が漏れ出す。

「俺もう五十路のおじさんだぞ」
「⋯俺もう三十路だ」
「腹でてるし」
「鍛えろよ」
「ビール飲みすぎたんだよ、あとワインも」
「美味いとこ教えてやろうか」
「あぁ何処だ?」

俺の家。と広が数歩先を歩いて振り返り笑っていえば彼は呆気を取られたようで目を丸くしたあとくしゃりと笑って「埃被ってるんじゃないのか?」といって大きく歩みを進めて広に向き合い彼のマフラーを外しては丁寧につけ直した。
あの子よりもたるんだ皮膚や増えた皺とシミ、それでも変わらぬタバコと香水と整髪料の香りが愛おしくなり肩に置かれた手を取り彼の左手と薬指と小指を撫でる広は頬を擦り寄せた。

「好きなんだ、あの時からずっと⋯あんたの事が」

こんな気持ちを伝えるのは初めてで、その勇気はきっと学生時代に手紙をくれた相手も同じだと広は理解していた。
それを聞いた彼は眉を下げては優しく微笑んで彼の頬を撫でながら告げる。

「俺の気持ちが知りたいなら本を買えよ、Amazonでセール中だから」

その言葉に勿論だと笑っては広は彼の手をとって歩き出す、本当は兵舎だから借りたアパートなんてないこと、埃を被った酒はないこと、そんなことは互いに知っていたが口にはしなかった、もう離れない言い訳がただ欲しかったから。

2025.9.9