ふと耳朶が痒く感じた。
その感覚に思わず手が自然と伸びて耳朶を優しく親指と人差し指で揉んでやればその痒みは簡単に引いていく、指の腹で感じる耳朶に残った小さなしこりはいつになっても治りはしない。
タバコを吸わず酒も付き合い程度にしか飲まないジモは周りから見て真面目な部類で必要最低限の服装で装備を身にまとった彼も一度だけその耳に穴を開けたことがあった、それを思い出す度に彼はもう十年近く前になる自身の学生時代を思い出す、懐かしくてほんのり苦くて切なくて愛おしかったあの日々を……
「じゃじゃーん!」
なんて事ない平凡な共学校の放課後の教室、その時ジモはまだ高校二年生で初めて恋人が出来た時だった、平凡的な男子高校生で女子と特別仲がいいわけでもなく、スポーツをして勉強もそれなりに上の方の順位だった彼は学校やクラスの中でも自然と溶け込むタイプの特段何もない少年だっただろう。
グループワークから知り合った同じクラスの彼女もまた同じように普通の少女でジモの印象は普通だが意見をはっきり言えるタイプの女子だった。
『私ウォンくんのこと好きなんだよね』
『は?』
『そっちは?』
放課後の教室で偶然その日の当番で、このクラスでは全員が平等に色んな相手と組めるようにとクジで決まっていた。
その為出席順でも席順でも全く違う彼女と組んでいたジモは彼女の突然の告白に理解ができなさそうな顔をして見てくる彼女に答えられなかった。
そっちは?といわれてもグループワークで組んだ程度で普段は滅多に話もしなかったのだから答えようがないと思いつつ日誌を書いていればその細い手がジモに触れた。
『触れられるのは嫌じゃない?』
『…あぁ』
『他に好きな人はいない?』
『そういうのは分からないから』
『分からなくていいから付き合うってのはどうかな』
それでいいのかと疑問を抱きながらも断れなかったのは女子に興味が無いわけじゃなかったからだ、高校生の時点で男と女の差は明確に出ており、彼女の薄い色付きリップで彩られた唇だとか、甘い制汗剤の匂いだとか、本当は校則で禁止されているが手を入れているであろう整った眉毛だとか、怒られるはずの短くしたスカートを意識しないことは無い。
そうしてジモは彼女との不慣れな交際を始めたが二人の距離感は互いに悪くないもので普通の恋人として一年が過ぎていった。
そんな中のある日の放課後に陽気に見せてきた彼女の手の中には長方形の透明の箱、中には白い変わった形のホッチキスのようなものがあり、パッケージにはピアッサーと書いていた。
そこいらのドラッグストアで買える安いピアッサーに何事かと見てみれば彼女はもうすぐ夏休みだから開けようと思うと言った。
「開けるなら自分でやれよ」
「怖いからお願い」
「自分で買ったのなら自分でやれ、というか怒られるだろ」
「髪の毛下ろしてたら大丈夫」
ヘヘンッと笑う彼女のそうしたイタズラ気味な笑顔はかわいかったと素直にジモはあの時感じていた。
結局ジモが放課後の日誌を書いている中、彼女はおもむろにピアッサーの箱を開封して中身を取りだしては彼の視界の中に小さなピンクの石のついたピアスを見せつけた。
「ねぇ自分でするから印つけてよ」
「そんなの自分でしろって」
「開けるか印か、選ばせてあげる」
こういう時の彼女はいつも強引だ、ジモはそんな彼女にノーといっても聞いてくれないことを知っており、しかしながらその強引さが悪くないと思ってしまうのはきっと恋をしているからだった。
彼女は髪を耳にかけて日に焼けていない耳を彼に見せつけた、部活や授業でよく焼けたジモと違い徹底的に日焼けを嫌がって手入れをした彼女との対比はまるで陰と陽のようだ。
ジモは手渡されたペン型のアイライナーを手に取っては彼女の小さな耳たぶに触れるとどこに印をつけるべきかと悩んだ、まるで彼女の人生を自分が掴んだような気分になる。
「適当でいいよ」
そういった彼女にそうはいかないだろうと思いつつ印をつけてやれば手鏡を持った彼女が満足そうな顔をしてジモの向かいでピアッサーに手をかけた。
こんな場所でするのか、冷やしたりした方がいいんじゃないのか、病院でやってもらえ、危なくないのか、という彼の思いをあっさりと無視して静かな教室に響くようにホッチキスが閉じるような音がした。
女の肝が据わっていると知ったのは高校三年生のその時だっただろう。
外れた白いピアッサーから見えた耳たぶには安っぽいが綺麗な薄いピンクの色をした石が飾られていて、それが彼女にはよく似合っており、見惚れていると彼女がゴミを片付けながらジモをみていった。
「興味あるなら開けてあげる」
丁度日誌が書き終わって気付けば彼女に手を取られて、彼女の自宅に来ていた。
両親が居ないから平気だという彼女に下手な緊張がしていたが彼女の手を繋いでいない片手にはドラッグストアに寄った時の袋があり、ピアッサーを買ったんだと彼は思い出しつつ案内された彼女の部屋に座った。
「変なことはしないから安心してよ」
「別にそんなこと…っ」
「耳大きいよね、これならやりやすそうだなぁ、右と左どっちがいい?」
案内された彼女の部屋は甘い香りに包まれていて思っている以上に整っていた、幼い頃から使っている名残を所々に感じつつ落ち着けずにいるがそんな緊張したジモの背後のベッドに座って彼女は彼の左側の耳たぶを撫でた。
「痛くなかったのか」
「思ったよりかは、怖いの?」
「別に…」
「軍人さんになるんでしょ?こんなのでビビってちゃダメでしょ」
「だからビビってない!」
「じゃあ大丈夫だね」
強がりだった。本当は注射が苦手で彼女が先程何の気なしにピアスをあけた姿を見た時は驚いていた、しかしあまりにも自然と行う彼女と男なのにという感情のある彼が逃げることなどできずに正座をした姿勢を整えてはもうどうにでもなれ。というように腹を決めたようだった。
彼女の指が左耳を撫でて静かな部屋にピアッサーを開封する音が聞こえる頃には目を閉じていた、何度か優しく指の腹で彼女が耳たぶを揉んで感覚を鈍らせてはピアッサーを当てると大きな音を立ててまたホッチキスが止まるような音と感覚、そしてそこには新しく耳たぶに広がる痛みを感じてジモは奥歯を噛み締めた。
「結構いい感じじゃない?」
そういって渡された手鏡を覗けば左耳には黒曜石のような小さな石のついたピアスが付けられており、まるで自分なのに自分ではないように感じていれば彼女の手が鏡を下ろさせてジモを深く見つめた。
何を言う訳でもないが彼女の右耳には同じ形の薄ピンクのピアスが着いており、それを眺めていれば彼女の顔が近付いてジモの唇を奪った、初めてのキスだった。
結局彼はピアスを早々に外したがそれが原因だったのか耳にはしこりがずっと残っており、時折それが彼を苛みあの頃のちいさな恋を想起させたのだった。
あれから高校を卒業してきっちりと彼女と別れたが彼女はずっとあのピアスをつけていたと思い出しつつジモは自身の部屋の洗面所で自分の耳を眺めた。
『いつでも私のことを思い出してね』
卒業式の日、彼女が告げた言葉をジモは何年経っても忘れられなかった、彼女と別れてから大人になり恋愛は程よく経験してきたが初めての経験も多かったからなのか彼女をよく思い浮かべる形となったのはある意味このピアスのせいだったのかもしれないと思った。
続くような関係ではなくあくまでも学生時代の恋でしかないとジモは言い聞かせるように思いながら片手で耳たぶを固定してもう片手に手に持った針を耳たぶに通した、昔の彼なら出来なかったが彼も戦場に出て衛生兵でなくても人の身体に針を通した経験が生まれたからか簡単に自分の耳に穴を開けることが出来た。
「…上手かったんだな」
針を抜いた時、小さなピアスの穴から赤い雫が零れ落ちたのを眺めて思わず呟いた、彼女がした時には血が出なかったからだ。
ジモは置いてあった黒曜石のついた小さなピアスを開いた穴の中に通して付けるとあの頃のように左耳を飾った、彼女は右耳に、自分は左耳に、互いに大人になり違う道を歩んでいる、卒業式以降会うことも無くなった連絡先に残った彼女。
ジモはチクチクと痛みの残る耳たぶに触れながらあの日した口付けを思い出した、誰もが通うような平凡な恋のことを…
2025.09.10
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