例えば人間の頃、好きだったものは鮮明に覚えている。
定食屋の生姜焼き定食だとか、授業のプールの時の地獄のシャワーだとか、雨が降りそうな時の匂いだとか、触れた手が暑かったことだとか、互いの心臓がうるさいのに知らないふりをしている時だとか。
死んだ時のことや自分の周りの人間自体は覚えてない、自分がしてきたことだとか習慣付いていることだとか、そういうのはちゃんと覚えているから、こんなことはまさに宿命というか運命のようなものなのかも知れなかった。
「素敵なマスクですね」
街中でペストマスクをつけてフードを被った男にそう言ってくる時点でその子もまぁまぁ変な子なわけで、相棒として指示された人間を待っている途中降り出した雨に思わず屋根のあるシャッターの閉まった店の前でその子はいた。
シャボン玉のような香りがして、それが弾けた時にこの子のことを知っているかもなんて思ってしまった、知るわけが無いはずなのに彼女の笑顔も仕草も笑い方も全部知っていた。
「似合ってる?」
思わずそう問いかけたのはなんとなくだろう。似合うもクソもないだろって自分で分かっていながらも聞けば彼女は本当にパパパンッとシャボン玉が弾けたようにニコニコと微笑んで「はい」といった。
素直な子は好きだ、お世辞も嘘もなさそうなその言葉に公安に所属してる魔人なんだとバカ正直に伝えてみれば僅かに間を開けて「あぁだからスタイルがいいんですね」なんて全然見当違いの返事をする彼女に笑ってしまう、かわいいと思えたのだ。
完全な自由は無かったものの人間の脳が残ったが故に人の話を聞くからか定期的に休みは貰えた、その都度彼女と顔を合わせて話をしては次第に惹かれあった。
そもそも人が惹かれ合うのは一目見た時に決まっているようなもので、相手への悪い気持ちがなければ大抵それから交友を進めると繋がってしまう、男女の友情なんてものは存在しない。
「暴力さんって何処まで覚えてるの?」
「何処までって?」
「人の時の記憶、これの味とか思い出とか覚えてる?」
そういって彼女が視線を向けたのは白いソフトクリーム、自分では食べられない故に彼女に毎度食べさせてはその反応を楽しんだ。
彼女の言葉にソフトクリームの記憶を思い出したいのに自分が持っているであろう手元の映像さえ出てこないが甘くて冷たい記憶はよく残っていて、それに関連した記憶は出てこないことを告げれば彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあソフトクリームを食べて歩くのは私が初めてだ」
やったやったと笑う彼女があまりにも無邪気で人を好きになる時の顔というのはあまりにもキラキラとして悪魔だというのにそんなのも忘れて彼女に心惹かれて繋いだ手の指先を絡めれば照れくさそうに笑う彼女に心臓が騒がしく感じられた。
「私たち三ヶ月だね」
「そうだね」
公安所属の魔人がなんて高待遇を受けているのだろうか、週に一度追跡送致を所持の場合国内であれば完全に自由を与えてもらえるという環境下になったのは民間人と付き合ったことを公言したからだった。
元々隠し事は得意じゃないし浮かれた話はしたかった、比較的人間として扱ってもらえるためいうことは聞くから彼女との日々を可能な限り欲しいと頼めばマキマさんは「恋はいいことだからね」と笑って許可書にハンコを押してくれた、なんていい上司なのかと感激しつつ彼女からいわれた言葉にまだ三ヶ月なのかと思った。
互いの都合で土曜日だけしか会えないものの交際から十二回のデートはどれも新鮮で行くところが無くても飽きることもなかった、来たことの無かった水族館もう初めて見る映画も買う物もないのに入ったショッピングモールも。
何もかも知らないはずなのに何処か行ったことがあるような、正確にいうと人間の時の記憶でデートをしていた記憶が薄く重なっているのかもしれない、その薄さと来たら膜を貼った牛乳みたいなもので簡単に細く映像で彼女に描き変わる。
「前にデートで、人間の時にデートしたような気がするっていってたよね」
「うん、相手の顔も何してたのかも覚えないけどネ」
「キスってした?」
まるで心臓をシンバルで叩かれたように大きな音を立てた、彼女の言葉からしてキスがしたいという意味なのだとすぐに分かる、残念だが不器用でも鈍感でもないため、互いの好意は分かっていたしどんなことを望むかも知っている。
いい歳をした彼女が三ヶ月間なにもしなかったことに少なからずの欲求不満を持つことは当然だし、人間のこういうところは悪魔のように強欲だとも感じて面白かった、実際に魔人だというのにこの見た目以外は全く普通の人間のようにしているのだから求められるのは当然だし、反対にうれしかった。
夜更けの公園はオレンジライトの街灯が一定の距離間でついていて、人はそんなに多くはないが恋人やジョギングをする人に犬の散歩をする人などがみられて、いつも帰りたくないがいくところもない時に公園のベンチに座って通り行く人の話をする時間は心地よかった。
それでも隣同士で座った彼女の膝がわざと足に触れてくる時、つないだ手が強くなると緊張感が少しだけ訪れる。
「俺はしたことないよ」
「魔人になる前は?」
「肉体年齢的には二十代とかだからあるんじゃない?」
「セックスも?」
セッ!?と思わず声が溢れて慌てて手で抑えた、なんつーことを聞くんだと思いながらも彼女の知的好奇心が広く深いことを学んできた俺は健全な男の子ならあるんじゃないのかと曖昧に返事した。
どれだけいわれても今のこの肉体と精神は違う、魔人として人間の体を乗っ取って以降は彼女以前にはロマンスはなかった、バディには女性がよく充てられることがあったものの大抵2.3回出動すると死んでしまうから感情が揺さぶられることもなかった。
「そう⋯なんだ、暴力さんはキスしたくない?」
したい⋯当たり前のことでもマスクの中は想像以上にずっと毒を撒かれていて、隣にいても平気なのかと聴きたくなるほど。
思わず握った手が強ばったのが答えのようでこちらが何かをいう前に彼女は膝の上に乗って正面から見つめた。
「キスしていい?」
「マスクはダメ」
「でもしたい」
「俺もバカならいいんだけど、残念ながら理性があるからごめんね」
「いいよ、でもキスしたいの、していい?」
酒を飲んでる訳でもない彼女が素面でそういったことに驚きつつも、それくらいこんな存在を好きになってくれる彼女に本当はマスクを外して応えたかった。
けれど残念なことに理性(人の脳みそ)がよく残ったこの肉体ではそんなことは出来ないことを百も承知で、返事の代わりに肩に手を置いた彼女の腕から頬を撫でて小さい唇を撫でた、食後に直されたリップのベタベタとした感触と彼女の柔らかい唇の感触が心地よくて触れていたいと思うと両頬に手を添えられてペストマスクの鼻先からその下に潜り込むようにキスをした。
リップ音がその場に響いて、その感覚が分からないのにキスをされていることだけはしっかりと理解できて彼女残しに手を回してキスを受け止める。
「もうちょい下がいい」
唇には届かないから顎先までと強請ってみると暗い夜の公園で彼女が嬉しそうに笑ってキスをする、彼女と出会ってからずっと薄く張っていた記憶のようなものの中にはこれは無かった。
初めての感覚に心地よく感じていると膝の上にいた彼女が見下ろして笑った。
「キスははじめて?」
「うん、はじめて」
そういうと彼女はとても安心した声で「よかった」といった、きっと彼女も俺の記憶の中に何か薄い膜がずっと張っていることを知っていたのだろう、だから二人にしかない新しいことを感じあいたかったのだと理解するくらいには女心がわかっていた。
優しく抱き締めて肩に顔を埋める彼女が今どんな顔をしているのか分からなかったし、自分もマスクでよかったと心から安堵する、きっとマスクを外していたら魔人や悪魔なんていえないくらい情けないナヨナヨした顔をしてるから。
「今度またキスして欲しいかも」
ちょっとだけ冗談めかしていってみたら彼女が心臓を優しく撫でた「私を求めてくれるならいくらでも」なんて、やっぱり彼女は見透かしているのだと気付いてはっきりとしない記憶の中にある人間だった俺の思い出に嫉妬する彼女がかわいくてたまらずに「じゃあいまがいい」と返事をした、あぁこんな風に思えるんだから魔人だけどまともでよかったと思いながら彼女の唇を撫でた、リップの取れた柔らかい唇を。
そして翌日公安に戻った際にマスクをリップまみれにしたことに怒られたりからかわれたりするのは、まだその時は浮かれすぎて考えから消えていた。
2025.09.21
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