いつぶりにその雪を踏み締めたのだろうか。
燦々と降り注ぐその雪は彼の身体の熱を奪い、マスクの奥で息をしていた呼吸が荒くなる。
歩きなれていたはずの帰路を数年ぶりに歩いては頭の中で声が響く。
―帰るな
―帰れ
―あいつはもういない
―いや待ってくれている
様々な声が求める言葉も受け入れ難い言葉も何もかも全て頭の中で吐き出すように木霊する。
足を止めて辿り着いた何処にでもある家の前で彼はそのアイスブルーの透き通った瞳を見開くようにして見つめた。雪に覆われたその場所でまるで唯一の救いのようにぼんやりと光るリビングの灯り。
雪を踏む音を立ててドアを叩こうとしたが、ふと頭の中の声が呟く『俺たちだと気付きもしないだろう』と。
背を向けて帰ろうとした時、開いたドアの向こうで人の名を呼ぶ声が聞こえた、ずっと昔に捨てた、もう誰も呼ぶことのなかった名前を呼ぶ彼女との再会は実に三年ぶりの事だった。
「寒かったでしょう?しばらくはいるの?最近ポッドが壊れちゃったからお湯を沸かすのに少し時間がかかるからもう少し待っててね」
黙り込んだ防弾マスクをした男に女は一人嬉しそうに忙しなく話をしてパタパタと足音を鳴らしながらキッチンで湯を沸かしていた、最後に彼女に会ってから三年の月日が流れていた。
家の中は変わらない様子であるが一人暮らしのためか何処かもの寂しくも感じられた。
彼は椅子に座ることもなく部屋を見渡しては写真を眺めるとそこには彼女と男が並んでいる。
まだ正気だった頃の自分だと彼は何処か他人事のように認識した。
頭の中の声は家の中に着いた途端にパタリと止んだ、そんなことは初めてだ。
落ち着いたウッディ調の整った部屋に心地よいディフューザーの香り、昔はこんなものを置いていなかったのにと思わず眺めていれば二人分のコーヒーを入れたマグカップを持つ彼女が立っていた。
「この間職場で貰ったの、嫌な香りだった?」
「⋯⋯いや」
頭の中の声は嫌な香りだという、自分の知らない香りがこの部屋にあることが何処か落ち着かなくなる。
向かい側に座った彼女は寒いからか厚着をしてコーヒーに息を吐いて冷まして飲んでいた。熱く入れたくせに冷ますのなら意味が無いと感じるのは昔からで、懐かしいと感じられる反面、彼女の左手にある指輪がひそやかに彼の胸を痛めつける。
「指輪、まだしていたのか」
「当たり前でしょ?あなたがくれたんだから⋯それより、平気?」
「今日は比較的マシだ」
「あなたの元職場の人が家に来たわ、大まかに説明をしてもらったからどこにいたのかも知ってる」
しばらく忙しかったんでしょ?という彼女にまだ自分のかつての仲間達が現役で仕事をしていることに安心し、なんの言葉も出さずに手元のコーヒーを眺めた。
聞きたいことはいくつもあると言うのに、彼女はそれを問いかけなかった、交際をしていた時期から聡い人だと彼は感じた。身の危険もあっただろうと聞けば彼女はそこもちゃんとして貰えていたから。と返事をして黙り込んでしまう。
「⋯⋯しばらく、いるんでしょ?あなたの仕事部屋はあのままにして特に触ってないから、使うなら良ければそっちを使って」
目元以外なにひとつ見せない彼の姿に彼女は察していたのだろう、彼を見る目は優しくもどこか遠く感じられた。
「報告書が来てたら見せてくれ」
「えぇ、すぐに持ってくるわ」
そんな彼女に伝えられることは在り来りな言葉だけであるが、そうして二人の歪な夫婦生活が再スタートしたのだ。
夢だと思った。
数年前、仕事の関係から行方不明となり、見つかったものの正気を失った自らの夫が帰ってこなくなり、そのまま関係は終わりに繋がるのだろうと思っていたからだ。
彼女は自分の夫が、以前の夫ではないことに気付いたのはコーヒー入れていた際に、彼の名前を呼んでも反応がなかったからだった。
「そういえば今はニクトって呼ばれているのよね」
「あぁ」
「私もそう呼ぼうかしら」
「好きにしろ」
素っ気なく、潰れた声、まるで何かを抑え込むような彼の態度が小さく胸の痛みを増幅させる。
あなた、ニクト、その二つでしか反応を示さない彼に対して以前の名前を持った彼は彼女の思い出の中にしか、もう居ないのだと感じてしまう。
元FSBの職員だった彼女に彼の同僚からも捜索以来は頼まれたものの非協力的な彼女はただ帰ってくることを待っていた、あくまでも同僚は夫を失った彼女を哀れんでの事であるが一年後送られてきた資料には彼が精神疾患を抱えこの寒い大地には足を踏み込むことは少ないだろうという結果だけだった。
夕食を共にする時、一度席について祈りを捧げる彼女を見たあと彼は無言で皿をトレーに乗せて部屋を出ていく、彼が飲み食いをする姿やシャワーを浴びる姿など、どれ一つ帰宅してから見たことはなかった。
あの分厚い服や防弾マスクの下に存在する傷はどうなっているのか、心配さえさせてくれない彼に彼女はどうすればいいのか分からなかった。
そこに愛がなければ切り捨てられる関係を、切り捨てられないのは毎夜彼女がベッドに入った後にシャワーを浴びた彼が抱き締めて寝てくれるからだった。
「ナマエ⋯⋯」
ある晩、彼は眠りについた彼女を抱きしめて名前を呼んだ。
その太い腕が腰に回され強く抱き締めては髪に顔を埋める姿を知らないふりをしていたかった、それは彼が触れると逃げてしまいそうな野生動物のようだと感じていたからだ。
「ナマエっ⋯ナマエっ⋯」
触れられたかった。
けれども彼の手は服の上から彼女の体を撫でるだけでそれ以上の触れ合いはなく、しばらくしては部屋を出ていく。
残った熱だけが彼女を残酷に置いていく、なんて酷い人なのかと責め立てたくても出来ずに彼女はしばらく帰ってくることの無い彼を想い慰めた、まるで二人は他人のようだ。
頭の中で何かが囁く。
―自分の女であるあいつを支配しろ
―あのままぶち込めばよかった
―いやお前は無理だ、弱虫だ
―彼女はあなたを求めてる
その醜い身体と顔を見せるのか?
思わず壁を叩きつけた、素直に吐き出された欲望は無意味に外の世界に出されて死んでいく。
鼻の奥に残った彼女のシャンプーの甘い香りに、優しく自分を呼ぶ声、荒い呼吸の中で頭の中の記憶で彼女を何度も犯した、その度に彼女を殴り苦しめ甚振り首を絞めていた。
それを思い出す度に、彼は自分の唇を噛み締めて血を流した、そんなことがしたい訳では無い、だが頭の中ではずっと彼女を傷つけたいという自分が存在することを彼は否定できないのだ。
吹雪が酷い日が続いていた。
夕食を仕込んでいた頃、一通の電話が鳴った。
ふとその音が自分のものではないと気付いた頃には電話を取った彼が廊下に出ていくのを静かに眺めた。
「また、行っちゃうの?」
「あぁそのつもりだ、必要なら金は送る」
「ううん、大丈夫よ」
祈りを捧げた彼女を見て椅子から立ち上がる彼にそう告げれば彼はそのまま部屋を後にした、約半年の生活はまた終わりを告げるのかと思う頃、彼女はテーブルの上を眺めては一人寂しく夕飯をとった。
「こっちは吹雪だ、明日には止むから今晩は無理だ⋯あぁそれで」
ここまで長居をするつもりはなかった、しかし彼女との時間はあまりにも心地よく離れられなかったがそれも今日で終わりだと彼は自分たちに言い聞かせる。
深掘りせずに受け止めていてくれた彼女に対して申し訳なさが募る。シャワーを浴びながら目に入る自分の姿はまるで化け物のようであり、失われた結婚指輪はまるでもう自分が彼女の夫ではないというようであり、頭の中の自分たちが更に騒ぎ立てる。
静けさが苦手だと感じるようになったのはいつからか。
頭の中に響く声のせいで、戦場にいれば騒がしい銃や戦車に爆弾の音がそれを誤魔化してくれる、自分を抑え込まずに自分の声を聞きながら行動できることが楽だが、彼女の前でそれを晒したくはないと感じていた。
触れていたい、愛したい、求めたい、そう願う度に己の手袋を外した手のひらでさえ醜い肌になっていることに彼は吐いてしまいそうになるのだ。
シャワーを終えて冷たい短い階段を登り廊下を歩いた。歪な床の音にこの半年間彼女を起こさないだろうかと不安になりながら近付いて、ドアを開ければダブルサイズのベッドには一人分の山がある。
起こさぬようにとベッドに潜り込み彼女を抱き寄せて髪に顔を埋めるとシャンプーやヘアオイルの交じった女性らしい香りが彼を刺激する、堪能しておきたいと彼女の身体を撫でる時、ふとその手が掴まれる。
「起こしたか?」
「起きてたの」
「寝てていい、俺たちももう寝る」
寝てくれ。と祈るような彼に対して振り向いた彼女は握った彼の手を自分の服の中に入れて胸に押し当てた。
「触って、出ていくなら⋯抱いて」
「⋯⋯出来ない」
「なら行かないで」
「⋯それも無理だ」
頭の中の声がざわめいた、してしまえばいいと言う声と理性を保てという声、まるで頭の中の天使と悪魔がずっと喧嘩をしているのを彼女は知っているのかとききたくてたまらないが、彼女は自身のズボンを脱いで彼の足の間を撫でたがそれでもニクトには無理だった。
「これ以上、お前のことを俺たちが幻滅させたくない」
夫である自分はもういないんだと突き放そうとするも彼女はそれを許さずに彼のシャツを掴み、そして肌を1ミリも出さないように着ていたインナーを捲りあげて暗闇の中で晒そうとするのをニクトは必死に止めた。
華奢な女の体をベッドに押さえつけ口を片手で封じて見下ろした時、彼女の頬には涙が流れていた。
彼女が鼻をすする音が部屋の中に響く。
暴れたことにより晒されたニクトの腕が彼女の視界に入っていたかもしれない、醜く爛れた傷だらけの身体を誰が好み愛してくれる?
不能になった訳では無いが、彼女の知る自分という存在がいないのだと気付いたのは、彼女が愛おしそうに名前を呼んでくれた時、その名前が自分だと分からなかったからだ。
ふと、痛みを感じて視線を向ければ彼女は彼の手を噛んでいた、薄らと血が滲み痛みを認知しては口元から手を離した頃、その防弾マスクをつけていた彼の頬が勢いよく叩かれた。
「バカにしないで、何年ここであなたを待ってたと思うの」
「⋯⋯俺たちは、俺たちじゃ、なくて⋯」
「知らないわよ、あなたが⋯だろうが、ニクトだろうが、誰だろうが、私にとって同じなのよ」
この家に帰ってくるならあなたはあなたで、私は"あなた"に触れられたい。
「あなたがいい⋯⋯」
結婚をすると恋人が名前を呼ばなくなる。
彼女はよく"あなた"と呼んでくれた、それは名前でもなにでもない二人称であり、彼の小さな救いだった。
泣きじゃくる彼女を見下ろしてニクトはその薄い手袋をはめた手で必死に拭っては「悪い⋯」と呟いた、拒絶したかった訳ではなく、彼は自分がただ恐ろしいとずっと思っていた。
自分の中にある沢山の存在が彼女を苦しめてしまうから、写真を眺める度に幸せだった頃の記憶だけでいてほしいと願っていた。
「⋯⋯今のあなたを教えて」
そういって服に手をかけた彼女を止める理由はもうなかった。
暗い部屋の中、薄く灯るのは部屋の中にある電気ストーブの光だった。
彼女の手でパジャマを脱がされその下に着ていたインナーを脱がされ、次第に露になる傷だらけの醜い身体は、銃創だけではなく焼けただれた皮膚が晒される。
もう数年経過した傷はずっとマシになってはいるものの、それでも彼女の目にはどう映るのか気にならないわけが無いが、彼女はニクトと下着をおろしてはまだ柔らかいその場所に触れながら身体にキスをした。
「⋯⋯っ」
くすぐったい彼女の唇と吐息が身体に触れる、首筋を撫でて甘く噛み付いた彼女の姿に身体を震わせると鎖骨から胸に唇が落ちて、まるで女の身体を遊ぶ様に彼女は胸に吸い付いて、少しづつ熱を持った彼のものを握った。
「勃ってくれてる」
「⋯生憎、そこはまだ元気だ」
「私以外と寝た?」
「俺たちがそんなこと出来ると思うのか」
身なりやそんなものを差し置いて。といいたげに冷静な瞳が彼女を見つめると彼女はゆっくりとその身を下げて布団の中に潜り込み、彼の足の間に身を寄せては両手で無傷のその場所を撫でる。
「⋯三年だもの」
「っ、く⋯⋯」
「私より、いい子がいるのかと思った」
彼女の手が彼の全体を包み込みながらも溢れるカウパー液を拭うように彼の小さな尿道をつめ先で刺激するとニクトの足がビクリと反応する。
嫉妬と嫌味だとわかって告げる彼女は固くなったモノに唇を落として彼の雪のような瞳を眺めて問いかける。
「俺たちには、いつも⋯ナマエしか、いない」
「本当?」
「誓う⋯っあ」
熱い口腔内に飲み込まれてしまう。
狭い喉奥までしっかりと招いた彼女は苦しそうだが気にせずに頭を上下して彼のものを奉仕する時、自分が酷く興奮していることを気付いていた。
事実を知るのは彼だけだが、それでも自分しかいないと言われて喜ばないわけがなく。あの頃と変わらぬ反応でその身を震え上がらせる彼を見てはますます責めたくなってしまう。
ニクトは久方振りに味わう彼女の口淫にその背中を震わせながら聞こえてきたмилашкаという言葉に懐かしさを感じてはシーツを握りしめる。
彼女から受ける愛撫を拒絶することは出来ずに受け止めては心地良さに身を委ねるものの、その目頭に溜まった涙に気付いては拭ってやると彼女はますます喉奥まで受け入れては刺激した。
「ハァッ⋯⋯ん⋯」
激しい動きに身を委ねるものの彼女はふと以前の彼であれば限界に近くなる状況だというのに反応を示さないことを知っては思わず目を見て不安を感じた。
やはり不安は的中したのかと必死に彼を刺激しては次第に顎を痛めて力が出なくなり、10分20分とした彼女にニクトは流石に止めるように引き離してやるが不満気な顔を向けられてしまう。
「すごく良かった」
「嘘でしょ、昔のあなただったらとっくにイッてた」
「それは⋯⋯」
言い淀むニクトに彼女は思わず彼を押し倒してはその上に跨り、別に他に女がいたとしても自分を抱いてくれるなら構わないと言い聞かせるものの、ニクトは暴走を始める妻を抱き締めてはベッドに寝かせて三年前よりも少しだけ肉のついた身体を撫でた。
「俺たちの身体は、鈍感になったんだ、だから反応しづらい」
「気持ちよくなかったってこと?」
「違う、気持ちいいが、上手く反応ができないだけだ」
服を脱がせて現れた乳房を掴むニクトの言葉に彼女は・・・と間をあけた、どうやら上手く言葉の意味を理解できていないらしいな。と思いつつもそれ以上の説明が出来ないと彼が悩むと彼女は目を丸くして明るく声を上げた。
「つまり遅漏になったってことね」
俺たちの妻はストレートなところがありすぎないか?と彼の頭の中でそれぞれが会話を始めた、それまでひとつの事に集中していれば黙っていたというのに、罵倒から賛美までありとあらゆる言葉が浮かぶ中でニクトは言葉を飲み込んだ。
「⋯⋯それは自分で体験して判断してくれ」
「あっ⋯、私は⋯っ」
黙らせようと彼女の下着の上から足の間を撫でればそこはぐっしょりと濡れており、彼の指を簡単に汚してしまうことに暗闇の中で見つめると彼女は視線を逸らしてしまう。
「随分と、あれだったんだな」
「言わなくていい⋯」
当たり前でしょ。と呟いた彼女の表情がどれだけはっきりと見えるのか伝えれば目を覆われるかもしれないと思った彼は薄明かりの中の彼女を見つめてはしたぎを下ろしてやり、直接その薄い茂みの中に指を滑り込ませた。
自分の指とは違うと思う頃、手袋を外した指先が足を撫で湿った中心部に流れる。
節くれ立ち乾燥した指先が触れる感覚を久方ぶりに味わっている間もなく、その指先は簡単に侵入してしまうことに彼女は恥じらいを感じていてもそれが抑えようのないものだということを知っている。
自分の中で蠢く指先は知っているように彼女の中を泳ぐ度に布団の中で小さく聞こえる水音が彼女をさらに辱めるというのに、ニクトの眼差しは昔と変わることがないままで彼女のナカを平然と解していく。
「ッ⋯⋯も、いい、から」
その言葉にニクトは濡れた手をシーツに押付けてベッドサイドの棚を漁っては案の定用意されていた避妊具が未開封であることに思わず自分の下の彼女をみつめた。
これが開封されていたならば彼の心は穏やかでなかっただろうが、ホコリひとつも被っていない真新しいソレに彼女を思わず見つめると顔を赤くした彼女は顔を背けた。
それが全ての答えであるというのに彼女は素直にも「だって⋯⋯」と呟く唇にマスクを外した唇で塞げたらどれだけ良かったのだろうかと思いつつ、それを求めるように彼女の頬に口元を寄せると流し目で交わった彼女が寝る時も外せない防弾マスクの上から唇を重ねた。
「俺たち以外と何も無かったか」
「嫉妬するから」
「しなきゃ、してたのか」
「意地の悪いこといわないでよ」
そんなことをするはずが無いと分かっていてもその口から聞きたかったのだから仕方がない。
元より口数の多くない彼は目でものを語るが、それはあまりにもはっきりしたものでいつも困惑してしまうのだ。
「あなた以外知りたいと思ったこともないのに」
だからこそ、その胸の内をいつだって素直に言葉にした。
寂しいと触れたいと会いたいと願う彼女に顔を合わせられなかった数年間、ニクトとしての彼はほんの少しだけ彼女が自分をまだ想っていてくれるだけでも嬉しいと思っていたことは、それ以上の感情を持ち待っていたくれたことにより、彼の傷付いた心が安らいでしまう。
薄い隔たりを感じながらも狭い彼女のナカに己を沈めたニクトはそこがとても熱く狭いと感じては根元まで繋がると彼女を強く抱き締めた。
「は⋯⋯ぁ⋯」
「苦しいか」
頭の中の声はもっと求めてもいいと叫ぶ。だがニクトはその声を無視し続けた、自分の腕の中のか細い女が何処までも愛おしいからだ。
0.01mmのゴムラテックスの隔たりがあろうと二人は暑く絡まりあっており、外の吹雪が窓を鳴らすとしても汗が滲んでしまうほどに二人は互いの肌の温もりを感じる。
「久しぶり⋯だから、ちょっと、ね」
「大丈夫だ、ゆっくりする」
「ううん、平気⋯シテ」
あなたを感じたい。そういわれて喜ばないわけが無いと彼はしばらくそうした感情のなかった部分が動かされては彼女が本当に最愛の人なのだと感じられ、腰をゆっくりと動かした。
少し古びたベッドは二人が揺れる事にギシギシと鈍い音を奏で窓の音を消してしまうようだった。
「あっ!ッ⋯ぁ、ん」
熱い吐息が洩れては溶けていく、まるで雪のようだった。
ぼんやりとした赤橙のストーブの灯りだけが部屋に色を入れて、二人の繋がりを露わにする。
「ッ⋯あ、クッ⋯イクっ、ぅ⋯」
「⋯ナマエ、まだだ」
幾度も繋がった。
何度もベッドの中で身体を変えて。
何度も絶頂を迎えさせられても終わらない行為に彼女は息も絶え絶え寝そべっては自分の腰を抱く彼が労わるように頬を撫でる姿を眺めた。
「はぁ⋯ぁあ!⋯も、っお、だめ⋯っ!」
「俺もそろそろ⋯イキそうだ⋯」
互いの繋がり合う音が部屋の中に響く。
掠れた声が重なり合い、彼女の指に自分の指を絡めては最奥を何度も叩いてはようやく絶頂を迎えたニクトはその身体をぐったりと崩れ落ちさせれば、優しい手が彼の背中を優しく撫でた。
瞼がゆっくりと落ちてはニクトはその日、数年振りに深い眠りへと落ちた。
なんの声も聞こえない、感じるのは心地よい心臓の音だけだった。
「そういえば聞かなかったけど、喉は痛くないの?」
翌朝コーヒーを飲んでいた彼女がそう問いかけた。
ニクトは仕事の依頼をかけてきた相手にメールを打っていた。ニュースを眺めていれば吹雪は夕方には落ち着き、飛行機も飛ぶだろうというアナウンサーの声を聞いていたがひとつ悩んだ末に送信を押しては彼女を見た。
「痛くはない、気になるか?」
「ううん、セクシーな声になったと思って」
その声も素敵だと笑う彼女から視線を逸らしてリビングに並んでいる結婚式から日常までの二人の写真をみては、もう自分とは程遠い姿だと自嘲しつつ、手袋をはめていなかった左手の指に何も存在しないことを思い出しては胸が痛む頃、いつの間にか隣に来ていた彼女が写真を手に取って笑った。
「あの頃も今も私の好みだわ」
「⋯⋯それはよかったな」
思わず写真を手に取った彼女の手を見ればそこにはしっかりと指輪がはめられていることがさらにニクトの心を小さく刺激する。
罪悪感であるが彼女はその視線に気付いては「指輪無くしたのね?」と態とらしく眉をキッと逆さ八の字にしては問いかけたことに、ニクトは何も言い返せずに押し黙っていると彼女は罪悪感があるのかと問いかけた。
「⋯⋯自分の名前もハッキリともう覚えてない、指輪もない、俺たちは以前のものじゃない」
自分の中に数多の自分が存在し、それらはニクトの本来の心に従っているがゆえかこの家にいる時には静かで、彼女に対してさまざまな感情を含んだ愛情を向けていることも騒がしい頭の中で冷静に理解していた。
「じゃあ、今のあなたをみせて」
「それは⋯⋯」
マスクを外して欲しいという願いだとわかった彼はそれがどれだけ醜いものか理解していた、鏡に映った素顔を見るだけで自分が保てなくなるほどだというのに、その姿を彼女に晒すのかと自問自答を繰り返している間に、彼女の手が防弾マスクを触れた。
大袈裟に彼女の手を取ろうとするが、彼女は真っ直ぐと彼を見つめて防弾マスクの金具を外し、そして目を閉じて彼のマスクをずらした。
「キスして」
それだけでいい。と告げる彼女は瞼を一切開かなかった。
それはニクトが晒せない理由を知っていたからであり、無理強いをしたい訳ではなかったからだ、ただなんの隔たりもなく彼と唇を重ねたいと願う彼女の意思を理解したニクトは傷だらけの手で彼女の頬を包み、その唇を重ねては防弾マスクをつけ直した。
顔を俯かせた彼女に「もういい」といえばようやく顔が上がるが、その顔はまるで真っ赤なリンゴのように赤く、恋をした幼い子供のように純情な反応だった。
「やっぱりあなたはあなただわ」
そういった彼女にニクトは腕を伸ばして強く抱き締めた。
「今晩また一緒に寝てくれ、そして明日俺たちを送り出してくれ、必ずまた帰ってくる」
それは彼の切実な願いである。帰る家をようやく見つけたニクトのその言葉に彼女は背中に腕を回してもちろんだと言った、夕飯は同じ部屋で別のテーブルでもいいから食べようと誘いかけるとニクトは二つ返事の了承をした。
その温もりは以前の彼の変わりないものであり、彼女は頬を緩めた、例えどんな姿になろうと、どんな形に変わろうとも、その魂は変わらないのだと感じられたから。
その夜、外の雪はすっかりと止んでいた。
二人はベッドの中で互いを抱き締めてはその温もりを味わった。
ずっとずっと変わらぬ熱を、何年経っても分かち合うように。
2025.11.21
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