カタカタと音を鳴らして針が進む、真っ直ぐと進むその針は迷いもなく不安も何も感じさせやしない。
ふと手元に舞い落ちた一枚の桜の花びらに思わず顔を上げて外を眺めれば、まだ蕾ばかりの桜の木の中で小さく咲いていた桜が落ちてきたのだと気付く。肌寒い日もあるが春の訪れに近付くように暖かな日差しと風が部屋に舞い込む。
もう一度手元のミシンに視線を落として、カタカタと無機質な音が部屋に響き、丁度縫い終えては手元に手繰り寄せる。
真っ白でふんわりとしたシフォンのワンピースは何処か彼女にとっては乙女チックで幼くも見えるが上品でどんな女も少女の様に煌めかせるようであり、部屋に置いてある姿見鏡で服の上から合わせて眺めれば眺めるよりもずっと魅力的に感じられ、思わず綻んでしまうものの直ぐに寂しさが胸を埋めてしまう。
「康市(こうい)っちゃんなら、もっと似合ったのにね」
自分でも悲しくなるほど寂しい声で呟きながら仕事机の上にある写真を眺めたそこには飾りっけなどない、一人のまだ幼い顔をした青年がそこに映っていた。
彼女にとって、最愛の夫であり、良き友人で、そしてかわいい妹だった。
◇◆◇
それは突然のことだった。
二十代半ばになろうとする一人娘が何処にも嫁がないという問題、幾度も見合いをさせても相手の男の自尊心を守ってやれず彼女はその達者な口で見合いに来た相手を言い負かし、自身の親への顔立てなども考えなかった。
貿易商人の父と程よく家柄のいい母は一人娘だとして甘やかしすぎたのだと悔いたものの、そうして甘やかされた彼女は洋裁学校に通い、それはそれは自分の好きな物に没頭した。
そうして二十五になる直前、突如として連れてこられたのが生涯彼女の夫であり、親友であり、妹となる。
泉康市である。
念の為にと見合い結婚という体の良い形を取らせはしたものの、二人には拒否権など存在はしなかった。彼女は酷く苛立ちを覚えつつ二人きりの部屋の中で目の前の男……いや、男と呼ぶには泉という青年はあまりにも頼り甲斐のなさそうな姿だった。
父親が教師であり、彼女の母の知り合いだからと引き合わせられたものの、勝気な女と気弱な青年ではあまりにも違った上に、自身より年下でまだ学生の身分であるとされれば拍車をかけて幼くみえてしまう。
「……」
「……」
見合いの席は最悪だった。
彼女のことを両親、特に母親は手に職がある故に貰い手がなくやや晩婚気味、このままでは一人娘だというのに恥ずかしい限りだと告げ。
泉の両親、特に父親は彼を男らしくなくナヨナヨしており、一人息子だというのに女遊びのひとつもせずに恥であるしのだと告げる。
そうした親同士の挨拶の席で彼女は全くもって不愉快な気分になってはあからさまな態度をとったが故に目の前の相手も萎縮していることはわかっていたものの、何も言わぬ彼が余計に彼女を苛立たせる。
「私たち結婚するんですよね?康市さんとでもお呼びいたしましょうか」
「え…あ……はい…」
「さっきからその態度、私があなたに何かをしましたか?結婚が嫌ならそういえばいいでしょう」
女、結婚、家庭、子供。
全てが彼女に苛立ちを感じさせる言葉ばかりであり、目の前の彼が何も言わぬことに彼女は苛立ちつつ着飾った着物の帯が苦しく感じて尚のこと文句が自然と出てしまう。
和装が美しいことは否定はしないが、洋装の自由さが好きであり、こんな堅苦しい席もワンピース一枚でよかったじゃないか…と彼女は思わず誰にいう訳でもないが呟くと、ふと向かいから感じる視線に何かと見つめ返した。
「洋裁学校に通っていらしたんですよね」
何処か興味があるような彼の言葉に少しだけ驚いてしまう。
女が手に職をつけることを毛嫌う男は多い中で泉は何か楽しそうに期待したように問いかけてきたからで、彼女は今も服飾をしていることを告げた。
「どういったものを作られるんですか?」
「別に普通の服ですよ、つまらない……興味があるんですか?」
「あっ…いえそんなこと……」
そういえば学生か…と思い出しつつ、あの父親を見ていれば服飾関係ではないと予想して彼の服装を眺めては、シンプルな洋装であるが彼女が目を惹かれたのはその黒柿色のネクタイだった。
「それ……すごく素敵ね、誰かに頂いたの?」
タイピンまでしっかりとしているその装いに彼女は目を輝かせて、はしたなくも机の上に乗り出して問いかければ、泉は驚いて僅かに後ろに下がるが自分が選び買ったネクタイを褒められたことに思わず嬉しく感じてしまう、そんな相手から一言許可を得た彼女は隣にやってきては手に取ったネクタイをまじまじとみては、うっとりとした表情で眺める。
黒柿色のネクタイの裏地は雄黄色が使われており、落ち着いた装いの中に見られる僅かな遊び心、ネクタイピンは一件何の変哲もないものにみえて小さな石が入っており、ネクタイの色をさらに引き出させている。
「すごく素敵なセンス、ハイカラでとても似合ってるわ」
「本当ですか?ありがとうございます」
思わず顔を上げた時、その距離の近さに互いに吐息が薄くかかり、思わず心臓が飛び跳ねた。
薄くおぼこい顔をしていると思っていた泉を彼女はその時はっきりと素敵な人なのだと認識しては、これから学校終わりでいいから家に来て欲しいと頼んだ、問題を抱えていたであろう両家は円満に進んだような二人の姿に安心しては、すぐさま結婚の支度に取り掛かり二人は夫婦となった。
だが彼女は泉が自分以上に望んでいないことを理解していた。
「そんなに気になるなら手に取っていいのよ?」
「いえ、大丈夫ですよ、お仕事道具ですから何かあったらダメですし」
結婚をしても互いに生活はほとんど違った。
元より偏屈なところのある彼女だった為、自分の趣味や仕事を辞めるなど言語道断、特に学生である夫のことを考えれば仕事を辞めるのは考えられないことだとお国のためにという建前もなしに一刀両断した。
泉の家も、問題のあった息子が結婚したという事実だけで満足するように我慢をし、彼女の母親は猿叫したようにその夫婦とは思えぬ関係性に毒を吐いたが一人でも生きていけると平然とした態度で告げる娘には敵わなかった。
仕事を昼過ぎで終えては自宅から徒歩三十分の実家の自身の部屋で自分の作りたいものを作り続ける彼女に泉は大学が終わると会いに行き、その様子をいつも静かに心地良さそうに眺めた。カタカタと鳴るミシンの音も、布を選ぶ姿も、紙に描かれた様々な服のデザインも、そのどれもが見知らぬ世界で魅力的なのだ。
そんな二人が夫婦以上に強い絆で結ばれていることを誰も知らない。
親からしてみれば二人は大層困った夫婦ではあるものの、仲睦まじいことだけは確かであり、気難しい彼女のことも考えて小言は想像するよりも少ないものであるがそれでも孫の顔をという声は多くあった。
「康市(こうい)っちゃんは子供が欲しい?」
「…え、あ…それは、当然」
「嘘はやめてよ、親のためだけでしょ?」
日記をつける彼女は就寝の用意をする泉に問いかけたのは夕飯時に同居している彼の父から案の定孫の顔は…という話題が出たからであり、彼女は外国製の万年筆に黒い革張りの手帳に日々のことを書きながら子供は自分たちには不要だといった。
いつの間にか泉のことを康市(こうい)っちゃんと呼ぶようになったのは彼女は彼を弟のように思えたからだ、結婚をした夜に彼女は赤い紅を布団に塗っては初夜を誤魔化したのは相手がそれを望まないことを知っているからで、泉はそんな彼女の全ての行動に救われてきていた。
「でもやっぱり子作りは必要ですよ、誤魔化すのだって…」
「大丈夫よ、女が絶対に子供できる訳じゃないんだし、それに私は康市っちゃんとそういうのするよりも話してたい」
「……僕も、そっちがいいな」
日記のために点けていたロウソクの明かりにぼんやりとみえる互いの表情を見て安堵する、まるで仮面や偽装夫婦だとしても二人には互いに生きていたい道があるからだ。
「あっあっ…だめっ、康市っちゃん…」
「あぁ、僕も…」
隣同士で敷いた布団の中で二人は思わず笑ってしまいそうになりつつも、情事のフリをした声を不器用に奏でる。薄い戸の向こうで彼の母親が不安がる父親に言われて聞き耳を立てに来たことを知っているからだ、泉の母は悪い人ではないがいかんせん気が弱い人だと彼女は感じられており、ようやく去っていったのをみては二人はクスクスと声を殺していたずらをした子供のように笑い、心地よく眠りについた。
夫となった彼を弟の様な友人のように感じた彼女が本格的に心の内を知ったのは結婚をして一ヶ月のことだ。
彼女が仕事に立て込んで遅れて実家の自分の部屋に戻ってきていた時、その人が自身の紅を薄く引いていたのをみてしまったことだった。
「康市さん?」
その言葉と同時に振り向いたその人は彼女を見るやいなや、口元を慌てて拭い逃げ出そうとするも、ドアはひとつしかなかった為、泉の腕を取り慌ててドアに鍵をかけて閉めて顔を覗き込んだ。
洋室となった彼女の作業部屋の中は父親の仕事の関係で集められたアンティークな家具で揃えられており、他の者を異国の地にいるような気分にさせる。
だからこそ、彼もまた酔ってしまったのだ…自分の本当の姿をその美しい鏡に写して、恍惚としてしまっていたのを知られてはならない相手に知られた、父親に顔の形が変わるまで引っ叩かれ、母親の悲しそうに俯いた表情を思い出し、上手くいけると思った相手の表情が怖くてみていられなかった。
「ねぇ康市さんみせて、すごく綺麗だった」
「……え」
「もう一度塗らせて、鍵は閉めたし、外からこの部屋は見えないから」
ずっと触れてみたいと思っていた。
おぼこく幼い顔立ちは男と呼ぶには些か丸く華奢であり、白いその肌に紅を指せばどんなに美しいのかと想像したことがあるが、ドアを開いた途端に見えた紅を指した、その人はまさに彼女の理想のモデルだった。
「白いシャツだったから口紅が着いちゃってるし…ねぇよかったら私が作ったブラウスも着てほしいの」
「え、うん……わかりました」
気持ち悪いと罵られればいい方だと思っていたことは全く予想しない結果となり、泉は手渡されたブラウスを手にしては目をキラキラと輝かせた。
ふんだんにあしらわれた首元のフリルに美しいビジューのボタン、ふんわりとした袖口は乙女心を刺激する甘い物だった。
まるで着せ替え人形のように椅子に座らされては彼女が日頃使用する化粧道具で彩られる時間はまさに幸福の時間であり、泉はこれは自分の幸せなのだと深く感じられた。
「完成したからみて」
「…わぁ……綺麗」
「康市っちゃんって本当にかわいい素敵」
かわいい……それは子供に向ける愛らしいという意味ではなく、一人の人間を相手に告げられた言葉だと感じられては頬の熱が上がっていく。
鏡の中の自分はまるで別人であり、短い髪が多少勿体なく見えてしまうが、それでも泉にはどうしようもない喜びを感じられたが男として振る舞わねばならないのだとハッとしてしまうが、彼女は慌てたような姿に肩を押して首を振った。
「康市っちゃんと私は夫婦なんかじゃなかった、私たちきっと姉妹なんだわ」
どうして彼女は欲する言葉をくれるのだろうかと考えては頷いた、二人は夫婦として見せて姉妹として過ごした。
短くも長いその時間は泉にとって夢の時間であったものの、時間が経つにつれ、戦争が激しくなるにつれ、さらに彼女を苦しめた。
それは泉が二十歳になると同時にやってきた。
学生であれど戦況が激しくなったその時にはもう徴兵は絶対的であり、その人は進んで入隊するのだと胸を高らかに宣言した夕飯の時間、彼女はなんの味もせずにいた。
「本気でいくの?」
最後の二人だけの時間、彼女の自室となる作業場で内緒の秘め事をいつものようにしていた。
「最後にもう一度お化粧をして」という頼まれごとに彼女は手を震えさせながら施していたものの、明日には行ってしまうことが近づくに連れて辛くなるのは当然のことだった。
「行かなきゃ、そうしたらあなたにも両親にも誇れる人でいられる」
「私は今の康市っちゃんだって誇れる」
「…ありがとう、だけどわかってるでしょ」
この世界で泉康市という存在は認められない、彼が<彼女>になることはこの世界では今はまだ許されはしない。
あの日、姉妹として絆を強めてから二人は本当の姉妹のように服を着て化粧をして、二人だけの小さな楽園をこの部屋の中で築いていたがそれはもう終わりになるのだ。
泉からしてみればこんなにも自分を受け止めてくれた相手はいないと理解しており、彼女に感謝してもきれないほどで一通り化粧を終えた<彼女>を真っ直ぐと見つめると彼女は震えた声を漏らす。
「本当はね、私康市っちゃんのことが好きなの…性別とかそんなのじゃなくて、あなたが好きよ」
「…知ってるよ」
ボロボロと泣き始める妻に対して、そう告げたのは彼女の優しさを知っているからだった。
性別という概念ではなく心から愛してくれていると感じるのはその指先や表情だけで十分であり、彼女が悩んでいたことを知っていた。
泉もまた、彼女に向けて心が揺さぶられていたからであるが、答えはだせないままである、
薄く開いた窓から風が入り込んで二人を優しく撫でる時、康市は彼女の口紅を指した唇に初めて自分の唇を重ねた、一瞬の出来事であるがそれは長く永遠のように感じられて胸が引き裂かれるような痛みと包み込まれるような温もりを感じては、薄く紅がついた姿に彼女は美しいと感じたのだった。
◇◆◇
あれから何十年が経ったのか分からないが、それでもあの日か想いは消えはしない。
素敵な夫で、かわいい妹。
優しく笑う彼の姿や穏やかなその声が好きだと思いながら手元のノートを眺める。
あの日二人でずっと話し合ってデザインをした服はきっと彼女が着たかった服たちであり、彼女は永遠にそれを作り続けた。
いつか彼女がそれを着ていてくれたらいいのにと願って、スカート履いて、エナメルのパンプスを履いて、薄い桃色のリップをつけて、生きたいように生きてくれればよかった、本当に心から愛する人に出会い、その人のために生きてくれたらいい。
「康市っちゃん…」
そう呟いた声を連れ去るように春の暖かい風が頬を撫でる、
どうしようもない悲しみを連れていくように。
ずっとずっと、彼女の胸の内で、泉康市は生き続けていた。
夫として、友人として、妹として。
ずっと…ずっと……
ペリリュー楽園のゲルニカ
2025.12.04
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