「足が速いって楽しい?」
そう聞いてきたのが彼女との出会いだった。
中学に入った時、小学校が別だった彼女はホームルームが終わると同時に俺に声をかけてくれた、隣の席で入学してからもう二週間、俺は陸上部に入っていたし友達もいたから、それなりに人付き合いがある。
そんな中でも女子から声をかけられるのは少しだけ驚いた。ハツラツとした笑顔の彼女に名前は…と少しだけ考えるのは本当に話したことなんてなかったからだ。
「楽しい…と思う」
「疑問形なんだ、楽しくて走ってるわけじゃないの?」
よく聞かれる質問はいつも困るけど楽しいよりももっと違うものが俺にはあるのに、それを説明するのはいつも苦手で言い淀んでいると彼女は立ち上がって部活があるからまたね。といって俺を残して去っていった。
それが彼女と俺の出会いだった。
あの子は普通の女の子で、少し足が遅くて鈍臭いけど、女の子らしく家庭科部に入っては料理に裁縫に学校の花壇の花の手入れまでを良くしている。家庭科部は大抵お菓子目的ではいる人ばかりだと知ったのは二年の頃で、彼女は家庭科部の中でも好き好んで何でもするタイプなんだという。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
なんだかんだとあの日から俺と彼女の縁が出来て中高と六年同じクラスになった。学校が変わっても同じなのはちょっとした運命を感じてしまうほどだが少しキザな気がしていえなかったが彼女は「運命かもねぇ」なんて嬉しそうに神社で引いた恋みくじの大吉を手にして俺を見るものだから照れくさいけど「かもね」と返事をした。
中学の部活終わりはみんな同じ時間で、少しだけ残って他の友達と別れて帰った時が彼女との二度目の接触だった。
二度目というのは隣の席同士なのに変なものだが、俺はやっぱり話もあまりしてなかったからその日、あの子が元気に笑って「トガシくん」と呼んでくれたことを二度目にする。
「ねぇ、ちょっとさ、あそこまで競争しない?」
帰り道はほとんど同じで家を聞く限りは学区がわかれる分かれ道のところが正反対だったということ。つまり彼女か俺がその学区を分ける見えない線のどちらかに寄っていれば小学校から同じだったのかもしれない、そうすると多分彼女と俺は十二年間同じだったかもしれないと思った。
「いいけど、走れるの?」
「走れる、走れるよ。こうみえてもかけっこ大好き」
中学生なのに小学生みたいに言うんだなと思いつつ、じゃあここからあの電柱までね。と俺たちは荷物を置いて用意をした、かけっこをする時のような普通の在り来りなフォームというフォームでは無い姿勢で俺たちは横並びになった。
部活や授業以外で、それも校庭やトラック以外で走るのなんていつぶりだ、去年の小宮くんとの思い出が少しだけ思い出されてしまう。
「よーい、どん。」
俺は無意識に走り出した、走り出して、横を向いて、振り返った。
「え!?おそっっ!」
思わず声をあげるけど彼女は俺がゴールする間にまだ半分程度だったけど必死の顔をして走っていた。
「やったー、ゴールしたよ」
「え、あぁ…うん、まぁ、ゴール…だね」
正直多分彼女のゴールタイムは十五秒くらいで、それはもう遅くて、頭の中ではウサギとカメの童話を思い出したが、生憎と負けるというものだけは浮かばない、俺はいつでも全力だったから。
でも彼女はそりゃあもう一等賞が取れたくらいに嬉しそうに息を切らせて笑ったものだから、俺は何かもっと違うものが大事なのかもしれないと思えた。
「かけっこ好きなんだ、いっつもビリだけど」
その時、俺はこの子のことがすごく好きだと思った。
夕方──満員電車を降りては人混みに流されるように改札を流れて出ていく、外はすっかりと幻想的な夕暮れの色になっていて、そういえばこれをマジックアワーっていうんだっけかと先日観た映画を思いだしながらフラフラと歩く。
全くもう疲れたと重たい足を引き摺って駅前の商店街を通り過ぎようとすると、視線の先には見覚えのある女性が悩ましい顔をして魚屋の魚を睨みつけていた。値段か、新鮮さか、はたまたもっと別の何かで悩んでいるのか彼女の眉間にシワが寄せられてるのを見ては、それ以上はかわいい顔に寄り続けるシワはよくないと思って名前を呼んだ。
「あっ、トガシくん!」
パタパタパタと駆け寄ってくる姿はちょっと子犬に似ていて、彼女は満点の笑顔で手に持ったエコバックの中身を自慢げに見せてくる。どこで買った卵が…ここで買ったカボチャが…あそこで買ったお肉が…なんて話をする彼女が仕事終わりにその小さな身体であれやそれやと寄り道する姿は安易に想像がつく。
趣味は恋愛ドラマとスーパーの最安値比べにタイムセール。ちょっと今どきにしては古風な感じがするけど彼女はランランとしていつもチラシを見比べたりスマホのアプリを片手に家計簿のノートをつけてるのをみると何も言えない。それどころか周りにはいいお嫁さんだ。としみじみ言われるけど俺たちはまだ結婚なんてしてない、まだちょっと不安定だし出来ない。
「重たいから持つよ、結構買ってるけどまだなんか悩んでんの?」
「ありがと、悩んでるって訳じゃないけど秋刀魚が"食べて〜"って顔してて悩んでるの」
「秋刀魚…いいね、俺も食べたい」
「本当!?じゃあ奮発しちゃおう!やったー、今日は秋刀魚パーティーだ!!」
ルンルンらんらんと踊りそうなほど嬉しそうにいう彼女の声を聞くと、言葉の後ろに全部!がついてるんじゃないかと思うくらい元気で俺の心はちょっとだけ癒される。
秋刀魚パーティーとはいうが買うのは二匹だけ、奮発するとはいっても一匹百五十円なのだから大したことじゃないのに、彼女は小さい喜びをいつだって全力で喜んで、悲しい時には分かち合って支え合ってくれる子だった。
すごく好きだ。
帰り道はすっかり暗くて彼女がしっかりと手を握ってくれて歩いてくれる。そうするとなんだか知ってる道でも落ち込んだりしている時は気持ちが楽になってきて、俺は適当な相槌を打ちながら彼女の話を聞いている。仕事で何があった、お客さんがこうだった、同僚のあの人が、そういえば近くにできたカフェが。なんて毎日々々尽きることなく話してくれる彼女がいてくれなきゃ俺は今よりずっとダメになってると思う。
エレベーターで二人きり、ようやく静かになった彼女がぼーっとエレベーターの中のモニターを眺めているのをみる。口がちょっと開いててマヌケで丁度モニターに写ってるビーバーみたいな顔をしててかわいい。
「ナマエちゃん」
なぁに?とぼーっとした顔で振り向いたその子に俺はキスをした、本当は家でしようと思ってたけど我慢ができなかった。今日はちょっとだけ悲しいことがあった分、彼女から元気をもらったせいだ。
太陽みたいに笑う彼女はいつもチークのせいかオレンジ色の頬をしてるのに、キスをしたら赤く染っていくのが面白くて好きだった、なにも言わない彼女にもう一回と顔を寄せると、丁度音を立ててエレベーターが開いて彼女が慌てて逃げ出すようにいってしまう、こういう時だけ足が早い。
「トガシくん」
「なに」
甘えたような彼女の声はすっかり照れちゃってる様子で俺は少し機嫌がよくなってしまう。先を行った彼女が足を止めるのを真似して足を止めて耳を傾ける。
「秋刀魚パーティーはあしたでもいい?」
その言葉に彼女の耳が赤くなっていて、今にもボンッと沸騰しそうになっていた。手の中のエコバックに最後に入れられた秋刀魚は俺を見ては"いいよ"と返事をするから、ご飯は炊いてるし昨日の残り物を片しちゃったらいいんじゃないかな。と彼女に今日はご飯なんて作らなくていいように言うと背中を向けて歩いていくから、俺は大股で三歩くらい進むと簡単に彼女の手が掴めた。
「相変わらず遅い」
ちょっと意地悪に笑っていった。
「かけっこが好きなだけだから、ビリでも楽しいの」
そういった彼女と俺の感性は全然違うけど、胸の中にある愛情だけはしっかりと同じものだと感じて、玄関のドアを開けるなり、走るよりも早く彼女が俺にハグをするのだった。
2026.01.04
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