暗き闇が支配する冥界、その世界を支配する王ハデスの執務室では今日も彼が静かにそのペンを動かしては冥界に関わる書類の処理に追われていた。
そしてその執務室のソファに腰掛ける女の前には三段重ねのティースタンドに心地よい香りの広がる紅茶が鎮座しており、彼女はラベンダーカラーのマカロンを手にとっては一口食べながら呟いた。
「ねぇハデス聞いてよ、最近冥界に来る人達ってば文句ばっかりよ。こっちの移住区を広げろだ、あっちの領土がどうだとか、下層部の音がうるさいだとか、こういう制度が冥界にはいるだとか、もうみんな好き勝手いって、私の仕事はいつからみんなの要望書をシュレッダーに掛けることになったのかしら?」
それに最近の子ってばみんな甘いことばっかりいって自分の権利ばかり主張して、その権利の主張をするにはこういうことがいるっていうのがわかってないし、ここ数千年でますますワガママばかり増えてきたと思うのだと文句を言いながらも出来立てのスコーンを割ってはクリームとジャムをたっぷりと塗りたくって口いっぱいに頬張る彼女はハデスの前でありながらも優雅に脚を組み、のんびりと空になったティーカップに紅茶を注がせる。
彼女の背後にある窓からは不気味なほどに眩い月が照らしているというのに、彼女の一角だけはまるで天界のオリュンポスの庭園のように華やかで明るいものであるが、ハデスは静かに顔を上げて彼女をみつめた。
「ナマエよ、お前の意見はよくわかるが、それもお前の仕事であるはずだ」
「えぇそうね、でもあまりにもみんなくだらないことばかりよ?最近じゃ目に通すの面倒でシュレッダーに掛けるのが流れ作業になっちゃった」
「お陰で重要な予算書類まで掛けていたようだがな」
「それはちょっとの手違いじゃない、笑って許してよハデス様、お陰様で私とっても疲れちゃったから、こうして休息を取らなきゃやってらんないの」
その言葉に対してハデスはそういってもうこの部屋に三時間もいるだろうとハデスは呆れてしまうが彼女は立ち上がっては冥界で採れた大粒の葡萄を使用したタルトを一口ハデスに差し出すため、彼は口を開けて咀嚼すると多少の疲れが甘みに溶け込むように感じられた。
「またそうやってそいつのこと甘やかしてるのかよ」
「アダマス...そういうわけではないが」
「ちょっともうアダマス、失礼言わないでよ、ハデスが甘やかしてるんじゃなくて、私が”甘やかしてる”の」
そこ間違えないでよね。という彼女だが執務室から香る甘い香りに釣られるようにやってきたのはハデスの弟でありギリシャ四兄弟の次兄アダマスであり、彼は相変わらず他者を威圧するような姿で現れては彼女の向かいに座るなり遠慮なしにティースタンドに飾られた物を口にするが彼女はアダマスが取りやすいように向けてやり、紅茶をもう一人分頼んでやる。
「甘やかしてる...ねぇ、兄者ももう少しこいつに厳しくしろよ、あんたの右腕なんだろ、自由すぎんだよこのアマは」
「こらッ!アダマス、そんな口お兄ちゃんに聞いたらダメでしょ、全く昔のあんたは『アニキッ!アニキッ!』って雛鳥みたいにかわいくハデスの後ろを追いかけてたのに」
「っせぇんだよクソアマ!!いつの話してやがる」
「何万年前かしら?本当あんた達はかわいかったのに今じゃみーんな癖が強くてワガママで、まぁでもちょっとはかわいいだけど」
腕を組んでは過去を思い返すように瞼を閉じて微笑ましそうに笑う彼女にアダマスが怒鳴りつければ騒がしくなる執務室内でハデスは弟と自分の右腕となる彼女の仲睦まじい様子に微笑みつつも「ナマエ、それまでにしてやれ」と静止してやった。
名前を呼ばれた彼女はここまでにしておこうと言って笑って止めてやるとソファに腰掛けていたがもう一度立ち上がり、その手には一枚の皿を持っており、その上にはケーキやスコーンにサンドイッチを一つずつ置いており、ハデスの前に置いてやった。
「王様がうるさいから仕事に戻ってあげるわ。あまり無理ばっかりしてちゃだめよハデス、アダマスもお兄ちゃんに構ってちゃんばかりするんじゃなくて、お姉さんを頼ってきなさいよ」
「あぁすまないなナマエ」
「誰が姉ちゃんだ!!とっとと失せろ」
楽しそうに笑って去っていった彼女に残されたアダマスは紅茶を飲みながら椅子に座って紅茶を飲むハデスをじろりと睨むように見つめては小さく問いかけた。
「で...兄者いつまであいつと”親友ごっこ”してんだよ」
その言葉に優雅に紅茶を飲んでいたハデスは僅かに肩を揺らした。その僅かな同様はハデスの背中をいつだって見てきた家族であり弟のアダマスだからこそわかるものであり。アダマスはもちろん、彼のもう二人の弟ポセイドンやゼウスでさえ思っていることだった。
「ごっこではない、余とあやつは事実友人だ、今は主従があるがそれ以上も以下もない」
「よくいうぜ、あんなそこらの一般悪魔、普通はこの城には入れねぇよ、ましてや冥界の王の右腕なんて轟々しい肩書きを与えるなんてなおのこと」
「それはあやつが仕事をそれなりに出来る上に、余と長い仲だからだ、お前たちもずっと世話になっていたのを忘れたわけではないだろう」
「あぁ忘れてねぇよ、俺達が寝てると思っていちゃついてたのとか」
ブッと今度は紅茶を吹き出すハデスはいつもの余裕ある兄として冥王としての態度を崩せばアダマスは尊敬する兄のあからさまな動揺する姿を面白く思えてしまうもの、ハデスは口元を拭いつつ「そんなことはない」と否定するがそれは意味など成してなかった。もう何万年何十万年何百万年と彼女とハデスが友人として過ごしていることを知っている弟たちにとって、それはあまりにも焦れったく甘ったるい関係であり、いい加減にしたらいいとも思う関係であるのだが、ハデスは白い耳先を赤く染めつつもいつものように言った。
「余とナマエは気のいい友人なだけだ」
まるで少し言い訳じみた言い方だった。
ハデスとナマエ、そして彼ら兄弟の関係はとても長いものであり、それはまだ天界も冥界もましてや地上界も全てが定まりなどない時期の頃だった。
ハデスは若くして政務に励む中、いい加減に過労で倒れるのではないのかと思っていた。何故なら彼の膝には彼の服の装飾品を口に咥えてよだれまみれにする生まれたばかりの赤子であるゼウス、そして執務室のソファで静かに本を読むポセイドン、そしてその弟の気を引こうとするアダマスが暴れまわっていたから。
「ゼウス頼むから食わないでくれ、アダマス、ポセイドンの邪魔をしてやるな、ポセイドン...いやお前はいい」
うんざりと重たそうに声を掛けるハデスの前に申し訳なさうにまた新たな書類が来るものの、それは本来ハデスの仕事ではなく別の者...具体的に言えば父クロノスの仕事のはずであった。古の神々というものは子は残すものであるためそれ以上ではなかった。育児に関しては全てを従者たちに一任しており、さらに父クロノスは過去の予言から彼ら兄弟に対して自分の足場を揺らす危険な存在であると思い距離を開けていた。
それだけであれば長兄ハデスはまだよかったものの、何より困ったことは如何せん自分の弟が懐かない上に手に負えなかったのだ。アダマスのワガママは強く高慢で常に従者を困らせ、ポセイドンはその静寂から従者が怯え、ゼウスはとにかく自由であり、全員兄ハデスのいうことだけは聞くという状況であった。
職務と子育てに挟まれたハデスは常に彼ら三人に囲まれては振り回されつつ、そしてそれでもなお仕事をこなすという状況であったものの、その中で唯一の救いが友人であるナマエであった。
「やっほーハデス、大丈夫?ってすごい顔してるじゃない、ほらゼウスそんなお兄様のお洋服なんて食べないの、アダマスも部屋の中で暴れないで、ポセイドンは今日も静かだね」
「ナマエ...来てくれたか、余はもう無理だ...」
「ありゃりゃ、相変わらずの労働環境ね、全くあんたの親はネグレクトだし、あんたは立派なヤングケアラーよ、ほら私が三人みてて上げるから四時間くらい寝ておいたら?」
「いやしかし、お前が大変になるだろう」
「いいわよ別に、休めないだろうから三人連れて遊びに行ってくるし、仕事は別の人に声かけとくから、ちゃんと休まなきゃ仕事出来ないわよ?」
ほら三人は部屋に引きこもってないで遊びにいくよ。と大きく声を上げればアダマスはキラキラとした顔でナマエをみては声を上げて喜び、それまで静かにしていたポセイドンも静かに立ち上がると彼女の横に並び、まだ赤子のゼウスも嬉しそうに笑顔をみせるため、ハデスは困りつつも言葉に甘えることにすると彼女は笑ってハデスの背中を押して彼を寝室へと押し込めたのだった。
ハデスにとって友人であるナマエはまさに救済であり、彼の友人である悪魔の女性であるナマエに対してハデスの気難しい弟たちもとても懐いており、彼女が来る度に三者三様に甘える姿にハデスも安心してしまい、ベッドに倒れ込むなり彼女なら安心だと思い目を閉じる。
それは赤子の泣き声も弟たちの喧嘩する声や遊びを求める声でもないため、ハデスは久方ぶりの静寂だと思いながら目を閉じては、時間も弟も気にすることなくゆっくりと眠ってしまった。
彼が目覚めたのはそれから六時間以上してからで「ゼウスのおしめが!」といつものように慌てて身を起こした時、静かな部屋に驚いてしまう。普段であれば弟たちが隣や腹の上に乗っているがその様子はなく、彼は静かに執務室に戻ると書類はほとんどなくなっており、近くにいた従者に声を掛けると「ナマエ様が整理されました」といい、四人は居間にいると言われハデスが部屋にいくとゼウスを抱き上げた彼女が机の上で静かに何かを書いてるアダマスとポセイドンをみており、ハデスに気付くなり二人に声を掛けてやった。
「みてくれ兄者、俺が描いたかっけぇドラゴン!!」
「...ん」
「かっこいいではないかアダマス、ポセイドンも海の生き物か、相変わらず絵画のような迫力だな」
「おはようハデス、ゼウスもさっきミルク終わって、寝てる間に三回おしめ替えといたよ、寝てる間に山の方に遊びに行って、おやつは私の買ってきたクッキーと赤ちゃんのせんべいにしておいたから」
「すまないないナマエ、寝すぎてしまったようだ」
ハデスは彼女が来る前よりも血色のいい顔をしており、彼女は柔らかく微笑んでは「今日は泊まってくから安心しなって」といってくれることを彼は何よりもありがたく感じられながら、五人でゆっくりと過ごした。
ハデスがゆっくりと自分たちと時間を取ってくれることに喜ぶ弟たちは夕飯もお風呂もしっかりと終えては、ハデスとナマエは三人の風呂上がりにしっかりと髪を乾かしたり保湿をして、そして広い全員が寝られる大きなベッドで横になりハデスの絵本を読む声とナマエが優しくお腹をトントンと叩く心地よさに眠気に誘われて静かに眠りについた。
ようやく静かになった時間にハデスとナマエはゆっくりベッドから出ては居間に戻ると大きく深呼吸するように息を漏らした。全くもって三人の体力はとんでもないと笑う彼女にハデスは心底感謝した。
元々友人であるナマエはハデスが弟の世話に手を焼いていることを知っており、申し出てくれたものの、当初は他の者同様に好かれなかったがハデスの友人であることや彼女が健気に通い詰めては面と向かって関わるがゆえに懐くようになったのだ。
それはハデスにとっては感謝してもしきれないことであり、そして彼女が友人以上であるとも感じるものであり、疲れ切った彼にナマエは紅茶を淹れてやるとき、ハデスは彼女の腰を抱き寄せた。
「今日もすまなかったな。お前にはいつも苦労させる」
「いいってば、私子供好きだし、弟もたくさんいたからあんなワガママなんてかわいいもんだよ」
「そうか、弟たちもお前に本当に懐いているし、余もお前がいてくれて本当に感謝しているんだ」
「ハデスったらそんなに感謝しなくても平気だよ、私達親友でしょ?それにあの子達のこと自分の弟みたいにかわいいし」
「...あぁそうだな、余もお前のことを」
二人分のマグカップに紅茶を注ぐ彼女の腰を強く抱いてハデスが彼女に顔を寄せると彼女は友人として真っ直ぐな笑みを向けるものの、ハデスは彼女をそれ以上の感情でみつめていた。
そして友人だと言いながらも近くなる距離に対して彼女もそれを拒絶はしなかった、ただまるで自然な流れのように受け止めようとする時、隣の寝室から大きな泣き声が聞こえるなり二人は顔色を変えたがナマエはハデスの胸を押した。
「ゼウスの声だから私が出るほうがいいと思う。あんたは休んで明日に備えててよ」
「あ..あぁそうだな、すまぬ」
「ゆっくりお茶のんで自分の時間確保してね」
じゃあ。と寝室にいってしまう彼女にハデスは手の中に残った彼女の細腰を抱いた感触を思い出しながら一人残されると顔を伏せてしまう。淹れられたばかりの紅茶は小さく揺れており、彼は名残惜しくも誤魔化すように熱い紅茶を飲んだ。
◇◆◇
そうして気づけば時間を歩み続け、ハデスが冥界の王となった際にナマエも隣に経つことは自然なことであり、二人は今なおその関係を続けているものの、それを見守る弟たちはそのじれったさと何万年経過しようと進まないことに多少うんざりとしていたが、二人の関係は変わらないままだった。
執務室のドアがノックされ、返事をする前に入室したナマエは「天界からの書類と手紙よ、ゼウスからたまにはお茶でも飲みに来いってね」といいながらハデスの前に置いてやるのを彼は受け取っては自分より先に開けられた手紙に注意することはなく、中の手紙を取り出せば彼女の言った通りの内容であるがその誘いはハデスだけではなくナマエも合わせてであることが弟たちにとっても当たり前のことであった。
「ちょっとハデス、あんたまた休みなく働いてるんじゃないの?」
「いや昼は取ったぞ」
「もう夜なんだから仕事なんて休みなさいよ、全くあんたは冥王っていう大層な役割を持ってるくせに自分のことをみないんだから。倒れてたら元も子もないのよ」
昔っからそうよね。といいながらペンを奪っては直して手元の書類もひとまとめにしてまた明日と片する彼女にハデスは「しかし重要な」というが彼女はそれがいつだって聞くセリフだとして耳を貸さずに彼の手を引いては侍女に食事の用意をさせて、ハデスを無理やり大浴槽に投げ込んでしまい、ハデスは仕方なく身を清めては戻るなり食事を彼女に食べさせられ、そして二人で並んで歯を磨いてはそのままハデスのベッドの上に彼女は横になりハデスを抱きしめて、彼の頭を胸に埋めさせては背中を撫でた。
それはまるで当たり前のような行動であり、ハデスは拒絶することも、ましてや恥じらうこともなく、それを受け止めてしまうと次第に一日の疲れが押し寄せて彼の瞼をゆっくりと下ろしていく。
「ナマエ...いつも助かる、お前は本当に優秀な、パートナーだ」
「知ってる、私はハデスの親友で右腕だからね、ほら寝ちゃいなさい、明日も仕事はたっぷりあるんだから」
「あぁお前も...だがな」
「私の仕事?...それはまぁ置いといて、ほらおやすみハデス、いい夢をみてね」
冥界の王にいう言葉なのかと思いつつもハデスは彼女が弟たちにしてきたように、そして自分も幾度かされてきたことのある寝かしつけにゆっくりと身を任せて、その背中に腕を回した、募る感情は親友であり、右腕であり、家族であり、そして特別なものであると思いながらも口にせずに胸の中で解けるように広がり、冥界の深い夜に飲まれるのだった。
2026.4.19
→