ギリシャ神界───オリュンポス神殿の回廊にて、一人歩く女がいた。女神と呼ぶには力のない者。儚げなその表情を浮かべる彼女はどこか背を丸くしては俯くように歩いていた。
神殿に務める神官やほかの神々は彼女を見ては挨拶をするものの、少し離れてしまえば好奇の目を向けたり、聞こえぬように口元を手で隠しながら何かを告げるのを彼女は一身に受けながらも顔を伏せて歩く姿はあまりにもか弱い人であった。
空は青く心地よいもので、回廊から見える中庭は今日も花々が咲き誇り美しく、彼女は小さなため息を零しながら柱に手を添えて中庭を見つめた。
その瞳はあまりにも憂いに満ちており、こぼれた溜息を聞いた花は悲しみのあまり枯れてしまうのではないのかと思うほどだった。
ちょうどその時、冷たい空気が彼女の足に纏うように触れたかと思えば、周囲の声がより一層消されるかのようだった。
「ナマエ」
聞こえてきた声と呼び名に彼女が振り向くと、気付けばすぐ側まで来ていた男に彼女は驚きはしないものの「ハデス……様」と小さく返事をしてみれば、冥界の王となるハデスは彼女に答えるように柔らかな笑みを浮かべては隣に立った。
「様……はいらぬと言ったはずだ、我らは家族ではないか」
「ええそうです、しかし今のあなたは冥府の王たる方、そんな方に私が呼び捨てるなど」
「昔はそう呼んでくれていただろう、今更気にするなど」
そういってハデスは彼女の細い腰を抱いてはその小さな頭に顔を寄せて甘く囁くように告げる様は愛おしい女に求愛する男のそれのようであり。彼女は柱に添えていた左手を自分の胸元に寄せて右手を重ねると、その薬指にはめられた指輪を撫でた。
ハデスはその癖ついたような仕草を見ながらも彼女の腰に添えた手にさらに優しく力を入れて抱き寄せてやると、花のような香りのする心地よい髪に顔を埋めれば彼女は困り果ててしまう。
ハデスは静かな彼女をその手に抱いている頃。
ふわりと潮風が二人の頬を撫でて、大理石の回廊の床を鳴らす音が聞こえるやいなや、ハデスは彼女の髪に顔を埋めて甘えるような素振りをやめにして、そちらへ振り返ると身内にだけ見せる柔らかい表情を見せて「ポセイドン」と名前を呼ぶと、腕の中にいたナマエと呼ばれていた女は肩をピクリと動かして視線を向けると、そこにはハデスによく似た整った顔をしているが、まるで感情のない人形のような顔をした男が立っていた。
「雑魚が……また兄上を誑かし、その腕に抱かれているのか」
「ポセイドン様、これはその……違うというか、その」
「下らぬ言葉は不要だ、それのそのみすぼらしい格好をやめろ、余が与えた布を纏え。貴様のような矮小な人間を傍に置く身を考えろ」
「はい……ごめんなさい」
「言葉など意味をなさぬ。精々貴様が身につけてもマシなものだ、つけるがいい」
ハデスに腰を抱かれていた彼女がその身を震わせるほどに冷たい声で残酷な言葉を放つポセイドンは、傍に控えさせていた従僕に手を差し出すと、即座に差し出されたのは純白の長方形の箱であり。
ポセイドンはその手で箱を開けると瑠璃色のシルクの布の上には眩いばかりの二連の真珠のチョーカーが飾られており。チョーカーの中央には一際大きなオーバル型の真珠があった。
彼女は手渡されたその箱を手に持つとポセイドンは彼女の正面からその細い首にチョーカーを付けてやるが、ポセイドンはその身を寄せると微かな吐息が彼女の耳に触れ、彼の絹のような髪が彼女の頬を撫でる。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「ポセイドンの美的センスは素晴らしいな、よく似合っている」
「当然だ、余はこの女に合うものしか用意しない」
"この女"───そう呼ばれる度にナマエは思わず顔を暗くさせるものの、開けたままの箱をポセイドンは締めさせるとその手を取り、ハデスが彼女の腰を抱く手を緩めないように、箱を持った彼女の細い手を強く包むように抱いては彼女を見下ろすことに彼女は顔を伏せていた頃、騒がしい足音が聞こえた。
オリュンポス神殿に主神たる彼らがやってくるというのはつまり大切な用事あってのこと。
そうなれば当然、彼らの中心となり。さらにはこの神殿の長となる者がいないわけがない。
「ナマエーーーッここにおったか!!」
回廊を走るかのように一番騒がしくやって来たのは二人の男と比べて遥かに年老いた老人であるものの、冥界の王ハデス、大海の王ポセイドンを兄に持つ最高神──ゼウスである。
ゼウスは兄二人にすっかり抱きすくめられた小さな女を見ては好々爺らしい笑みをみせて、二人といたことについてを心から安心したように笑みをみせた。
「全くワシが昼寝にと寝室へ行ったのに居らんから心配じゃったぞ、二人とおったのなら安心じゃ」
「ごめんなさいませゼウス様、少し外の空気が吸いたくなりまして」
「なんじゃい他人行儀な、お主は我が一族、家族ではないか、そんな他人行儀にいわんでくれ」
おいおいとわざとらしく泣き真似をしてみせるゼウスが彼女の肩に顔を埋めては甘えるように告げることについて、ハデスもポセイドンも静かに頷いて見せた。
すっかりと三人の主神に囲まれた彼女は彼らがいることにより、態々回廊を遠回りしていくものたちを見ては、キョロキョロ周囲を見渡すが時計はなかった。
「それはそうと御三方、そろそろ会議のお時間では?」
「問題ない、お前に会いたくて早く来ているからは」
「貴様はそんなくだらない事を考えなくていい」
「ワシがおるんじゃから、会議の時間なんぞ調整できるわい」
三者三様の返答に彼女は困り果てていたものの、四人がいた道を通ろうとしては直ぐに誰がいるのかを見たオリュンポス神殿へ来ている神々は困ったように別の道へと向かうさなか呟いたのが聞こえた。
「ナマエ様と息子様方か……こりゃあ仕方ないな……」
決して嫌味たらしいわけではなく。
まるで当たり前のような言葉で呟かれてしまうとナマエはますます気まずく、さらには恥ずかしく感じてしまい顔に熱を籠らせると、彼らが離れる気はないということを理解して「ここではゆっくりできないでしょうから」と申し訳なさそうに告げると、三人はそれもそうかと言ってオリュンポス神殿に与えられたゼウス専用の部屋へと辿り着くなり。
ソファに腰掛けたナマエの膝を枕替わりにするゼウス、彼女の左隣でつけたばかりのチョーカーを撫でるポセイドン、そしてソファの背もたれに腰掛けては彼女の紙を撫でるハデスに取り囲まれてしまう。
「皆様……もう少し節度をお持ちくださりませんと。もう主神ですので人前で義母(はは)に甘えるのは威厳というものがですね」
「だからこうして部屋に来たのではないのか?」
「貴様が望むからそうしてる」
「親を大切に思う子の気持ちを笑う者などおるものか」
ハデス、ポセイドン、ゼウス、この三人は彼女の言葉に一切の反省を見せずに告げるものの、彼女はどうしたものかと思うとき、膝を枕にしていたゼウスのしわくちゃでありながらも明らかに戦うことに慣れた闘士の手が痛みも知らぬ果実のような彼女の頬を撫でる。
「そもそも部屋を出たお前さんがよくないのじゃ」
「そうだ、いくらここが我らの地であるとしても危険がないとは言えん」
「何せお前は"クロノスの妻"なのだから」
クロノスの妻───そうだ、ナマエは正真正銘人間の身でありながら彼らの父、クロノスの妻であった。
そして彼らはナマエにとって、義理の息子たちである。
それはまだゼウスが父クロノスを倒す前、ガイアと夫婦でありながら、愛人を持っていたクロノスはあるとき見つけた人間であるナマエに惚れ込んでしまい、人間である彼女に半神となる盃を飲ませては第二の妻として迎えたのだという。
まだクロノスが健在であり。
彼らが主神となる前のずっと若い頃、ティターノマキアも起こる前に彼らの前に連れてこられては、彼ら兄弟の前で突如としてクロノスは「これからお前たちの第二の母親だ」と言ってきたことは天界を揺るがすほどの衝撃でもあった。
父クロノスがゼウスの手で葬り去られ、ティターノマキアという大戦が起きた際にゼウスの手で保護された彼女は人の身であることも重なって、力無き人間の義母として彼らに大切にされていた。
人間でありつつも彼らの第二の母であり、義母として接そうとするナマエはいつまで経ってもなれることはなく。それなら何百年何千年と天界で主にゼウスの保護を受けながら暮らしているものの、未だに彼らにどう接していいのか。またどう接することが正解なのかわからずに過ごしていた。
昔に比べても天界は特に静かになり、穏やかで平和な日々が続いている中でも、彼らの圧倒的な圧力はいつからか彼女には理解出来ぬ恐怖心を抱かせており。昔であればもう少し……と思いつつ、義母らしく膝の上に頭を乗せるゼウスの柔らかい髪を撫でると、彼は年老いた姿であろうと変わらぬような表情で笑うものの彼女に警告した。
「部屋を出るならワシがおらずともヘルメスを呼ぶがよい、あやつには一番の命として伝えてある」
「そうだぞナマエ、一人で出歩いて何かあっては危険だからな」
「どれだけ平和だと思ったとしてもお前は"クロノス"の妻であり、我々の"女"だ」
クロノスも敵が多かったため、万が一があっては危険だと彼らはいいながらその身を寄せて彼女に甘言を囁くように告げた。
ハデスは彼女の肩を撫で、ポセイドンはその耳に唇を寄せて、起き上がったゼウスは彼女が膝に置いた手をぎゅっと握った。
三人の瞳はまるで一匹の子うさぎを狙う狼たちのようであり、彼等はそれぞれ協力しているようでありつつも、互いを牽制しているようでありつつも、彼女はぐっと膝の上に置いていた手を握ると顔を俯かせたあと、力を込めて前を向いた。
「はいもちろん、あなた方のご迷惑にはなりませんわ、私はあなた方の義母─はは─ですもの」
たとえ義理とはいえ、今や主神となった息子達には迷惑はかけられない。と声高に宣言する彼女に彼らはさらに彼女に触れる手を深めたり、身を寄せるものの彼女はキョロキョロと見渡すと時計の針はもう会議近くであったため、慌ててソファから立ち上がるなりハデスの顎に彼女の頭がクリーンヒットし、手を取っていたポセイドンは振りほどかれて、身を寄せて甘えていたゼウスは弾かれるようにソファから落ちた。
「さぁもうお時間ですよ、ほらほら早くお行きなさい、皆様集まっておいでなのでしょう?」
今日は十二神だけの会議じゃないんですから頑張ってきなさいな。と送り出そうとする彼女に三人はそれぞれ「ナマエ、余はまだ」「ナマエ、貴様…」「ナマエ、もうちょっと」と告げるが彼女は義理の息子がかわいくても仕事はこなさなくてはならないとして悲しい気持ちがありつつも部屋から追い出した。
会議が少しでもできるようにと終えたあとみんなでお茶でも飲みましょうと約束して追い出したあと、はぁ……と大きなため息を着くと、いつの間にか廊下で待機していたゼウスの息子であり。執事のヘルメスがにこやかに佇んでいた。
「ナマエ様、桃水でも?」
「ええ、ヘルメスお願いします」
そういって二人きりになったらゼウスの部屋にて、彼女がソファにまた腰掛けるとヘルメスが桃水を差し出したため、彼女は一口飲んだあと首に飾られたチョーカーを撫でてはヘルメスに向けて微笑んだ。
「ねぇヘルメスこれをみて、ポセイドンから頂いたのよ。なんて素敵なんでしょうか、先日はとても美しいドレスをくださったの」
「その前はアクアマリンの指輪だとか」
「それにハデスも回廊で私を見かけるなり、まっさきに気にかけてくださりますし」
「はい、強く抱きしめておられましたね」
「ゼウスも主神であり、あなた方の父でありながらも相変わらず甘えてくださって、本当に三人ともとても愛らしい息子たちです」
私にはとっても勿体ない方々です。と高揚したように告げる彼女にヘルメスは内心彼女は少しおかしいのかもしれないと思った。
ナマエが周囲の神々や、このオリュンポスの神々に携わる従僕や神職の者たちから一線を引かれたり恐れられているのは、クロノスの妻だからではない。
かつてはそのように思われた時期もあるが、本人に脅威が全くないのだから当然のことである。
それ以上にクロノス亡きいま、恐れられている理由はあの主神三神はこの人間であり義母であるはずの彼女を──女。としてみているからである。
本人は彼らを意識しないゆえなのか気付いていないだけで、あの男たちの義母であるナマエを見る眼差しは狩る者の目であり。義母を挟んで兄弟であるはずの互いを見る時のものは、まさに敵である。
しかしながら当の本人はのんびりとソファに腰掛けてはヘルメスに隣に来るように告げては彼を孫のように愛らしいと膝に頭を置かせてやり可愛がっていた。
「本当にゼウスの息子である、あなたもかわいいわヘルメス」
「ありがとうございます、もしよろしければこのまま寝かし付けまでしていただけますか?」
「ええ喜んで、かわいいかわいい義理息子の子、かわいい私の義理孫ですもの、なぁんだってしてあげますよ」
「ではお昼寝の祝福を」
はいはい、全く皆様甘えん坊さんなんですから。と嬉しそうに破顔してヘルメスの頬にキスをして頭を撫でるナマエを相手にヘルメスは父ゼウスはもちろん、その兄たちである主神三人に心の内で思っていた。
彼女は決して身内をそのように見ないのなら、徹底的に甘える方が得である───ということを。
しかしながら策士である故にそう思うヘルメスは会議が終わるまでのその時間をたっぷりと味わい尽くしては、慌てて戻ってくる彼女の息子達に向けて愛想いい笑顔を向けるのであった。
そして今日もギリシャ神界の義母として君臨する人間であり、クロノスの妻であるナマエはかわいい息子たちの頑張について、心より誇らしく思うのであった。
2026.06.21
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