ギリシャ神界の三兄弟──正式にいえば四兄弟を知らぬものはいない。
かの最高神クロノスの息子達であり。
長男ハデスは冥界を──
三男ポセイドンは大海を──
四男ゼウスが天界を──
そして今は亡きアダマスと呼ばれし次男は恐怖を──支配したと言われている。
征服神であり、破壊と暴虐で出来た危険な神はゼウスへの謀反を決意した結果、兄ポセイドンに裁かれ塵芥のように消されたと表向きの記録ではなっていた。
しかしながら兄弟の絆が強い彼らは表向きだけであり、事実は瀕死の重傷を負ったアダマスを兄ハデスが冥界へ保護して以後、名前を変えて生活を続けていたのだった。
「おらん!おらん!おらん!!」
オリュンポス神殿にて騒ぎ声を響かせるのは最高神ゼウス。
彼は今日も今日とて溜まりに溜まった仕事を片付けつつ、昼頃には愛おしい自身の義母・ナマエの膝に頭を乗せて「頑張りましたねゼウス」と撫でてもらいながら取りきり甘やかされようという、なんとも妙な考えを浮かべて最愛の義母であるナマエの私室へと向かい「ナマエやい!ワシじゃよ〜!」とそれはもうハートや音符が飛び交うような声色で飛び込むと、そこにはベッドメイクをするメイドだけがいた。
クロノスの二番目の妻であり、ゼウスたち主神の義理の母となるがいないことに大慌てで探し始めていた彼だったが、自身の息子であり。落ち着いた冷静な声を持つ伝令使のヘルメスから声をかけられて天界を駆け抜けようとした足を止めては一枚の紙を差し出された。
少し丸いがかわいい読みやすい字は見覚えがあるものである。
『ゼウスへ 最近アダマスに会っていなくて寂しいので会ってきます お土産を買ってくるので是非楽しみにしててください 』
うふふ♡とつきそうなほど上機嫌に見える文字にゼウスは絶句した。
あれほど自分達から離れるなと釘を打っては日頃から二つ返事をしておきながら、どうやら彼女は愛おしい息子に会いに行くと言って手紙一つで出ていったのだ。
「あっ……あんな力もない人間が冥界へ一人で往くなど、それこそかわいいバニーちゃんが「私を食べて♡」といわんばかりに狼の群れに行くようなものではないか!!」
「ゼウス様、バニーちゃんというのは」
「ナマエに決まっておろう!!」
これはいかん!と声をあげるゼウスにヘルメスは若干あなたの欲望が入ってませんか?と聞きたくなりつつも冷静に冥界を統べる王であり。ゼウスの兄たるハデスに連絡をしておくと告げた。
その実、ヘルメスにとって祖母にもあたるナマエについて彼も思うところはありつつも冷静ではあった。何せ本当に危険であれば必ず彼がついて行くからだ。そうしないのは冥界という場においても、あのか弱い神からの寵愛を受ける人間が何かしらに守られていることを知るからだった。
天界から馬車を出してもらいやって来たナマエはすっかりと冥界の中で迷子となっていた。
冥界へ来るのは大抵ゼウスやヘルメスが同伴のことであるが、多忙な彼らの邪魔をしてはならないことや、もう何度か来たことがあるのだから自分でも行動できると踏んでのことだった。
しかしながら冥界の入口で下ろしてもらって歩き出して早二時間。
ナマエは一向に目的地にたどり着かないと困り果てていたが、それもそのはず。彼女が歩いている道は目指していたハデスの城とは真反対へと突き進み、冥界の危険な最深部へと足を進めるばかりだったのだ。
女───しかも人間かつ、常にゼウスなどという高位の神のそばにいるナマエからは本人も知らない魅惑の香りが放たれていた。それは昏い冥界では唯一の光のような、甘い花の蜜に釣られるようにと魔物や悪魔や魔植物などの冥界の生き物が襲おうと彼女の背後に忍び寄った。
鋭い爪でその柔らかい肉を剥ぎ、細い喉仏を喰らい、大きなか弱い瞳から涙を零させると想像するだけで歓喜に満ちると襲おうと魔物や魔植物が彼女に襲いかかったとき、彼女は「あら?」と振り向いた。
クロノスの妻であるナマエは、クロノスの息子であり主神たちの愛をその身に受けていた─とはいえ本人は義理の息子からの優しさだと思っている─語るにしては多すぎるギリシャ神界の重鎮からの愛をその身に受けし人の子。
彼女が背後から襲い来るものへ振り返ると、彼女は愛おしい息子に会うためにとめかしこんできた首元の先日ポセイドンから渡された真珠のチョーカーやイヤリングが輝き。
日頃ゼウスから何かあってはと身を案じられた故にその身に安全のために張られた魔力。
過去に冥界へ来た際にハデスから渡されたお守りの加護が働き、一斉に眩い光が襲い来るそれらに放たれると、魔植物は綺麗な花に変わり、魔物はか弱くかわいい生き物へと姿を変えた。
「まぁ愛らしい!」
何が起きたかもわかっていないナマエは地面に転がるフワフワのコウモリのような手のひらサイズの生き物を拾い上げては優しく撫でつつ「困りましたわ」と目の前の"冥界深部はこちら"と書いてある看板をみてはすっかりと困った顔をしていると、手の中のコウモリのようなマスコットはすっかりとナマエに絆されて彼女を道案内しようとするため、彼女はにこやかに歩き始めた。
「すっかり迷子でしょうか?こんなことなら以前ハデスに教えてもらった連絡の取れる薄い板を持ってこればよかった」
すっかりと迷子だと困り果てていた彼女は気付けば冥界の危険な森へと来てしまっており。魔物や植物がまた襲いかかろうと彼女に飛び込んだ時、彼女が「きゃっ」と声を上げて加護の光が放たれるよりも先に何かによってそれらは切り裂かれた。
「人間か?……何をしてるんだ、こんなところで」
そう言って現れたのは黒髪にカソックのような服を着た青年神のようであり。真っ白な肌は冥界特有なのかハデスによく似た肌だと思いつつ、深い朱色の瞳は質のいいワインのような色に思えた。
彼はどう見ても人間であろう彼女が振り向くなり放ってきた光を簡単に避けると「今のは主神の加護レベルか?」と驚いた様子でそばに来ると、ジロジロとナマエの足の先から頭のてっぺんまでをジロジロと見た。
服装から見て上流階級。
人間の貴族や王族に金持ちではなく、神々の装飾品や衣類を身にまとっている。装飾品となる物は特に強い魔力であるが海でしか取れない希少な素材ばかりであり、実にどれも価値があるものだ。
青年が女をみていると、女は反対に彼をじっくりと眺めた、特に彼の片手にあるドクロの杖をみており。彼はそれがどれほど貴重であるのかを理解しているため、その価値がわかるのかと思うと、冥界では見ることもないような無邪気な笑みと声が掛けられる。
「助けてくださりありがとうございます。私はナマエと申します」
「別に実験用の素材が欲しくてついてだ、人間のくせに何故ここにいる」
「息子に逢いに来たのですが迷子になってしまいまして」
お恥ずかしい限りですわ。と口元を隠して照れながら告げる彼女に、冥界に住むような人間はいないはずだが?と不思議に思っていると彼女が先に「ところでその杖は?」と聞いてくることに、やはり知識を持っているのかと思いつつ彼は特別隠すこともないと思い。
アポミュイオスの杖──と呼ばれる武器であり。自身の能力と合わせるために日頃から手に持っているものだと言うが、彼女は「ハデス様がお持ちのものと似ておりますわ」というため、彼から貰ったものだと言うと益々目を丸くする。
「あなたハデスとご友人なの?」
「友人って訳では無い。恩人というか知人というか……というかハデスさんを呼び捨てって、君は何者なんだ」
青年神──ベルゼブブはかつて死を望み、無謀にも挑み破れてしまったが自分を救ってくれた冥府の王・ハデスの名を聞いては嬉しそうな顔をする彼女に何者なのかと驚くと、彼女は自分の服装をしっかり見直しては絹の美しいローブの裾を伸ばしたあと、とても美しい所作で挨拶をして見せた。
「時の神・クロノスの第二の妻にして、ギリシャ神界主神の母を務めておりますナマエでございます」
「……君が」
噂には聞いていた。なにせベルゼブブはハデスの城の最深部で住み込みで働いており。時折彼から頼まれる仕事をこなしつつ、自分の研究をさせてもらっていたからだ。
そのハデスから時折「人間を冥界で暮らさせるにはどうするべきだと思う」とたまにチェスの相手をしながら相談をされる度に、彼は適当に「大地を割って拉致でもしたらどうです」と返事をしていたことを思い出すが、難しいという返事が返ってきたが、目の前の人間を相手ともなれば難しいのは当然だと理解する。
「ところでそんなハデスのご友人様のお名前は?」
キラキラとした目を向ける彼女はすっかり息子の友達を見るような目を向けていることに、ベルゼブブは気まずく思いつつも名乗りをあげると、彼女は小さく口を開けて呆けた。
何か変なことを告げたか?と思いつつも、自分が恐れられる存在だったことを思い出し、怯えているのかと納得して自嘲しようとしたが、それは温もりによってかき消される。
小さな細い人間の手がベルゼブブの手を両手で抱くように掴んだのだ。
そして眩いばかりの光のような女の瞳が冥界では見ぬ様な輝きを宿しており。
それは彼が死を求めて旅をしてきた中、愛する人とみてきた光景に近い輝きであり。美しさであった。
左胸の生きろと願うリリスの愛の呪いではなく、心臓が優しく締め付けられるとベルゼブブは何事かと驚くが、彼女の声はまるで鐘の音のように美しく響いた。
「アダマスを助けてくださった方ですね?ハデスから話を聞いております。あなたがどれほど素晴らしく優しいお方であり。誰よりも優秀な科学者様であるかと」
「アダマスについては頼まれただけで別に僕は」
「いいえ、あなたがいなければ私の愛おしい息子は助からなかったのです」
本当に……本当に……なんと申し上げてよろしいのか分かりません。と声を震わせて告げるナマエにベルゼブブは感じたことの無い高揚感と熱を感じた。胸の奥で自分の中の破壊を望むサタンが目覚めるのではないのかと思いつつも、それさえ彼女の光が包み込みそうだと思った。
「ハデスから聞いておりますわ。世話の焼ける弟みたいだと、彼がそういう程の方なのですから素晴らしい人なんだと分かります」
ぎゅっと小さな手でありながらベルゼブブの全てを抱擁するようだった。
そしてナマエがベルゼブブの手を優しく自分の胸に抱き寄せては彼の目を見て微笑んだ。
「あなたの境遇も理解しております。ですが孤独ではありません。ハデスがあなたを弟だと思うのでしたら、私にとってあなたは息子のようなものなのですから。母と思ってくださって構いません」
「は……は……」
そんな存在は分からないとベルゼブブは思いつつもナマエも自分がなんと傲慢で高慢な言い方をしてしまったのかと思うと慌てて「いけない私ったらつい……」と恥ずかしそうにしてしまうが、甘えられてしまったり孤独な存在をみてしまうと、自分の中の内なる母性が働いてしまうのだと感じては強く反省をしてベルゼブブから手を離そうとするが、彼は杖を仕舞うと同時に彼女を抱きしめた。
「ええ、僕はあなたに甘えさせてもらいたいです」
それは母ではない。
もっと別の何かとして。
ベルゼブブがそんな風に思いつつも、孤独を抱えて抱き寄せてくれた優しい青年に彼女はハデスが気にいる理由を理解しつつ、折角だからこのままベルゼブブの用事を済ませて二人でハデスの城に帰ろうといった。
話したいことは沢山あるものの、ちょうど彼女はアダマスに会う為にと用意してきていたアップルパイがあるから、少しお茶でもしてから行こうと話をする時、彼女の光が周囲を浄化し、一体は天界の庭のようになっていたがベルゼブブはまぁいいだろうと気にしなかった。
──一方その頃、ハデスの城はタルタロスで囚人が逃げたか、またはテュポーンの再来かと思えるような騒ぎとなっていた。
なにせ天界からの連絡により、ハデスの最愛の女性であり。義理の母・ナマエが冥界に行くと言い出して早数時間が経過していたが彼女は城に現れず、また姿を見た者もいないというからだ。
ハデスは全部隊を総動員してでも探さねばならぬと焦りを抱いていた。何せ彼女はか弱い人であり、可憐な人間である。冥界に一人で来たとなれば暴漢に襲われ今頃あられも無いことに……と考えるだけでハデスの不安は増すばかりであった。
彼女に何かあれば冥界の魂全てを浄化しようと考えてはハデスは仕事にも手がつけられずに執務室で落ち着きなく歩き回っていた頃、執務室のドアが開き、ようやく朗報かと思うと、そこには想像しない姿があった。
「こんにちはハデス様。突然のご来訪誠に申し訳ございません、アダマス様にお会いしとうございまして参りましたのですが……どうやらお忙しいのでしょうか?」
「ナマエ……そんなに畏まらなくてもよい。忙しいことはもうないが、いやそんな事より、そのベルゼブブと一緒だったのか?ううん、違うか、ベルゼブブ……どういうことだ、何故我が義母─はは─の腰を抱いている」
「どうもハデスさん戻りました。お義母─ナマエ─さんに会って少し話をしてたんですが、僕らはどうやらウマが合うみたいで」
ハデスの前に現れたのはそれまで必死に探していたナマエと普段は城に閉じこもりがちなベルゼブブだった。
ナマエがベルゼブブに保護されたのはよかったとは思いつつも、問題はベルゼブブである。彼はナマエのことを「お義母─ナマエ─さん」と呼ぶのはもちろん、ハデスが日頃するように彼女の細腰に手を添えてはピッタリと抱きしめて、さらには彼女の髪に顔を埋めるように身を寄せているのである。
動揺するハデスを他所に彼女は迷子になった際に助けられ、そこからベルゼブブだと知ってから話が盛り上がり、二人でお茶をして帰ってきたと嬉しそうに告げるが、彼女はすっかりとベルゼブブを普段の彼の義理の息子たちを見るような穏やかかつ優しい眼差しをしていた。
「そうなんです。以前ハデス様が彼を弟のようだと仰ってたでしょう?境遇を聞いていると母としても思うところが強くあり。彼に母のように思ってくれて良いとお伝えしたんです、ねぇベルゼブブ?」
「うん、そうだねナマエ」
「まぁお義母さんでいいのに」
「ナマエはナマエだよ」
きゃっきゃっうふふ。と笑い合う姿にハデスは驚愕した。
なにせベルゼブブは不器用だが孤独を好む男だった。
しかしいま目の前では自分の最愛の女の腰を抱いては義理の息子のようだといわれながらもその瞳の奥に宿すものは完璧に彼らギリシャ兄弟がナマエに向けるものと同じなのである。
つまり───ナマエを"女"としてみているということなのだが、当の本人はかわいい息子が増えたようだとお花畑よろしくとなっていた。
「それはよかった。まぁしかしベルゼブブ、お前も研究が忙しいだろう?ここは余が引き受けよう。なにせ"余"のナマエだからな」
「大丈夫ですよハデスさん、ナマエは"僕"の研究室を見たいと言ってましたし、なんだか軍が動きそうなくらいでしたし忙しいんでしょう?」
ハデスはそばに寄るとナマエの肩に手を添えて抱き寄せようとするがベルゼブブはそれを拒否するようにナマエを抱きしめるため、二人は彼女の頭上でバチバチと喧嘩を始める時、冥界が震えて昏い空がゼウスの雷鳴のような音を立てていた。
二人の義理息子が仲良い姿をみてナマエは「なんて素敵なことでしょうか」とうっとりと声を漏らすが彼らはそれどころでわはないと思う時、ドアが開いては面倒くさそうな、心底苛立ったような声が響いた。
「なんだよあのアマがいねぇからってオレを呼び出しやがって……っていんじゃねぇか」
「アダマス!!あぁ久しぶりですね!!今日もとっても素敵ですわ!!」
ご飯食べてる?その身体にはもう慣れた?ちゃんと寝れてる?最近元気にしてた?と、先程までハデスとベルゼブブという二大王に挟まれていた筈のか弱い彼女は抜け出すなり現れた機械の身体を持つ自分の息子。
今回の会いに来た目的となるアダマスがくるなり飛び出してはベタベタと触ってハグをして、無邪気な少女のような顔をするため、アダマスは不器用な姿で顔を真っ赤にしつつも「……っせぇよ、元気だよ」と返事をした。
「それじゃあ私、アダマスとお話してきますから仲良くしてくださいね」
そう言い残してアダマスを連れて早速去っていったナマエに残された二人の男たちは互いを見つめた。
そして一息ついてはなんとか彼女が怪我ひとつなかったことに安心していたとき、ベルゼブブはハデスを向いて真っ直ぐとした好青年の瞳で告げた。
「お義理兄さん、お義母さんをください」
「残念だなベルゼブブ、却下だ」
なにせ余の女─はは─だからな!!と声を上げたハデスにベルゼブブは冷めた瞳で「義理息子から抜けてないのに」と呟いたため、二人は静かに見つめ合うと、双方槍と杖を構えることにしたものの義母による注意によってその場は終えることとなるが、ハデスは余計な存在が増えたと嫌になるほど痛感するのだった。
2026.6.22
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