気が狂う──とアダマスは目の前の相手に対して感じていた。
少し前にハデスから突然の連絡には何事かと思ったものの、切羽詰まった長兄が「ナマエが冥界に来たらしいが行方不明になった」といわれた際にはアダマス自身はハデスほど取り乱してはおらず、また何処かで寄り道でもしているのだろうと思った。
過去に何度か共に出かけたことがある─というのは彼女が一人だと危険だからアダマスが無理やり付き合った─が、その頃から本人はマイペースで自分が行きたいという場所へフラフラと足を進めてしまう癖がある。
その上、重度の方向音痴もあり。一人では住んでるはずのオリュンポス神殿でさえ迷う時があるレベルなのだ。

目の前の彼女を仕方なく中庭に連れ出してやり、ガゼポにまで来る頃にはいつの間にか大名行列よろしく並んだハデスの城の従僕達が並んでいる。
彼らは客人を招くということ以上に、このハデスやアダマスの義理の母たるナマエに異常に懐いているからだ。下手をすれば冥界の兵はこの女の一声で反旗を翻されてもおかしくは無いのではないだろうかと思うほどだが、それもこれも彼女が異常な程に他者から慕われる──否、それ以上のものを持つゆえなのだろう。

「今日もこの庭園はとても綺麗ですね、本当に我が息子たちの花への愛は素晴らしいことこの上ない」
「景観だかなんだから知らねぇが意味ねぇのにな」
「でも折角親子水入らずで過ごす時間なのですから、少しでも綺麗な場所がよろしくなくて?」

ねぇ?とアダマスの腕に自分の腕を絡めて春のような温もりを持って微笑む彼女にアダマスは心底ウンザリした。正確にいえばウンザリではない……どうしていいのか困惑だろう。

この六角形の屋根をしたガゼポのある冥王の城である庭園は主人や客の為に用意されたものではない。彼の隣に座る人間の為だけに用意された究極の美であり。地上や天界にさえも咲かない特殊な花々を冥界のあらゆる場所から集め、一流の庭師によって存在するものであり。その花々が永遠の輝きを放つのは冥王ハデスの魔力である。

冥界らしい毒々しさがありつつも、その危険性ゆえに惹かれてしまう美しさは天界には存在しない。ガゼポの中には二人がけのソファが一つとローテーブルがひとつ。オリュンポス神殿の大理石で出来たものや、大海の王ポセイドンの城の白い珊瑚で出来たものではなく。白いテーブルは冥界でも屈指の魔物の骨を素材に作られた頑丈なものであり。ソファは冥界でしか取れない最高級の獣の皮で出来ている。
どれもがあの冥王が一流の職人に言って作らせたものであり。必要なものは彼自らが取ってきたものだが、それを知った彼女は何を思うのやらと思いつつアダマスは自分の腕にべったりと引っ付く彼女に「そろそろ離せ」と素っ気ない返事をした。

「それにしても元気そうでなりよりだわ、あなたは滅多に天界に来てくれないから私とっても心配でした」
「あんなとこに居られるかよ、つまらねぇしここと比べて明るくて目が痛むんだよ、ゼウスの野郎もうるせぇしな」
「私のお家でしたら静かですよ?あぁでもゼウス様が毎日来ますから、ちょっとだけあなたからするとうるさいかしら?」

お家──といわれるとオリュンポス神殿の裏にある広い後宮のような広いもう一つの神殿を思い出してしまう。表向きはオリュンポス神殿の一部とされているが、あれは彼女の夫、クロノス亡き後にゼウスが特別に作り上げた場所であり。

全員が平等に彼女に会えるために用意された場所。

だということを知らないのだろう。
ゼウスからは「ナマエのために用意したんじゃぞ」と夫を失い悲しむ義母を喜ばせようと用意してくれたという解釈なのかもしれないが。彼女の部屋を取り囲むように四つの部屋があり。
それぞれが息子と母を繋ぐ隠し通路があるが、本人はそれを知る由もないし、知らない方がいい。とアダマスは思いつつ、目の前に早速テーブルクロスを敷かれて、その上に天界屈指の職人が作り上げたカトラリーと食器が並べられると、目の前に長方形のプレートが置かれた。

その上には軽食もケーキも果実も焼き菓子も、ありとあらゆるものが並んでおり。執事の一人が丁寧にナマエに紅茶を注ぐと「まぁとってもいい香り、美味しそうです」とにこやかに執事に告げるナマエに相手は「ありがとうございますナマエ様」といいながら、アダマスのカップから紅茶をはみ出すほどに注いでは、またすぐに他の従僕のところへ戻る相手は天の声を聞いたのかと聞きたいほど浮かれているのが目に見えた。

適当なナプキンで静かに拭いたアダマスは隣の彼女が立派なティーパーティのセットを見て歓喜の声を小さく漏らしつつ、本来持ってくる予定の好物のアップルパイは先程ベルゼブブに譲ってしまったと申し訳なさそうに話をした。

「別に気にしてねぇよ、どうせまた持ってくるんだろ」
「ええ、だってあなた好きでしょう?エデンの園のリンゴのアップルパイ」

大好物──といわれるとアダマスは否定できた。
別に好物ではなかったが、初めて彼女がやってきた頃、アダマスに出してきたアップルパイが美味しかったから、ただ素直にそういってやったのを機によく作るようになってしまい。彼女はすっかりとアダマスの好物だと認識するようになった。

エデンの園のリンゴについても本来は簡単に手を出してはならないもので、かつて人間の祖と呼ばれしアダムとイヴが手にした罪なる果実とも呼ばれており。天界においても厳重管理されているものだが、彼女に甘いゼウスは簡単に二つ返事でアップルパイの素材に使わせているのが見て伺える。

見慣れた黄金色のアップルパイがないことは少し物足りないものの、彼女が「これとか好きそうね」と嬉しそうにアダマスの皿に乗せるのを見ては普段の他のものに接するように声を荒らげたり。煽って相手の怒りを刺激したり。または彼女のような気のいい人間であればきつい言葉を浴びせる。ような真似は一切しなかった。
彼女を前にしたアダマスは借りてきた猫のようでもあった。

「ハデス様と上手くやれてる?冥界での暮らしは苦しくない?困っていたり嫌なことはない?」
「別に何一つ困っちゃいねぇよ、兄者と関係が拗れるなんてこともな」

そもそもアダマスがこの冥界で過ごしているのはハデスのおかげだ。
ゼウスに反旗を翻そうとしたことについてポセイドンの怒りを買い、九死に一生を得てしまい。それ以後は冥界にて名前も姿も変えて、冥界に住む神の一人として生きているのだ。
ハデスは長兄として立派な男であり。アダマスも心から彼を尊敬していると胸を張って言えることだが、天界から去ってしまった上に滅多にこないアダマスについて彼女は心配で仕方ないのだろう。

近頃は天界と冥界の通信環境もベルゼブブのお陰でよくなり。
さらに天界においても以前の様に使いを出すよりも通信機のみで連絡が取れるようにはなっているが、未だ古くさい彼女は手紙を定期的に送ってくるため、アダマスは返事が面倒で気まぐれにしか返さなかったのだ。

「そういえば今日はあなたを救ってくれたベルゼブブにお会いしたんですよ。彼とってもかわいくて初めて会った頃のポセイドン様のように寡黙ですが優しくて」

その言葉にアダマスは彼女が皿に置いたベリーを眺めながら肩を僅かに揺らした。

「あの根暗野郎と何を話しやがったんだ、随分と仲良しそうにしてたじゃねぇか」
「迷子になって助けてもらったんです。あなたを助けてくれたお礼と彼の研究についていろいろ伺っていたのですが随分面白いことをされてるようで」

自分が死ぬための研究をしているはずの男を面白い。の一言で片付ける女だから厄介なのだと心底感じた。
先程ハデスの執務室で呼ばれたから行ってみたが、その際の光景はアダマスからすると地獄にも近かった。

なにせ冥府の王ハデスとあの不吉な蝿の王が彼女を挟んで今にも拳をぶつけ合わんと言わんばかりの空気を放っていたからだ。
あの光景を見た時、アダマスは「またか」と思った。

この人間でありながらも彼らギリシャ四兄弟と呼ばれる男達の義母である彼女が他人に異常なまでに好かれる。ということはある種の恒例行事に近いものである。

「(好かれる……なんてもんじゃねぇけどな)」

あれは蜜を求める虫のように、水を求める遭難者のように、光を求める闇のよう。彼女と初めで出会った際からアダマスはこの女の魔性以上の"呪い"のようなものを兄妹共々感じていた。

──今日からお前たちの第二の母となる女だ。

父クロノスから突如そういわれて見せつけられたのは、神からするとあまりにもか弱い人間の娘であった。

神より劣った存在である人間が自分たちの母になることについては賛否両論であり。
ハデスもゼウスも受け入れた。特にゼウスは一目で彼女に惚れ込んでは何度もクロノスのいぬ間に寝所に潜り込もうとした事もあったほど。
しかし孤高の王であり、完璧なる神となるポセイドンはその女を見てはすぐに背を向けた。信じられないと思ったのだろうが、今の行動を見るからに判断はつけ難い。

しかし、アダマスは受け入れることはもちろん、黙って小言のみで終わらせられる神でもなかった。

「初めまして皆様、クロノス様の奥方として迎えられましたナマエでございます。どうぞよしなに」

鈴のような声をした女はクロノスが手にしても不思議では無い美貌と声をしていると分かってしまうのは、彼らも多少なりともあの男の息子だったからだ。
可憐な花のような女のその挨拶を聞いたアダマスは「ふざけるな!人間ごときをオレたちの身内に迎えるだと?冗談じゃねぇ」と声を上げた。
愛人を作る程度ならば見過ごせるものを、第二夫人として迎える。それもただの人間を。とアダマスが声を荒らげ際、彼女は当然だと暗い顔をしたもののクロノスはその反応を理解していたが、彼女は既に人をやめて半神半人である上に大地母神ガイアの世話になっていた者であるため、十分な存在だといい、彼らの言葉を無視して置くようになったのだ。

「オレはあんな女認めねぇ」

そう言っていたがハデスもゼウスも受け入れたのはもちろん、ポセイドンさえ気付けば不器用ながらも彼女を認めたことに、ますますアダマスは腹を立てた。

「アダマス様ご機嫌よう。よければお茶でもいかがですか?」

オリュンポス神殿の回廊を歩いていた頃、ちょうど顔を合わせた彼女が珍しく一人であった際に声を掛けられたアダマスは、それまで彼女が常に従僕を含めて誰か─特にクロノス─と共にいることが多いため抑えていた苛立ちが遂に向かったのである。

「オヤジに気に入られたからって母親ヅラか?ふざけんじゃねぇぞクソ女が、テメェがどうやってあの野郎や兄弟に取り入ったかは知らねぇが、オレはてめぇを母親とは認めねぇ、オヤジが杯を飲ませたからって所詮は人間、下等な存在でしかねぇんだよ」
「……アダマス、さま」
「ゼウスが寝所を出入りしてるってな。聖女の顔してとんだ女だ、オレに気に入られたいか?いつもオレを物言いたげに見てやがったからな、いいぜ?あんたが他にしたことをオレにすりゃあ、気にいるかもしれねぇからな」

無理やりに壁に押さえ付けて低い声で告げた。
言葉の冷たさは刃のようであり、アダマスは常に溜まっていた鬱憤を晴らすような物言いをしながら、腕の中で閉じ込めることの出来る華奢で小さな人間の女の薄いキトンの隙間から手を入れて、その柔らかい女の足を撫でた。

そのキトンはクロノス自らが贈ったものであるが、それは天界においても特別な素材で作られた神聖なるものであり。触れるだけでもキラキラと光を纏い輝くようであり。
近い距離から放たれる甘い花のような香りも、キトンの裾から見えた肌も、自分の名を呼ぶそのか細い声も、全てが人を狂わせるようだと感じられてアダマスは己の内に宿る。醜い欲望が表に出てくるのを彼女のせいだと感じた時、彼女は泣くでも、叫ぶでも、誰かを呼ぶわけでも、ましてや細い手で叩くというわけでもなく。ただ真っ直ぐと天界の空のように澄んだ瞳で彼を見た。

「アダマス、兄弟やお父上のことを貶す言い方はよくありません。あなたが私を気に入らないことと、兄弟を貶めるような言葉は決して許されません」
「……は?なにをいって」
「ゼウスが寝所に来るのは彼が話し相手が欲しいからです。私と彼の間には決して間違いはありません。取り入ったといいますが、私があなた方という神々に取り入ろうなど恐れ多い。私は人であり、あなた方と並ぶなど烏滸がましいのです」

父クロノスとあなた方の慈悲によるだけ。と熱心に告げる彼女にアダマスはその姿ますます気に入らないとなり。彼女に腹の底から苛立ちをぶつけた。
突然現れて母親ヅラをするところや、父クロノスのだらしない顔、人間でありながらここにいること、何も出来ないのに助けも呼ばずに過ごしていること、いつも母親面をしていながらも悩ましげな顔をしていること、兎に角、何もかもが気に入らない。とアダマスがいうが彼女も一つずつに必死に返事をして、互いに回廊に声が響くほどだったが、彼女は顔を真っ赤にさせて、次第に涙を溜めては言い返した。

そんな見た目の割にどこからその声が出るんだと聞きたいと思う時、彼女がゴホゴホと大きく咳き込んでしまう。
次第に呼吸が荒くなり、雑音が混じったように感じ、アダマスはこんな弱い人間がそんなに咳をして、死ぬのではないのか?と思うなり、思わず背中に手を添えては声を出して医務官を呼べというが彼女は手を挙げて平気だという。

「そんな姿で平気なわけねぇだろうが!」
「ごほっ、平気です……ほ、本当に恥ずかしい、ごほっ、その……声を上げすぎて、喉が、その……」

乾燥して咳が出てるだけ。と言った彼女がようやく落ち着く時。
咳をして顔を真っ赤ににさせた彼女が自然と溜まった涙を拭ったことにアダマスは目を丸くしては、なんてくだらないんだと思うのに、彼女はとても嬉しそうな顔をした。

「なんだよ……」

アダマスは背中に添えてやった手を離して問いかけると、彼女は目尻を下げて、それはもうとても嬉しそうに告げた。

「親子喧嘩が出来た気がしました。アダマス様と面と向かって話が出来て、それもこんな風に意見を貰えるなんて、私はとても嬉しいです」
「テメェはバカか?それとも間抜けか?オレはあんたに文句しか言ってねぇだろうが」
「それが嬉しいんです!だって本心でしょ?嘘偽りでそんな風にいうのでしたら構いませんが、あなたが本気で私に怒りをぶつけることを喜ばなわけがないのです」

人は本心で向き合ってようやく相手を知ることができると本で見た。という彼女になんてくだらない事を。とアダマスは思ったが、少し落ち着くと本当にその通りだと感じて呆れた。
なにせ、目の前の女に恐怖心を植え付けさせてやろうと思ったはずが、何故か彼女はいま目の前で心底嬉しそうに笑みを浮かべてはアダマスの手を握ってきたが、そのか弱い小さな手を彼は離すことが出来なかった。

実の親にさえ、そんなふうに触れられたことなど滅多にない。
自分の怒りを受け入れる者は兄弟以外にはいなかった。
けれども目の前の女は「親子喧嘩」だといって、その怒りを嬉しそうに受け止めていることに呆れる以外の方法はなかった。

「図太いんだな」
「アダマスだってそうじゃありませんか」
「……ッチ、うぜぇ義母(おんな)」
「かわいい息子……睨まないでください、お詫びに焼きたてのアップルパイをあげますから」

お腹も空いたでしょ?と聞く彼女にアダマスは無駄に怒ったせいで腹が空いたと感じては仕方なく同席することにした。
そうして互いに腹の中をさらけ出してしまったが故に、アダマスは次第にこの世話の焼ける義母を身内として認めてしまうことになったのだった。

「そういやその首のやつ、ポセイドンか?」
「ええ、ポセイドン様は会う度に何かをくれるんです」
「……ふぅん、ゼウスのやつは寝室にまだ来るのか」
「はい、ゼウス様とはお昼寝の時と寝る前にお話をしたいといって」
「兄者とは……まぁ聞くまでもねぇか」
「ハデス様はいつも私によくしてくださいますから」

ふぅん。と興味なさげに聞き流しつつも、彼女の首に飾られた真珠たちがどれだけ価値があるものかを理解するアダマスは知らぬフリをした。ポセイドンとは一番ソリが合わないものの、その中でもあからさまに執着心を出すポセイドンの痕跡はアダマスは呆れてしまうほどだった。
どの兄弟もこの女を義母ではなく、女としてみていることは理解しているものの、だからこそアダマスは自分は義母として見てやろうと思った。

何せこの女はお人好しかつどうしようもないものだから。

「(それにあいつらと違って役得なところもあるもんだ)」

アダマスは隣でスコーンを割ってはたっぷりのクリームとジャムをつけて頬張る彼女を眺めつつ考えた。
兄弟三人は、それぞれ主神としての重要な役割を持ち、さらには日々責務に追われているだろうが、アダマスはただの神でしかないため、そのような重たい仕事はない。

「アダマス、ほら口を開けてください。このザクロのケーキすごく美味しいんですよ」

アダマス──そうして呼び捨てされるのは自分だけの権利のように感じた。ほかの三人は地位を得たゆえに気さくにはもう呼べないと言って彼女は彼らを初めて会った頃のように他人行儀に呼ぶが、アダマスにだけは変わることは無い。

隣でにこやかに笑う義母に呆れつつも口を開けてやりザクロがふんだんに使用されたケーキを口に含んだアダマスは内心兄弟たちを笑いつつ、自分だけに渡されたその時間を味わうのだった。

そしてその光景を離れた執務室の窓から睨み合う神─オトコ─が二人。
ハデスとベルゼブブはアダマスとナマエの穏やかな表情を見ては一時休戦を話し合った。
一番いい時間を独占させ続けるのはよくないとして、いがみ合っていた兄弟のような友人関係の冥府の王と蝿の王は執務室から飛び出していくとき、冥界は穏やかな時間をゆるりと流していくのだった。

2026.6.22