歴史や神話は時代を重ねて話が変わる。
しかしながら変わらない出来事というものも確かに存在するだろう。
ギリシャ神界・オリュンポス神殿の離れと呼ばれる広いもう一つの神殿。
それは比較的真新しく建てられたものであり。本来ゼウス達が住まうだけならオリュンポス神殿のみでよかったが、最高神ゼウスはよくある地上の王たちのように、愛人や妾のために建てた訳ではなかった。
しかしながら一人の女のため。というのも間違いはない。
何せその女は自身の義理の母となる人間の女性であり。オリュンポス神殿で暮らしていれば騒がしく、他者の目も多く、そしてなによりも自分暦の仕様に出来ないからと権力を行使して、オリュンポス神殿と変わらぬ大きさの神殿を"離れ"と称して作り上げた。
正方形の神殿の中央には特別な広い部屋があり。
そこには今やギリシャ神界の母とも呼ばれるクロノスの妻・ナマエが住んでおり。その部屋を囲むように庭があり。川が流れ美しい花々が咲き誇っている。
部屋には五つの扉があり。正面扉と四方の各角にはそれぞれ異なる扉が存在しており。その四つの扉は使われる頻度こそ少ないものの、ギリシャ四兄弟と呼ばれる。
ハデス、アダマス、ポセイドン、ゼウス。
その四人の義理息子たちの部屋に繋がっているものである。
隠し通路のようなものになっているが扉は隠されておらず、それは義理の母たるナマエが息子達をいつでも歓迎するという意味だった。
部屋はとても広いもので、並んでいる家具類もギリシャ神界のみならず、別神界や地上界や冥界問わずに一流のものばかりが並んでいるが、まるで彼女を表すような洗練された品々ばかりである。
ナマエはドレッサーの前でアフロディテから貰ったルビーのついた黄金のブラシで髪を梳きながら鼻歌を歌っていた頃、ちょうど正面扉がノックされるため、のんびりとした声で「はーい」と返事をすると朝の挨拶をとヘルメスが現れるため、彼女は笑顔で彼を迎え入れた。
「おはようございますナマエ様」
「ヘルメスおはよう、今日もとっても素敵ですね」
「お褒め預かり光栄でございます」
そういってドレッサーの前の彼女のもとへ歩み寄ってきたヘルメスが腰を曲げるため、ナマエは彼の左上の額と右頬のタトゥーにキスをした。ゼウスの息子の一人であるヘルメスはかわいい孫の一人であり。ナマエは毎朝挨拶をして自分の世話を焼いてくれる彼を好いていた。
またヘルメスは、自分が狡猾であると分かっていながらも純粋に向けられる彼女の愛情を彼女の息子とは別の形で素直に受け取り、身内に向ける特別な感情として味わった。
機嫌の良い彼女からブラシを受け取って、ヘルメスはヘアセットを請け負うと、彼女の痛みのない美しい髪を撫でて結ってとしてやりつつドレッサーの大きな鏡越しに彼女を見つめては鼻歌を歌ってしまいそうな彼女に「大変ご機嫌ですね、何かいい事でも?」と問いかけると彼女はドレッサーの前に置いてあるカレンダーに視線を向けた。
「ええ、明日ですもの、とても楽しみです」
遊園地に行く予定のある子供のように嬉しそうな声と日付を見てはヘルメスはあぁ。と納得しつつ、それと同時にこれはしばらくオリュンポスは荒れそうだなと思いつつ、彼女の髪を丁寧に編み込み終えてみせるとお礼と言わんばかりの優しい抱擁を受けるため、不器用な父にはできない芸当だと思いつつ、また後でと挨拶をして彼女の頬にキスをして別れを告げた。
天界は既に雲行きが怪しいものだった。
ゼウスの息子、軍神アレスはオリュンポス神殿の回廊を歩きながら痛む胃を抑えたくなった。それでなくても父ゼウスには日頃から困らされることが多いわけだが、今日ばかりは父どころの話ではなかった。
「どうしてだ」
声が震えそうになりつつもどうしようもない状態で回廊を歩いていれば向かいから見慣れた燕尾服を着た黒髪の男をみかけるやいなや、飛びかからんとばかりに駆け寄った。
「ヘルメス!!どっどういうことだ……朝から軍法会議でも各界会議でも、人類存亡会議でもないのに、ハッ…ハッ…ハデス様とポセイドン様が来ているではないか!!」
どうしたんだ、なにごとだ、まさか戦争か、問題かと慌てふためく兄を見てヘルメスは神々として長い時間を生きるため、時間という概念を忘れがちになるものの、自分も勿論だがアレスもすっかり忘れていたと思い出しては落ち着いた様子で告げる。
「例の面会の日ですよ」
「めんか……あぁナマエ様の里帰りか!!待てよ、つまりはあれか……ガイア様が来られると?」
「まぁ十中八九、一瞬だとしてもそうなるでしょうね」
アレスは祈った。誰に祈るべきかは分からないが兎に角祈った。何事もなく平和的に物事が終わりますようにと心の底から祈った。軍神ではあるが争いなど起きずに平和に全てが終わりますようにと。
面会の日──
ガイア様──
その二つのワードが並ぶとき、ギリシャ神界、特にオリュンポス神殿では空気がひりついてしまうもので、下手にその時にちょっかいをかける物がいれば、痛い目どころの話ではなくなるのだ。
ハデスとポセイドンが来たとなり。既にオリュンポスは大騒動となっていたが、どうなる事やと固唾を呑みながら二人がオリュンポス十二神の会議室のドアを開くと、既にそこには神界トップを誇る神達三人が座っており、厳しい顔をしていた。
「ヘルメスか、ナマエの様子はどうじゃった」
「朝の挨拶の際には大変ご機嫌でございました。明日が待ち遠しいと」
入室した二人をみて、ゼウスが様子を聞いてはすぐにその好々爺の顔をしつつも、腕に力が入るのがわかった。ハデスもポセイドンもいつもと変わらぬ態度で席に着いているが、その様子はいつも以上に空気が重く。アレスやヘルメスでさえも肌がピリピリとヒリついてしまっていたものの、長兄ハデスは置かれていた紅茶を飲みながら静かに円卓の上に置かれている一枚の紙をみた。
「そういう時期なのだ、仕方あるまい、問題はお前だぞゼウス」
「そうだな、またあのような事があれば今の時代は厳しいものだからな」
「分かっとるわい、しかしナマエについては貴様らも同じ意見じゃないか」
兄たちに責められるようにゼウスが小言を告げられると、彼はバツの悪そうな顔をしつつ、兄たちに向けて言い返せば彼らもまた上手く返事ができなかった。
その話を聞いてるヘルメスとアレスもまた彼らの言葉の本当の意味を理解していた頃、入口の奥に控えていた兵士が「ナマエ様です」というため、全員が背を伸ばすと、会議室の重たいドアが開くと同時に件のナマエがいつも以上の眩さを放ちながら現れた、
それまでのこの閉鎖空間ではあまりにも空気が重たく痛いものだったが、彼女が現れるとなると、まるで花が咲いて春が来たのかと聞きたくなるような柔らかい空気に変わり。彼女の心地の良い声が彼らの名前を丁寧に呼んでは嬉しそうに微笑むため、それまでの険しい表情をしていた三人の息子たちも途端に目尻を緩めてしまうものだった。
ナマエはヘルメスに座らせてもらうと立ち尽くしているアレスとヘルメスを見て「お隣にいらっしゃい」と告げて両隣をポンポンと叩いて招くことに、痛い視線が突き刺さるものの、二人は出来うる限り知らないフリをした。
ここで彼女を拒否すれば悲しまれてしまい三人の反感を買う。
ここで彼女の言うことを聞けばまだ視線が痛いだけで済む。
特にハデスやポセイドンはいいものの、父ゼウスは息子には特に好き勝手に振る舞うため、まだナマエが居てくれる場所で彼女のそばにいる方が安心ではあるのだった。
「こうして皆でお話をするだなんて、とても嬉しいことですが何か問題でも?」
「特にそういう訳では無いが、明日は例の日だろう?」
「貴様にとっては何も思うことはないかもしれんが、我々にとっては重要だ」
「なにせガイアとの面会日なのじゃからな。粗相があってはいかんだろう」
ナマエは目に見えて上機嫌であった。
ガイアの名を聞くとますます目を輝かせては「ええそうですね」と返事をした。
ガイアはクロノスの母であり大地母神であり。
かつてゼウスとの意見衝突のためにギガントマキアを起こした者だった。
そしてナマエは大地母神ガイアの寵愛を受けた唯一の人間であったのだ。
ナマエからすればガイアは自分の親のような存在であるが、現在はギガントマキアの件があったために、二人は百年に一度のしか会えないという約束がされてしまっており。明日はその日なのだ。
ガイアと会うことをどうも快く思えない三人は会議と称して入念にナマエに明日のことを話してはきつくルールを確認し、ヘルメスもお付きの者として話を聞き、アレスは万が一のための軍の動きの話までされるほどだった。
こってり数時間の議論という名の兄弟たちの一方的な義母への意見を聞いたアレスもヘルメスも疲れきりつつも、ナマエは「もう心配性なんですから」と呆れてはお昼時となるため会議室に閉じこもらずに外の空気を吸おうといって、ようやく一息がつけるほどで、ナマエが中庭で昼食を取りたいという言葉に三人の息子達はそれはもう嬉しそうについていく姿を見ては、正直なところ、あれが主神でいいのかと不安にならないこともなかった。
「全くオヤジもそうだが、あのお二方もナマエ様のことになると毎度別人だ」
「仕方ありません。彼女がきっかけでギガントマキアが勃発してますし、ガイア様も未だ彼らのこと……まぁ主にゼウス様のことをよく思ってないでしょうからね」
ギリシャ神話において、大抵の事はゼウスのせいである。
そんな困った父を持つアレスは正直なところ人間─正確にいえば半神半人─の義母ナマエに執着する父親のことは、過去の女性関係を見ていれば今更だと思いつつも、義母にまで…とは思うところはあり。それもゼウスのみならずハデスやポセイドンまでとなれば声も出ないほどだったが、今はもうそれさえ慣れてしまうものだった。
息抜きにと回廊で新鮮な空気を吸いつつ、中庭を見ると相変わらずナマエの膝に頭を乗せているゼウス、彼女の両隣に寄り添いべったりとくっついているハデスとポセイドンの光景は母と子ではなく。三人の男─そのうち一人はジジイである─を侍らせる女のようでもあった。
アレスもまたナマエには当然かわいがられ、初恋を彼女に向けた時もあったがそれはあの三人を見れば当然冷めるものであり。冷静に自分の祖母に値する方であればとなっては、その心は庇護欲の方が勝る次第であった。
そう考えていた時、ふとヘルメスが聞き捨てならない言葉を告げた気がして、油を刺し忘れた機械のようにぎこちない動きで隣の彼を見て「え?ギガントマキアがなんだって?」と聞き返すと、ヘルメスは目を丸くして知らないのかと反対に聞き返したが、数秒の間を開けてから表向きの記録は違うのだったと思い出す。
「表向きはガイア様による政権交代拒否ですが、あれはゼウス様がガイア様に問題発言をしたからですよ」
「どんな?」
───ナマエを妻に貰う。とゼウスが告げたことにアレスは頭を抱えた。
ガイアがナマエを溺愛してるのはアレスもよく知っているが、クロノスを倒した身でよく言えたものだと思うもののヘルメスは「まぁクロノス様も問題児でしたので親子とは似るのですかね?」と自分の父のことながら告げるため、アレスは考えたくはないと思いつつ、そもそもその辺のことは詳しくないと思い返す。
何故、クロノスがナマエを娶ったか、
何故、ガイアとの再会がこんなにも危険か、
何故、何故、何故、とアレスは思い悩んだ。なにせ彼は軍神として指揮を執ることが多いが、定期的にナマエの件で戦の準備をさせられてしまうが、その理由については考えてこなかったのだ─なにせ、あの三人の命令は絶対であるからだ─
ふと視線を中庭へ向けると、膝枕してやっていたゼウスが彼女の髪を恋人に触れるように愛おしげに撫で。ポセイドンはまた彼女へ婚約者へのプレゼントを贈るような深い情熱を宿した瞳で渡し。ハデスは彼女の肩を抱き寄せて妻を見るような眼差しを向けていた。
それをみたアレスは心底胸焼けがしそうだと思いつつ、その日一日を過ごし、明日はどうか穏やかであれと思いつつ、夜になると明日の最終チェックをしつつ、自室で深いため息を吐いていれば控えめなノックと共にナマエが現れた。
「お疲れ様アレス、随分と疲れきった顔をしてますね」
「ナマエ様……え、えぇ、明日はガイア様が来られますので」
「ゼウス様たちは主神ですから、お祖母様となるガイア様をお迎えすることを気にしているのですわ。私のワガママだと言うのに苦労をかけますね」
未だデスクで明日のことで悩んでいたアレスをみてはナマエは申し訳なさそうにしつつも彼のデスクに夜食としてサンドイッチを置いて、アレスの頬を撫でながら優しく労わった。
包み込むような声と眼差しに温もりを感じたものの、彼女の指に飾られた彼女の指よりも大きなダイヤモンドの指輪をみて、それは?と聞くと、ポセイドンから今日貰ったのだと言うため、アレスは途端に背中が冷えてしまう。
「ハデス様からも明日に向けて冥界の香を頂きましたし、ゼウス様からも素敵なキトンを頂きましたし、本当に素敵な息子を持てて嬉しいですわ。もちろん、私を守ってくださる素敵な軍神様も……」
「ナマエ様……」
「まぁアレス、様なんてつけなくて良いのです。私はあなたを孫と思ってるんですから、おばあちゃま……なんて呼んでくださってもいいのですよ」
それはもう恋する乙女のように嬉しそうに照れていう彼女にアレスは内心(いやおばあちゃまって言える見た目じゃないんだよな)と思いつつ、撫でられた頬を熱くしつつ「まだ呼ぶ勇気が」というと、少し寂しそうな顔をされるため、アレスは胸が痛みつつも、ハデスやポセイドンに気さくに出来ないのと同じだといえば仕方ないように納得されてしまう。
「あまり無理をなさらないでください。そして明日は休暇だと思って気を楽にしてください、それではまた明日」
「はい、ナマエ様も」
念の為に部屋まで見送るかと思うが外にはヘルメスが待機しており。アレスは弟の眼差しに時折、なにか危険なものを感じつつも気にしないフリをした。
そして一人残された部屋で持ち込まれたサンドイッチを食べながら溜まっている書類にも目を通しておいた。ほとんどがゼウスのものだとナマエに相談すると少しはマシになるのだろうかと思いつつ、触れられた頬の熱を残して優しい夜食を堪能しつつ、明日の胃痛に向けて覚悟を決めた夜を過ごしたのだった。
そして翌日、無事にガイアと会ったナマエはそれはもう幸せそうな顔をし、アレスは安心したものの、その後ろから感じる激しい熱に冷や汗をかきつつも特に平和の中で終えた一日にアレスは呟いた。
「百年に一度だがあんなに緊張感のある面会はもう嫌だ、せめて千年に一度にならんものか」
その嘆きを聞くものはおらず。
ただアレスの胃痛はゆっくりと時間経過と共に消えて、そしてまた百年後に近づくに連れて増えていくのだったとさ。
2026.6.23
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