ベルゼブブはハデスの城深くに研究室を与えてもらい生活をしていた。
冥界で過ごすことを考えて、彼はハデスとの死闘の末に別れを告げたとき、ハデスから「お前さえよければこの城で研究を続けないか?」といった。

話を聞く限りベルゼブブの死への執着はとても強いが、とにかくこの男神の勤勉さはハデスにとって好感を持てた。唇の乾燥具合や目元の隈からしても不摂生であり、城は静かでありハデスはチェスの相手がいないことも近頃不満だった。

城には冥界や天界の古書も数多あり、ベルゼブブが手にできない稀覯本もある。死を望む故に医学知識にも精通していることも見受けられるため、まさにお抱えには相応しい相手だとハデスは相手のメリットを伝えてやった。いわばスポンサーになってやるというのだ。

「どうしてそんな……」
「なに、冥界は薄暗く光も届かない故に暇を持て余しているだけだ」
「孤独が恋しいと?」
「いいや、そうではない……いや、そうかもしれぬな」

玉座で肘をついたハデスは目を細めて感慨深い表情をするのを見たベルゼブブは何か最愛の人を恋しがるように見えた。
ハデスは美しい神だ、地位も名誉もあり、出自は当然のものである故に複雑なことも多いだろう。最愛の人との別れも会ったのかもしれないとベルゼブブは思いつつ、悪くない提案を飲み込み、冥界の王・ハデスに仕える科学者となったのだった。

「もうこんな時期……全く百年に一度は短すぎるだろう…しかし約束は約束だ……」

ブツブツと執務室の窓際で落ち着きなく歩き回るハデスは飼い主を待つ犬のようだった。
ベルゼブブはちょうど今月の請求書とハデスから頼まれた仕事の報告に来たが、異様な様子に何事かと思いつつ、もう一度部屋に入ってきた時のようにドアをわざとノックして「失礼しますよ」というと、二度目でようやく気付いたハデスはベルゼブブにいつも通りの顔をした。

「何かあったんですか」
「ん?いや特には何もない。身内のことでな」
「ナマエのことですか、ゼウスに寝所に押し切られて不安とでも?冥界に連れてきたらいいじゃないですか」

ハデスが極度のブラコンであることはベルゼブブもしっている。なにせ玉座には兄弟四人との絵を飾ってあるからだ。
しかし、それ以上に彼はマザコンだ、それはもう相当なマザコンであるが実母ではなく義母限定である。
ベルゼブブもあの日出会った人間の女性、ナマエの光に当てられた時にハデスがそうなる理由が分かってしまった。ナマエはベルゼブブとの別れ際に彼の黒髪を撫でては頬に手を添えて「いつでも会いに来てくださいね」と言われた時、天界への引越しを検討してはハデスに止められたのはまだ比較的新しい記憶であった。

そんなナマエのことをマザコン以上の目を向けて溺愛しているハデスに告げた。実際に彼女が冥界に来てくれればベルゼブブとしては嬉しいことこの上ない。

しかし、何かしらの理由があるのだろうと思いつつ眺めていればハデスは「そうしたいのは山々だが……今日は何日だ?」と聞くため、ベルゼブブは「二十九日です」と冷静に返すとハデスはカレンダーをキッと睨みつけては翌月の一日には大きな赤い丸がついており"ガイア"と書かれていた。

あまりの達筆差は正直、血文字なのか?と聞きたくなるものだったが、中々に強いものにベルゼブブは全く何事かと思うと執務室の電話が鳴った。ハデスは思考に耽っているため電話を取る気はないらしく、ベルゼブブは仕方なく受話器をとった。

「もしもし」
『あら?ハデスじゃないわ……また間違えてしまったのかしら?ねぇヘルメス、違う方が出られましたわ』
「その声はナマエ、間違っていないよ、ハデスさんの電話だが彼は今出られないようで……「ナマエか?どうした?何事だ?余の顔がみたくなったか?今すぐそちらへ向かおう」

こいつ……とベルゼブブは思った。
ナマエという単語を聞いた途端に光の速度でベルゼブブから受話器を奪った姿は容赦ないものであるからだ。
軽く話をしたあとハデスは顔色を変えてベルゼブブに受話器を渡すと「天界へ行ってくる」と、まるでちょっとコンビニ行ってきます。の軽い言葉で出かけるため、冥界の政務は大丈夫なのかと思いつつも受話器を受け取ったベルゼブブは「ナマエ?」と声をかけた。

『あらベルゼブブだったんですね』
「ハデスさんがそっち行くって出ていったよ、なにかトラブルでも?」
『まぁハデス様ったら、ヘルメス〜ハデス様がいらっしゃるそうですよ……すみません、トラブルでは無かったんですが近々ガイア様が来られるのでどんなお召し物がよろしいかと相談したんです』
「ガイア様……大地母神の?」

そうですよ、百年に一度だけお顔合わせを約束しているのです。と軽やかな声で告げるナマエに、そんな軽い話ではないだろうと思うが、ナマエはガイアに世話になった身であるというため、巫女でもしてたのだろうかと思いつつベルゼブブは好奇心がフツフツと沸き上がりながら長話を求めようとしたが電話先が何やら騒がしい様子となったため、ベルゼブブは電話を終えて、一人ハデスの執務室に残された。

執務室にはいくつかの家族写真があるが、そのうちの一つにはナマエとハデスの二人での写真があった。ベルゼブブは夜のチェスの相手に彼の私室に入ったことがあったが、枕側に大きなハデスとナマエの絵が飾られていたことにはベルゼブブもなんとも言えぬ気持ちになりつつ、ハデスの個人的に所有している本を思い出しては触ることを許可されているため、足を向けることにした。

広々としたハデスの私室の本棚の中にはいくつかのアルバムが並んでいるが、その近くにあるこれまでの冥界の歴史について記された本を手に取った。
そこには特大変わったものは見受けられなかったが、かつて天界で起きたクロノス失脚後のギガントマキアにおける、原初神ガイアについての記録をみては、ゼウスたちとガイアは最終的に互いに関与しないという話の末に終わったいたはずだった。

さっぱり分からないなと思う頃、廊下から聞こえてきた独特の機械音に視線を向けると、そこにはハデスの弟であり、ナマエの義理息子であるアダマスがいた。

「なにしてんだ」
「ちょうどよかった、君なら知ってるかもしれないから聞きたいことがある」
「妙な話は断るぞ、てか兄者がいねぇのはどういうことだ?ついに過労で運ばれたか?」
「ハデスさんはナマエに会うために天界に行った、原初神のガイアがどうこうって…どういうことだ」

ガイア──という名前を聞いた途端にアダマスは少し黙ったあと、それはもう心底ウンザリしたような、疲れたような顔をした。
どうやら何かを知っているらしいと察したベルゼブブは彼らのことについては表向きの記録しか知らない上、そもそもあの人間であるナマエは人間の中でも随分古参の部類であり。過去のことから歴史に関わっていてはおかしくないと思いつつ、話を強請るとアダマスはハデスの本棚に飾られてある背表紙を見ては一冊の本を手に取っては差し出した。

何度か読んだことのあるもので、ギガントマキアや今のギリシャ神界についてのことだろうと突き返そうとするが、アダマスは本の表紙を人差し指で突きながら告げた。

「ここに載ってるのはほとんど嘘だ」
「ん?」
「クロノスのこととか、ガイアが喧嘩ふっかけてきた理由とか、まぁ色々だ」
「……詳しく聞かせてくれ」

アダマスはベルゼブブの言葉にため息を零しながら話をしてやることにした。

それは今よりはるか昔。
神と人間は同じ場所で生活をしており。
地球はまだ出来たばかりといえるものだった。

大地母神ガイアと呼ばれる女神がおり。その女神は一人の人間を自分の庭に囲い込んでは、それはひとつの花を愛でるかのように大切にした。

「あぁナマエ、お前はなんと愛らしいのでしょうか」

大地の女神ガイアはその人間を巫女でも、神の使いでもなく、ただの人として自分の子供たち以上にかわいがり、そして誰の目にも触れさせないようにとしていた。
ガイアの用意した庭はいつだって太陽が輝き、雨は降らず、花々は咲き誇り、飢えを知らず、ガイアに飼われたナマエは女神を慕う様はまるで娘のようであり、二人は幸せな生活をしていたところ、ガイアの息子であり、夫であり、天の神・ウラノスが見つけてしまったのである。
可憐な花のようなナマエをみたウラノスは告げた。

「ガイアよ、その娘を私の妻にするから寄越せ」

ガイアは突然それを拒絶し、壮大な夫婦喧嘩が始まった。
無理やりにナマエを奪おうとするウラノスからガイアは戦争のごとく拒否し、互いに子供や兵を味方につけて、ついには血で血を洗う戦いになる時、二人の息子であるクロノスが偶然ナマエを見かけた。
クロノスは一目でナマエに惚れ込んでしまい、ガイアに告げた。

「母上よ、私がウラノスを討ちましょう、そしてその暁にはナマエを我が妻に」

その言葉を聞いたガイアは鼻で笑った。
いくらクロノスがティターンの長であり、農耕の神であり、優秀な息子であろうと全宇宙を統べる神々の王ウラノスに敵うわけがないからだ。
そうした高慢は神にはよくあることで、ガイアは「あぁそれを成し遂げれば」と告げた結果。

───クロノスはウラノスを倒したのである。

それもついにガイアの目を欺いてナマエに会いに行ったウラノスがナマエに無理に迫ろうとした際にクロノスは助けに入る形であったため、すっかりとナマエはクロノスを自分を助けてくれた優しい王子様のように思ったのだろう。
男も知らぬナマエはクロノスを意識せざるを得なかったが、ガイアは最愛の娘が誰かの手になることなど断固拒否し、クロノスが妻に貰うと言った際。

「政権が変わって政務もあるでしょう」
「王の仕事は大変なのです」
「落ち着いてからしっかりと時間を重ねなさい」
「その想いは一時しのぎかもしれませんからね」
「つまり、この先一万年はナマエを娶ることなど許しません」

そうまくし立て、クロノスの言葉を完全拒否し、ガイアはクロノスを忘れさせるためにナマエを自信の領域となる塔へ軟禁し、ガイアはまた幸せな時間を過ごした。
その内にクロノスはレアと結婚し、子供たちを授かり、そして子供も大きくなっていた為、このまま忘れるだろうと思っていた。ナマエはクロノスのことを思い出話としていう時もあるが、ガイアはその都度あの男は結婚したんだといって、母娘二人で幸せにいようと甘い言葉を告げた。

「ストップ」
「なんだよ」
「ナマエは人間だ、一万年なんて生きられないはずだ」

話を止めさせたベルゼブブは不審に思い告げるとアダマスはガイアは自分の土地の時を止めているため、ナマエはその土地では歳を取らず、病気や痛みも知ることなく生きられるのだと話した。

「ガイアは重症では?」
「オレもそう思う……話を続けるぞ」

ベルゼブブは若干引いたがアダマスも否定できないと思ったものの話を続けることにした。

そうして、ガイアの寵愛の中で生きていたナマエに二人は幸せな時間を過ごしていたが、一万年が経過したあと、ガイアの元へクロノスが現れた。
彼は妻も子供も愛人も、そして愛人との間に子供がいても尚、一万年前の恋を忘れてなどおらず、ガイアに約束を果たしに来たと言うが、ガイアはその言葉に知らぬフリをした。

そして、妻も子供もいるのならばナマエには相応しくないと拒絶したことにクロノスは怒りつつも素直に引き下がった。

しかし、クロノスはナマエを諦めるわけがなく、鳥として姿を変えてナマエが囲われている塔へ侵入を果たした。

美しい純白の塔をガイアは駆け上り、ドアを開くとそこには大男に覆いかぶさられ、衣服を乱されたナマエがいた。
彼女の上にはクロノスがおり。二人は繋がりあっており。ナマエはポロポロと涙を零していた。さらに二人のベッドの下には聖杯が落ちており。そこから零れる雫をひと舐めしたガイアはそれが不老不死の酒であると気付くなりクロノスに声を荒らげた。

妻であるレアも呼び。
一体全体どういうつもりかと泣きじゃくるナマエへの事を告げるが、レアは呆れきってしまい、クロノスはガイアが約束を守らなかったからだと反論した。

「ガイア様……このような身では愛する方のお嫁さんになれませんわ」
「あぁナマエ、お前は一生私のそばにいるといいのよ」
「なりませんわ。この穢れた身でおそばにいるだなんて……クロノス様の子を宿していたら、私はガイア様といることなんて」

ガイアとクロノスが激しい喧嘩をする中、ナマエは悲しみに打ちひしがれ、レアもその美しい人間の子を憐れみ、元はガイアが約束を破ったことから起きてしまったこともあるからとクロノスの第二の妻としてナマエを迎えさせることを進言する他なく。ガイアは渋々了承をした。

「そしてオレたちのところへ来たってわけだ」
「なるほど、それで何故ゼウスさんが今になったんだろう。地上界だとそもそも君たちを飲み込んだからだろ?」
「まぁ飲み込んだっていうか、オヤジがブチ切れたんだよ」

地上界に残された神話では本来ゼウスたちは生まれた時に子によって地位を揺るがされると警告を受けたクロノスが恐れからゼウス以外を飲み込んだという。
しかしアダマスは苦い顔をしては、まぁ多少悪い事をしたが彼ら兄弟は初めこそクロノスとナマエの日夜の営みに迷惑を被っていたものの、時間を過ごすうちにナマエへ、今のような想いを持ち。そしてクロノスがナマエと寝室で過ごそうとする度に邪魔をしたのだという。

「わざと部屋に入ったりとか、困ったフリして呼べばナマエのやつはオヤジを投げ捨てて来るもんだから、そりゃあアイツらは喜んでオヤジはブチ切れちまって、ついにゼウスと掴み合いになった」

そうして始まった喧嘩は結果的にゼウスの勝利となり。
クロノスを失い、レアは親子喧嘩を自業自得とし特段気にしなかったがナマエは悲しみに打ちひしがれた。なにせ結婚からものの数年のことであったからだ。
家族という新しい形を知った矢先に失い、本人は自分が原因だとは知らなかったが愛した夫を失い泣きじゃくる中でも彼らはくじ引きで自分たちが王として管理する場所を決め、ゼウスは最高神として天界を管理する身となれば、ナマエに報告し、ナマエは「まぁ素晴らしいですわ」と泣きながらゼウスを褒めた。

「そこでガイアはゼウスさんが王になることを拒絶したからギガントマキアが起きたらしいけど……」
「オレたちは大事な時期だから気をつけろつったのにあのバカは若いし調子に乗ってたから言っちまったんだよ」
「なにを?」

全宇宙のトップとして、神としての最高の地位を得たゼウスは自身が次の王になることの報告と合わせて原初神ガイアへ告げた。

「ガイアよ!俺はついにあのクロノスを倒したぞ!だからオヤジの女は俺の女!つまりナマエを嫁にもらう!!」

ベルゼブブはそのセリフを聞いて顔を覆い隠した。
言いそうだ──若い頃のゼウスなら100%言っただろう。
そして今の話を聞く限りガイアは怒るはずだ。

「──で、ギガントマキアとかいう長期戦が起きたが、結局こっちが勝ったからゼウスはガイアに縁切りを言い出したが、ナマエが今度は拒絶したんだ」
「それで百年に一度の面会を?」
「そうだ。ガイアは未だナマエを溺愛してるし、アイツらもガイアを敵視してるってことで今だバチバチなわけだな」

その話を一通り聞くとベルゼブブは疲れたと言いたげに本を戻しつつ、全く彼らの一族は本当に迷惑な存在だと呆れる。
しかしながら、ナマエという人間の娘が何故そこまで彼らを魅了するのか、ベルゼブブもあの日出会ったナマエに心惹かれたが、この兄弟たちではない。特に三神の主神ほどでは。

「もしかして、ガイアの血を引いてるから?」

ベルゼブブはハッとして呟くとアダマスは肩を竦めて呆れた顔をして「さぁな」とはいうが、ウラノス・クロノス・ゼウスと三代に渡ってのもの。そして三代の祖たる存在がガイアであると気付いては妙に納得してしまい、さらにナマエへの好奇心が増していくのだった。

一方その頃・天界にて──オリュンポス神殿の離れ、ナマエの部屋にて三人の主神はそれぞれ彼女にべったりと今日もくっついていた。

膝を占領するゼウス、肩を抱くポセイドン、背後から包み込むハデス。
その三人にナマエは嬉しそうな笑み浮かべながら目の前のヘルメスの長い説明を聞いていた。

「以上が面会ルールです。ご理解頂けておりますね?」
「もちろんです。面会は一日だけでガイア様から差し出されたものは食べない、同棲の話をされても断る、贈り物は貰わないか全て触れずに皆様にチェックしてもらう、ペンは持たない触らない……ですわね」

ヘルメスは分厚い本のような面会ルールを確認し終えては彼女の言葉ににこやかに笑顔を返した。

それを聞いたハデスが彼女の手を撫でながら「変なサインを求められたり、指を貸せと言われてもダメだぞ」といった。
そしてポセイドンが彼女に新しく渡した真珠のネックスレスを確認するように触れながら「余以外からの貢物などゴミだ」といった。
そしてゼウスが彼女の膝を撫でながら「ガイアはお前さんを縛るだけの危険な神だからな、息子であるワシらの方が愛おしいじゃろ?」といった。

その執着も愛もクロノスやガイアと同じものだと傍から見るヘルメスは思いつつも知らぬフリをした。
息子たちの愛に縛られ、未だ何も分からない彼女は父を失った悲しみを自分に向けているのだと信じ込んでいるから。

「ええ、ガイア様は母のような方ですが、私はあなた方の義母(はは)でございますから」

そういって愛した夫が残した子供達に深い愛情を注ぐ彼女は神々による見えない鎖に繋ぎ止められるのだった。

2026.6.25