軍神アレス──その神はゼウスの息子であり。地上界においては戦の神とされ、戦場を駆け巡り、恐怖や不安という化身を従え、血気盛んな恐るべきものだとされている。

そう──地上界においては。
実際の彼は確かに戦場においては勇敢で果敢で仲間想いの熱い男であるが、その実誰よりも苦労人かつまともな感性を持った常識的な男神であった。

「はぁ……」

今日も今日とて父に似たその巨躯の背中を思わず丸めてしまいながら歩くアレスは今日のヴァルハラでの会議の際の書類を手にため息をついた。
自身も神ではありつつも、どうしてあぁもこうも自由な方々ばかりなのかと疲れてしまう。自身も軍神とは呼ばれつつも、神々の殆どは喧嘩があまりにも好きすぎる。何かにつけて拳で決めようとすることや、無理難題を出しては困らせられるばかりでアレスは胃が痛まない日はない気がしていた。

早くオリュンポス神殿に帰ろう。
心地よいバラの庭園で優雅にアフターヌーンティーでも楽しみながら少し現実逃避でもしよう。とアレスは思いつつ足を進めていた時、向かいから歩いてくるひとつの影が「アレス!?」と彼を気さくに声かけた。
少しばかり俯いていたアレスはその声に顔をあげるやいなや思わず背筋が伸びてしまい、近付いてくる足音に心臓の音が高なった。

「久しぶりアレス、元気にしてた?今日会議だから会えたらいいなぁって思ってたけど、本当に会えるなんて」
「ナマエか、ひっ久しぶりだな、元気にしてたか?」
「勿論、そっちも相変わらずって感じだね、大丈夫?無理…してない?」

アレスの前に現れたのは彼の肩ほどの身長がある一人の女神だった。
名はナマエ、アレスとは古くからの友人である彼女は久方振りに見た友人に嬉しそうな笑みを浮かべたものの、相変わらずの気苦労をしているらしい友の顔を下から覗き込んだ。

「へっ…へっ…平気だ!!お前こそ仕事の方はどうなんだ」
「仕事だなんてそんな大したことないよ、フレイヤ様は相変わらず奔放な方だし、その始末書や謝罪文を書くのだってもう慣れたものだよ」

文書作成なら自信あるわよ?とおちゃめに笑ってみせる彼女にアレスはふわりと香った甘い香水の匂いに少しだけ鼻がピクリと動いてしまう。会議として参加していたらしい彼女は女神の一人としても相応の美しい身なりをしており。アレスは久しぶりに見かけた正装の彼女をマジマジと見つめてしまうと、彼女が髪を耳に掛けてはその視線に気付いて微笑んだ。

「この格好で会うの久しぶりだよね。ヴァルハラでの会議だからちゃんとしなきゃって思ってね……変?」
「いやすごく似合ってるんじゃないか?あまりにも普通の女神だったから少し驚いたんだ。あのヤンチャでじゃじゃ馬だったお前がと」
「なにそれ、鼻たれ泣き虫のアレスに言われたくないよーだ」
「なっ!オレは鼻たれでも泣き虫でもないわ!」

二人きりの回廊で大きく声を上げたアレスにクスクスと笑う彼女は昔の姿とは全く違うもので。
幼い頃の短かった髪も、男のような格好も無くなり、今は北欧神界の女神フレイヤに仕える一人として相応の美しい女神であった。
それでもアレスをからかう姿は変わることはないものの、彼女はクスクスと口元を隠して笑う姿はまさに美しい淑女のようでアレスは見惚れていれば、彼女はその視線に気付いては目を細めて笑った。

「ねぇアレス、そういえばさ、好きな人とか……恋人とか……いないの?」

ふわりと優しい春のような温もりのある風が二人の頬を撫でた。
近くに咲いていた花の香りが風に乗り、眩しく心地よい太陽が回廊に差し込んで、彼女の瞳がまるで宝石のように煌めいて、その頬が桃色に染まっているのをみてアレスは胸が僅かに締め付けられるようだった。

「オ……オレは……」

震える声でアレスが告げようとすると、彼女はアレスの隣に並び彼を見上げた。
女神フレイヤに仕える美しい彼女からの熱の篭ったその瞳にアレスが胸を高鳴らせ、今すぐ答えをと思った矢先、静かな会議終わりの午後の回廊にドンッと大きな音と、アレス自身に強い衝撃を味わった。
背中に感じる強い痛みと温もり、そして自身の左隣にいる彼女は右手に拳を作っては見覚えのある眼差しでアレスを見つめた。

「安心しなさいアレス!!あんたはいい男だからね!!いやぁ久し振りに会って恋人とか、ううん、結婚してたらどうしようって思ってたんだよね。ほら結婚祝いとか渡さなきゃだし?てか好きな子もいないの?いい加減彼女ぐらい作りなさいよ、あんたってば……」

アレスの心の内を映像化するとすれば、美しかった花畑が突如として広い荒野でタンブルウィードがコロコロと転がっているようなものに変わった状態だった。

細い腕でバシバシと筋肉質で屈強なアレスの背中を叩く彼女は彼の様子も気にせずに「いい加減彼女くらい作りなさいよね」といいつつ、自分の知り合いや友人の紹介の話しやら、近頃の神々の恋愛事情の話を一方的に繰り広げたあと、満足したのか深い息を吐いてはアレスをみつめた。

「あんたはいい男なんだから、いい加減に結婚の一つや二つして、お父さんのこと安心させてあげなさいよね」
「いや、オヤジは別に……」
「あっ、そろそろ帰らなきゃ、それじゃあアレス、たまにはお茶くらい誘ってよね!」

じゃあね。と友人のように手を振って慌ただしく去ってしまった彼女を見送ったアレスは手を振り返しつつも、深いため息が溢れ出す前に何者かに肩に触れられ、思わず声をあげるとそこには弟であるヘルメスが楽しそうな顔をして立っていた。

「ナマエ様と随分仲睦まじい様子でしたね」
「それは当然だ、オレとアイツは友達だからな」
「友達……本当に、ですか?」
「ほ……ほん、と……ッ!ちょうどいいヘルメスこの書類はお前に託す!オレは他にすることがあるからもう帰る!」

まるで彼女が逃げ帰ったようにアレスもまた自分の仕事をヘルメスに無理やり押し付けると脱兎のごとくその場を離れていってしまう。
それを見つめる男神はやれやれ。と困ったように笑いつつも見送った。

ナマエ──今や北欧神界の大女神フレイヤに仕える女神の一人であり、戦女神の一人であった。今でこそフレイヤの秘書のように職務を全うしていた彼女だったが、アレスとの付き合いはもう随分と長きに渡り。
二人が幼い頃からのものだった。

「今でこそあれだが……昔のあいつと来たらな……」

アレスは自室に戻ってきては立て掛けていた写真立てのうちの一つを手に取り眺めた。
そこには今よりもずっと幼い二人の写真であり、二人は肩を組んで笑いあっていた。背丈も体格も何もかもほとんど変わらない頃、アレスはナマエに出会った。

ゼウスの息子であるアレスはその重荷を常に背負い生きてきた。
あらゆる神々の視線を受ける彼は恥じぬように生きようと常に胸を張って背筋を伸ばしていた。

それははるか昔、ある日のヴァルハラにて。
ゼウスによって連れ出されていたアレスだったが彼は一人きりで回廊を歩いてた。周囲からの評価や意見に視線は幼い彼には多少重たいものでもあったが彼は父ゼウスと母ヘラの血を受け継ぐ息子として恵まれていた。
そうして歩いてた彼だったが、突如として中庭から勢いよく飛んできた何かが丁度アレスの頭に綺麗に当たったとき、アレスはその衝撃に驚いては何事かとぶつけられたものを手に取ると、それはただのゴムボールだった。

「あっ、ごめん」
「子供?どうしてこんなところにいるんだ」

アレスはまだ自分が幼くともゼウスの息子だからこそ、ここに居たものの、重要な会議をしているこの場所に幼子が他にいるなど予想もしておらず、驚いて声を出せば「暇ならついておいでっていわれて」と答えたことに、なんという相手なのかと思っていたが、彼女はアレスを知らなかったようでボールを返すように強請った。

アレスは素直にそれを返し、すぐにまた歩き出そうとすると背中に向けて衝撃を受けて彼は前のめりになって倒れると楽しそうな笑い声が聞こえた。それは明確に先程の相手だと理解したアレスはボールを拾っては振り返った。

「何をするんだ!!オレはゼウスの息子のアレスだぞ!!こんな無礼を働いて許されると思っているのか?」

思わず声を荒らげてみたところ、ぽかんとした相手は短い髪に動きやすそうなズボンとジャケットであり、アレスは男だと思ってしまった。
そうでなければ相手にそのような態度を取ることはなかったのだが、彼女はアレスの顔をみては小首を傾げた。

「だから?だって君ってばつまらなさそうな顔してるじゃん」

お腹痛いの?などと言ってくる彼女にアレスはなんと無礼な者なのかとやはり腹を立ててボールを投げ返してはもう一度背を向けた。しかし彼女はまたもその背中に向けてボールを投げつけたことにより、怒ったアレスは投げ返し、そして気付けば二人は大人たちが会議を終えるまでドッジボールを続けた。
疲れきった二人は中庭で寝転がる頃にはすっかりと仲良くなってしまっていたが、ちょうど彼女の名前が遠くで呼ばれるのが聞こえ、彼女は起き上がり名残惜しくもと帰ろうとしたのをアレスは思わず引き止めた。

「オレはアレス、名前は?」
「私?私はナマエ、今は特に所属はないけどこの辺で過ごしてるの。また遊ぼうね」
「あぁ今度も負けないからな!」

そういってアレスはナマエと友人になり、ヴァルハラで会う度に声を出して笑いあって時を過ごした。
そしてそんなアレスと彼女の仲を知ったゼウスは彼女を一時的にオリュンポスに招き入れてやり、アレスと二人で成長をした。
時に遊び、時に学び、時に喧嘩をして、時に戦場を駆けて、時にその背中を支え合う中、アレスは成長と共にナマエという存在をどうしても一人の女神として意識せざるを得なくなってしまっていた。

成神(人)になり、互いに各神界の重役である今は滅多に会うことも話すこともできないものの、そうして数年ぶりに顔を合わせる度にアレスはやはりナマエへの思いを重ねてしまい、定期的に彼女を思い出しては悩む一方だった。

「ハァ……オレにあんなことを聞いてきたがあいつこそ恋人の一人や二人いるのではないのか?」

なんといっても彼女の上司にあたる北欧神界の戦女神フレイヤの恋愛関係についてはアレスも度々耳にしており。父親の過去の所業以上だと感じるほどだった。
客観的に見てもナマエは魅力的な女神であり。はるか昔にオリュンポスの山々をイノシシに乗って駆け回っていたことなど忘れてしまうほど。そんな彼女なら言い寄られていてもおかしくないと思うがアレスは中々そこを聞くことはできず。
反対に久しぶりに会った彼女からは痛いところを突かれるように恋人はどうなのかと言われる始末で、恋心は多少傷ついてしまうほど。

「次に会うときには結婚なんかしてたりして」

北欧神界だけでもそれなりに魅力のある男は多いはずだし。
今どきは所属神界や種族関係なくの恋愛も当たり前の時代だし。
それにそれに、あれにそれにこれに、とアレスは一人で気付けばベッドで横たわりながら考えていたところ、ジリリリとけたたましい電話の呼出音が鳴り響いた。

時刻も気付けば夜更けとなり。
こんな時間にかけてくるとなれば面倒事かと思いながら無視をしてみたものの電話はなり止む気配はなく。アレスは仕方なく重たい腰を上げて部屋に備え付けてある電話の受話器を手に取って耳に寄せた。

『もしもーし、アレス?私だけど、ナマエだけど?』
「ナマエ!?」

昼間の会議から今まで考えていた相手からの突然の連絡に驚くとは無理はなく。何せ二人は連絡を取り合うような関係でもなかったからだ。アレス自身は忙しさはもちろんだが、できる限りナマエを意識しないようにとしていた。
そしてナマエ側も特に用事がない限りは電話をかけてこないため、互いに特別なことがない限りは連絡を取ることは以ての外である。

しかしそんな相手からの突然の連絡はどんな内容であれ僅かにアレスの心を雲に乗せるように軽くさせ、そして高揚感を与えてくれる。
彼は驚いて名前を呼んだものの、少しだけ咳払いをしつつ冷静さを装いながら「どうしたんだ?」と受話器越しに問いかけた。

もう夕飯や風呂も終えたのだろうかと時計を見ながら電話を置いている自身のデスクの上の二人で撮った別の写真を見つめる。
それは彼女が就職する前の最後の日の写真で、互いに成長した姿で肩を組み合っているものだが、アレスの瞳は完全にナマエに向いており。ナマエはそれに気付きもせずに笑顔をカメラに向けていた。

『あのさ?恋人いないんだよね?』
「またその話か……生憎とな」
『そっか』

じゃあ問題ないかな?いいよね?と独り言が聞こえるが一体何事かと思い要件を聞こうとする前に受話器越しからアレスの予想だにしない言葉が掛けられた。

『もし今度暇なら映画行かない?』
「映画?どうしてまたそんなもの」
『今日の帰りにヘルメスがいて声掛けたらチケットもらっちゃったの、行く相手いないって言ったら『アレス兄様は映画好きですよ』なんていわれて、それならちょうどいいかなぁって』

チケットが何枚もあるから困ってるし、オリュンポスの方にも映画館あるじゃない?と聞いてくる彼女の声は遠くなるが、アレスは心底ヘルメスに感謝した。
あの食えぬ危険な腹違いの弟は以前よりアレスの恋心を当然のように知っているはずだった。その上昼間の会議でのやりとりも見ていたのならば彼なりの心遣いであるのだろうと察知し、アレスは必ずヘルメスに礼をしようと思った。

「あっ、あぁもちろんだ!!オレはいつでも暇をしてるし、映画も大好きだ!」
『本当?よかった〜断られたなって思ってみんな誘ってたけどそんな必要無かったんだね』
「当然だろう、オレがお前のは誘いを……ん?待てよ、いまなんて?みんな?」
『うん、そっちの方でみるからどうせならと思って、アポロンとヘラクレスとプロメテウスを誘っといたの。ヘルメスはやめとくっていわれたけど折角だし誘っといてよ』

チケットもらっといてなんだけど、みんな集まるのって中々ないじゃない。という彼女の声はとても明るいものであり。先ほど言われたメンバーは全員アレスとナマエの共通の友人たちでもあった。
アレスは思わず頭の中に浮かんだメンバー……特にヘラクレスはまだしも、ほかの二人は別々の意味であまり好きではないというのに、そんなメンバーで行けばどうなることかと頭を抱えるがナマエは電話越しに嬉しそうに話を続けるばかりだった。

『アレスと遊べるの楽しみにしてる』

そして心底嬉しそうな声で告げる彼女の表情はきっと昔と変わらない、あの眩い笑顔なのだろうとアレスは思い浮かべると肩の力がスンと抜けて、少しだけ頬が柔らかくなる。

「オレもお前と遊べるのが楽しみだ」
『だよね!本当に遊ぶのなんていつぶりだろ、ねぇねぇそれより聞いてよアレス……』
「全くこんな時間にかけてきたくせにまだ話すのか?仕方ないやつだな……」

昼間の短時間では足りなかったように話をするナマエに頬を緩めては椅子に腰掛けて話をした。ずっと変わらぬ友人の声は明るく、デスクの上に飾られた写真立ての中の彼女の笑顔が浮かぶほどの声色に心地よく、アレスは互いにもう寝なければ。というまで話を続けた。
例えどのような関係になっても消えないその友情に心地良さを感じながら、彼は約束をした日を心待ちに過ごすのだった。

2026.7.23