「私と誰か重ねちゃった?」

そう言って笑った彼女は悪意も嫌悪も苛立ちもない。
ただそこいらに花が咲いている程度のことを伝えたつもりだったのだろうが、その男は思わず手を止めて彼女を見つめることしか出来なかったのだった。

小野篁は小野小町の霊基に付随した存在である。
それはカルデアのサーヴァントの中でも稀にいる者だった。
小町の父にして冥府の裁判官とも呼ばれしかの文官はカルデアの生活にも程よく慣れては物静かに娘の傍に静かに佇むように過ごしていた。

もっぱら娘の小町は少女漫画に夢中であり。
毎日紫式部が司書を務める図書館へ籠るように連日書に読み耽る日々であり。それは篁も同様のことであった。
極力姿を出さぬようにとしていたものの、カルデア内であれば魔力消費も問題はないため小町から魔力を得ていた篁も自然と過ごして構わないとマスター自ら言われれば、彼もまたその言葉に甘えさせてもらう事とした。

それはまるで勢いの強い波が現れたようなものだった。
マスターと小町に着いて歩いていた篁は物静かに二人の話を聞きつつ、時折話を振られると相槌を打つ程度であった。
ちょうどそれは廊下を通り過ぎていこうとした時、十時の曲がり角から飛び出してきた誰かと篁が勢いよくぶつかったのだ。先を歩いていたマスターと小町には気付いていた様子だが二歩ほど離れていた篁と勢いよく衝突した相手は勢いよく紙を地面に散らばしては声を上げた。

「申し訳ない。気配に気付かず……大事はないだろう……か」

篁は床に尻もちを着いたスタッフのオレンジカラーの制服を着た相手を見て、女人であると理解してはすぐさま手を差し伸べた。他にも性別を特定できるものは身体的特徴としてもあるが、このカルデアにおいての性別とはサーヴァントが主なものだが少々奇妙なものも多かったからだ。
しかしながらスタッフ制服に関してはわかりやすいものである。
特にサーヴァントではなく当世を生きる人であるという意味でも大変分かりやすいものなのだ。

しかしながら篁は手を差し出してすぐに相手の顔を見るなり、珍しく彼の言葉は尻すぼみするかのように、どこか弱々しいものに変わったが、それはなにか懐かしさを感じる相手をみるようでもあったのだった。

「平気です。私こそ前方不注意だったのでごめんなさい……あら?知らないサーヴァントの方?」

篁は女の言葉を受けてもなお、しばしの間、時が止まったかのように動きを止めてしまい。先を歩いていたマスターと小町が音を聞いては慌てて戻ってくるなり二人へ心配そうに声をかけつつ床に落ちた紙を拾っては彼女に差し出した。

「お父さま?」
「ん……いや、何もない。大変失礼しました、私(わたくし)小野篁と申します。こちらにおります小野小町に付随した霊体の者でございます」
「小町さんの……小野篁、あぁ"八十島の〜"の詠の」

日本人であったらしい彼女は篁の名を聞くなり手を叩いてはかの有名な流罪の際の詩を告げると、それだとマスターを含めて笑いあった。
篁もまたそれを知っていることへ感謝をすると彼女はその手を差し出した。

「改めまして初めまして小野篁さん、私はカルデアスタッフのミョウジナマエです。なにかありましたら是非よろしくお願いします」

それじゃあマスターくんも。といって礼儀正しく去っていったのを見つめた篁はその背中を見届けた。まるで彼は落し物を見つけたかのような姿をしてあの一人の女をみつめてるように娘である小町は隣から静かに感じていたのだった。

娘の小町は自分の世界に没頭することが多々あった。
カルデアに来てからというものの伸び伸びと過ごす彼女の時間を邪魔するのもと感じていた篁は霊体化を解いては時折過ごしていることがある。
そのように気付くと同時にカルデアの唯一無二のマスター、藤丸立香はあの篁がとある人物とよくいることに気付いた。

それはスタッフの一人であるナマエだった。
それもまた不思議なことに篁は彼女の手伝いをしているようであり。何かしら重たいものを運んでいるのを手伝っていたり。彼女がタブレットを片手にしていると覗き込んで話をしていたりという様子で、あの篁にしてはとても珍しいことであると思わないわけがなかった。
もとより彼はサーヴァントではないからと極力控えていた。彼を知る人物は一様に頑固で真面目で朴念仁だという。

しかしながらあのスタッフであるミョウジナマエといる時の篁の姿とくれば、まるで小町といる時とはまた違う、どこか柔らかく何かを思うような雰囲気を感じさせていた。それはまるで親しいものと過ごしているかのような。
篁ほどの男がただ女を気に入る。ということはあまり考えられなかったゆえにますます分からず、藤丸立香はある時、篁を呼び止めた。
あの平安時代を生きた歌人であり、公卿であり、そしてまた冥管であった小野篁。
直接的な契約はなくとも小町のマスターである彼を慕う篁は呼ばれに応じては珍しくマスターのマイルームにて「如何様で?」と伺いを立てた。

「いやぁ、なんて言うか大したことじゃないんだけど聞きたいことがあって」
「はて、この篁に如何程のことを。私で宜しければ幾らでも御尽力致しましょう」
「ナマエさんのことなんだけど」

その名前を聞くだけで篁の肩が微かに揺れるのを見た彼は、やはりなにか篁にあるのだろうと思うと「別にいいんだけどさ、ナマエさんと何かあった?」と聞いた。
それは決して咎めではなく。彼なりの善意から来るものであった。カルデアにいるサーヴァント達の悩みや思いを受け止めるのもマスターの役目だと彼は思っており。それは通常聖杯戦争におけるマスターとサーヴァントとは全く異なる環境ゆえに思うことなのかもしれない。

篁は僅かに考えたあと「マスター殿が気にされるようなことではございませぬ」と告げた。
それはまさに篁らしい言葉だと感じた彼は言い淀むならそれでもいいと思い笑顔を浮かべて終えようとする前に、篁はその目布のような、札のようなもので覆われた目を細めたようにして、その威厳ある声でどこか恋しそうに呟いた。

「ナマエ殿は遥か彼方、私の知る者に似ておりますゆえ、それが行動に出てしまったのでしょう。お恥ずかしい限りでございます」
「それって奥さんとか?あっ、妹さんとか?……って、こんなの聞くの良くないよね、ごめん俺突っ込んだことを聞いちゃって」
「構いませぬ。この篁、自身が当世でどの様に思われておるかは自らも理解しておりますゆえ」

藤丸立香も決して歴史は得意ではなかったが二人が来てからのことは学んでいた。そしてサーヴァントという存在は妙な縁の元に繋がっていることも知っており。人によれば過去を知っていたり、未来での姿であったり、様々なものがいる。
それ故に篁がナマエに対するものがなにであれ彼は決して何かを強く思う気持ちはないものの、もし篁が望むのならば力添えはしたいという気持ちがあり。その瞳の熱を篁は感じていた。

「しかしながらどちらにもあらず。私の胸の内にのみ残されたものでありますゆえ、お心遣い感謝つかまつる」
「そっか……うん、もしなにかあればいつでも相談してね」
「有り難きお言葉。であればこの事は他言無用で……特に我が娘には」

そういって篁はマイルームから出ていくと一人きりの廊下で思わず背中の力を抜いてしまい。物思いにふけってしまう。我ながら分かりやすいかと自分で思いながらもどうしたものかと思う時、廊下から聞こえた足音に視線をやればそこには件の相手、ミョウジナマエがいた。

「こんにちは篁さん」
「ナマエ殿、マスター殿へ?」
「ええ、ちょっとした報告書の……あっ、そうだ篁さんってお酒飲める?この間ちょうど貰ってね」
「酒は嗜む程度であれば。しかしながら私のような者への気遣いは」
「いいの、篁さんにはよくしてもらってるから」

それに酒好きの日本のサーヴァントとなると鬼が来るかもしれないから。と笑う彼女に篁は暫し答えを待ったあと「では後ほど伺うとしよう」と告げ、互いを見やることはなくその場を離れた。

篁は一人、居住区の廊下を歩いては一つの部屋に辿り着くと悩んだような表情をした。なにせ約束をしたはいいものの、どこか他の者の目の届く場所かと思えば違ったからだった。
あの後、夕食の頃に小町と食堂に出た篁のところへナマエがやってきては小町に「今晩篁さんのこと借りてもいい?」と気さくに聞くため、父と仲睦まじいことを知っている小町は二つ返事で了承をした──というよりも乙女思考の彼女はどうやら父と彼女の件については妙な想像をしているところもある様子だった。

そうして篁は全くもってらしくないが誘いを受けた身であるため仕方ないと腹を括って「失礼つかまつる。小野篁で候」と告げるとドアが内側から解除されたように自動的に開いた。
マスターの部屋に比べては狭いものの、その作りは変わらないものだが、仕事を終えた彼女は既に日中よりも軽装、否、浴衣を着ていた。

「ナマエ殿その格好は」
「篁さんと飲むってなったから雰囲気でもと思ってミスクレーンに頼んだの」

まるで海のような色をした麻の浴衣を身に纏う彼女に篁は「よく似合っている」と返事をしては招かれるがままに部屋へと足を運んだ。
しかしながらスタッフの部屋といえど特別なところは何もないものの、それでも過ごしやすいようにとどこからか持ち寄ってきたらしいちゃぶ台と座布団があり。机の上には酒瓶とお猪口が二つ、そして軽くつまめるようにと置かれているのを見た篁に「アジのなめろう食べれる?」と伺う為、彼は勿論と返事をして向かい合わせに座って話をした。

とはいえ会話というのはもっぱらナマエの役割だ。
篁は口数の少なさはもちろんであるが、ナマエの話を聞くことを好むように話をした。
時代は違えど互いに同じ国にいる者、ジェネレーションギャップという言葉では無い。また新たな世界を聞くようであるとして彼女の質問に答えたり、時折冗談めかした過去の話をしたり。反対に彼女の話を聞いたりとしていた。

「(似ている……"彼女"に……)」

酒は既に空になり。
ナマエがさらに持っていたもう一本を開けては半分以上がなくなっていた。
霊体の身である篁はザルであり。酒に酔うということはないが、彼女は上機嫌に話をするのを篁は聞いてやった。

そうしているうちに篁はますます自分の奥に残った思い出に彼女を重ねてしまう。
見た目も勿論のことだが、話し方や笑い方、ほんの少しの仕草でさえ似ている。
少し豪快で淑やかさには少しだけ掛けてしまうが陽気で、その温もりや笑みは夏の午後の太陽のような眩くも心地よいものである。
饒舌な彼女は自分の過去の話をしていた中で「私のおばあちゃんの家がね、隠岐島にあって」と呟いた時、篁は思わず手を止めて彼女を静かにみつめた。けれども気付かぬ彼女はいつの間にやら篁の隣に座っては無邪気に笑って話をする。

どこか海を彷彿とさせる彼女、夏の日差し、潮の香り、風の心地良さ。

気付けば篁は彼女の唇に自分の唇を重ね合わせていた。
ほんの一瞬、されど一瞬、けれども残る記憶と感触。
彼女は一度驚いた、しかしながら離れようとする篁の首に腕を回すと深く求めた。篁は何も考えられずに彼女を抱き寄せた。

「⬛︎⬛︎⬛︎───」

そう告げた時。
彼は冷水を浴びたように感じた。
それは口にしてはならぬ言葉だった。

この行為自体が決して起きてはならぬ事でありながら、篁はさらに自分の中に閉ざしていたものを口にした。一度や二度ではない、彼はもう彼女を前にして何度目かの過ちを犯していると気付く頃には遅かった。
しかし、女は何も気にせずに問いかける。

「私と誰か重ねちゃった?」

そう言って笑った彼女は悪意も嫌悪も苛立ちもない。
ただそこいらに花が咲いている程度のことを伝えたつもりだったのだろうが、篁は思わず手を止めて彼女を見つめることしか出来なかった。
身を離した篁は「御免」とだけ言い残しては慌てて霊体化して消えていくのを見送った彼女は部屋の中で転がった。

「……だよね」

それからというものの篁と彼女は全く何も無くなった。
篁は姿を表さなくなり。彼女も以前までは顔を合わせていた篁がいないことを何も言わなかった。
しかしながらそうなると周囲が反対に「何かあったんだ」と察してしまうのは無理のないこと。一応は彼女に声をかけるが適当に返事をされるが、そこに喧嘩のようなものは感じられない。
悩んでいたマスターに対して男と女が飲んだ後となれば、過ちでもあったんだろうという下世話な者もいたが知らないふりをしていたものの、妙な落ち着かないのは世話焼きな性格をしている藤丸立香であり。

そして篁の娘、小町もだった。
二人は篁を呼び掛けては現れるなり何かあったのかと聞くが誤魔化す篁に対して嘘が下手なのだから素直になるように告げると、些か問題があったと告げた。
その詳細は告げられないと言うが藤丸立香は以前の話から理解しては納得した二人をして話を終えた。どこかへまた消えるであろう篁に「今晩ちょっと」と声を掛けたことに篁は拒絶できるわけもなく。
仕方ないと了承をして姿を消した。

そして夜。
マスターに言われた通りにシミュレータールームに行った篁は誰もいないそこへ向かうと海の景色が広がっており。
そこには見覚えのある女性がスタッフ用の制服を着たまま佇んでいた。
篁の気配を感じた彼女は振り向くと挨拶をした。篁は返事をしつつ何をどうするかと考えていると彼女の横へと手招きされて、二人は夜の海を眺めていた。

「誰と私を重ねたの?」
「そのような事は」
「嘘はいいの。篁さんは嘘つくの苦手でしょ?別に怒らないから話してほしい。私あなたの事が好きだから」
「……それ、は」

篁は言葉を詰まらせた。
面と向かってはっきりと告げる彼女は篁とは違う。
どこか彼が今を生きる人ではない、サーヴァントのような存在であるゆえに何かを理解したようだった。
時代が異なることもあるのだから仕方がないが、文通でも和歌でもない。純粋な思いだけを口にした彼女に篁は自分が始めたことでもあるとして事実を告げた。

「貴殿が私の愛した者に似ていた。そのため私は貴殿への無礼を働いてしまったことを此処にお詫び申す」
「でしょうね……それで?誰を重ねたの」

それは篁にとって誰にも言えぬことだった。
そして小野篁の記録にも残らないもの。
仮に知られたとしてもそれを記録することは禁じられた。
かの小野篁がただの庶民と愛し合ったという記録はあってはならなかったから。

それは篁が隠岐島へと流罪となった時のことだった。
身分を剥奪され、隠岐島にて暮らすこととなった篁の生活はこれまでとは全く別世界のものであった。
罪人として、庶民として、隠岐島という場所で暮らす彼は生半可な生活ではなかった。味わったことの無い労働や、食への苦労。眠る時でさえコオロギの鳴き声やネズミの這い回る音に悩まされたほど。
その生活の中で出会ったのが"彼女"だった。

隠岐島に住む漁師の娘であり。
流罪として流れてくる者たちへも当たり前に扱う娘であり。
篁の配給が塩と米のみであると知れば、魚を与えたり、野菜を与えたりとし、元の地位もあることからか篁は多少の自由はあるため、隠岐島での一年過ぎを彼女と暮らした。

「そして私と彼女は深い仲となったが都へと戻るように命ぜられた私は彼女と別れた。彼女が身篭っていると知っていても、私には妻も子もいたが、その時ばかりの相手とした」
「それでその人に私が似てた?」
「それは誠に、何かしらの縁があるかのように仕草ひとつでも。私が彼女を想わぬことはなかった。使いの者へ彼女への仕送りを密かに頼んだがそれらは全て届くことはなく。そしてその想いも告げることなどできなかった」

そう告げた篁が顔を伏せるのを見て彼女はすっかりと黙り込んだ。
彼自身このことを告げたのは後にも先にも彼女のみ。
篁の記録について隠岐島でのことは不明とされていたものの、そこで出会った彼女との思い出を目の前の女に重ねていたことについての無礼を承知で告げた。

「私ね、篁さんが好きだと思ったの」

彼女はまた一口酒を飲んではそう呟いた。
篁はその事について僅かながらに驚きを感じて隣に座る彼女を見たが、彼女は篁をみつめるとカラリとした笑顔を向けた。

「勘違いだね、私たち」

それじゃあそろそろお開きでと彼女が告げることに篁は呆気を取られたものの、主催がそう告げたことに異議など唱えられるわけがない。
自分の胸の内に宿した想いも、彼女が向けるモノも篁は言及することはできない。彼女が別の誰かに似ていたとして、それが何処かで確かに縁があったとして、だからといって今を生きる彼女は別の物であると冥官を務める篁には、人の魂を知る彼は分かっているはずだった。

それからの日々は代わり映えのないものだった。
以前ほどのぎこちなさはなくなったがやはり距離を置くようになったものの、篁は時折彼女の背中を目で追うことがあった。

『勘違いだね、私たち』

あの一言の真意について篁は考えていた。
何を勘違いしていたのか、彼にはわからなかった。
自分が彼女を思うことなのだろうかと思いながらも廊下を歩く彼女を遠巻きに眺めた時、その横顔は平安時代のあの頃、海と共に想った相手とよく似ているが違うと感じられた。
髪型のせいではなく、目鼻立ちがしっかりしているように見えた、瞳の色は少し暗い、指先はしなやかで荒れた様子は見られないと見る度に思う間、篁の前にはまた彼女がいた。

「藤丸くんに呼ばれたはずなのに……」
「小町に呼び立てられたのだが……」

そうして二人はまた何も無い部屋に呼び出されたかと思えば二人きりにされていた。
どうやらなにか騙されたのだろうかと薄く察したのは互いが呟いた名前に身に覚えがあったからだ。近頃は口喧しく「ナマエさまは?」「篁さんとは?」と聞いていた若い二人のことについて何もないと言っていたのが祟ったのだと理解して呆れる。

「なんだか気を使われちゃったみたい?帰りましょっか」

苦笑いをした彼女がドアを開けようとするが鍵が掛けられたようで開かなかった。内側からの解除方法はないらしく、篁は不思議に思ってドアノブに手をやったが案の定であり。仕方なく霊体化をして外を出てみるが残念ながら鍵が必要な様子であることを確認しては部屋へ戻り、それを告げた。

「はぁ……全くいたずらが過ぎるんだから」

そういって座り込んだ彼女に篁は外に出て例の二人に声をかけてもよかったが一人残してしまう彼女について後ろ髪を引かれるように感じられた。
立っていても仕方がないという彼女は篁に気にしなくていいというが、篁はあの言葉ばかりが心残りであり。そしてあの一件から二人が話をすることはなかった為、二人きりになることはあの日以来のことであった。

「ナマエ殿にお伺いしたいことがあるのだが」
「なぁに?前世の記憶ならないよ。私の記憶は小学校くらいからしかないもの、望んだって答えられないかも」
「いや、そうではなく。あの時『勘違いだ』といった言葉の意味についてお教え願いたい」

彼女は仮眠でも取る気のようで狭い部屋の壁沿いの床に座っては膝を立ててていた。マスターほどでは無いとしても常に多忙であるため、多少の暇はとなるのだろうが、篁は己の胸にある疑問を彼女に投げかけた。

本来彼はそんな男ではなかった。
カルデアという場所にいても彼はあくまでも小野小町に付随した霊体。
あくまでも自分は彼女の武器であると認識し、己を律していたはずだったが目の前の女に向けて我が出るのは彼女をあの時の"彼女"として思うからなのだろうかと自問自答をした。

彼女が伏せようとした瞼を開いては篁をみつめた。
立ち尽くす彼はゆっくりとその場に膝を畳んで正座をしては彼女を真っ直ぐと見つめる。
そうすると彼女は少しだけ悩んだような顔をして「質問に質問で返す形になるけど」と前置きをして問いかけた。

「どうして知りたいの?あなたにとっての隠岐の女では無いのに」

"隠岐の女"という言葉を聞く篁は誠に正確な言葉だと感心した。
他人であり、知らぬ存在、けれど彼女に似通った者。
篁は彼女の言葉を真剣に飲み込み考えたのは彼の誠実な性格であるからだった。自分が彼女にした行いは許されぬものだと理解していた。あの時触れた唇も、違う名前を読んだことも、その上で目の前の彼女に重ねたことも、全ては許されぬものであり。篁は罰を命じられれば喜んで受けると答えられるだろう。
けれども篁は目の前の女に向けて、別の眼差しを向けていたこともまた事実。それが大きく揺れ動かす恋心ではなくとも、水面に落ちた花が広げた波紋のようなものであるとしても。

「私が貴殿へと感じたモノは確かに誰にも口にできぬ過去への重ね。しかしながらナマエ殿を見て感じたことは、またもや違うものであった為、聞きとうなりました」

篁の言葉を聞いては姿勢を正し始めた彼女の目には迷いを宿しており。
そこには別人なのだから当然だろうというものであると篁は理解する。
目は口ほどに物を言うとあるが、彼女の反応も分かりやすいものだと思えた、いつの間にやら互いに正座をして向かい合うと彼女は「そう」と短い返事をして考えた。

「勘違いしてたの。篁さんが私に優しくするのは私を多少好意的に思うからだって」

初めは優しい人だと思うだけだった。
けれども特段姿も表さないあなたが私を見つけては声をかけてくれることも、他の人よりも接してくれることも、その全てが僅かに重なると多少なりともあなたに好意があった私は簡単にあなたに恋をした。

「恋をした事の無い女なのかと、そんな単純なことでと思うでしょ?」

私だって不思議だけど、恋なんてそんなものだから。
そういって困ったような顔をして誤魔化す彼女はやはり似ていた。
自分の奥へと心を押し戻して殺してしまうところ、しかしなれど目の前のナマエという女は照れたり誤魔化そうとするときに、僅かに視線を逸らしては髪の先を指先で弄ろうとしてしまうのだ。

「私たち…っていったのは、私があなたの好意への勘違いと、あなたが私を愛した人と重ねたことへの勘違いの意味、なんの捻りもない、そういう事……それだけだからなんだか意味深に捉えられてたらごめんなさい」

なんだかギクシャクしちゃって周りに気を使わせるだなんて悪いといって彼女は立ち上がると開かないドアへと戻りドアノブを回そうとした。
しかしながら彼女の手に一回りは優に大きな手が重ねられた。
黒い手袋を嵌めたその手が誰のものであるのか、背中に感じる熱が誰のものであるのかは知っていたが彼女は唇を小さく噛んだ。

自分の中で言い聞かせる。
サーヴァントだと、今を生きていない人だと、彼らが運命により生きており、誰かの面影を重ねることは当然であると、何故その胸の高鳴りを抑えられないのかと、どうしてその熱を覚ましてくれないのかと。
男を知らないわけでもない。恋をしたことがあるからこそ何気ないきっかけが彼女の心を射止めたのは確かでもあると彼女は自分を否定はできない。

「貴殿への想いを傷付けたことを詫びたい。しなしながらナマエ殿、私は貴殿を月を見るように眺めていた。そして貴殿が私の知る月ではないのだとも知った」
「難しい言葉は分からない、漢文古文とかそういうの苦手なの」
「ハッキリとお伝え致しましょう、此度の私は"ナマエ殿"を想っていると、その想いの炎の色は何色であるかなど分かりませぬ」

赤色か青色かそれとももっと違うものなのか。
小さく揺れた細い女の肩に篁はどうしてそのように思うのかを考えた。
あの時出会った女を重ねたことは確かであるが、見る場所が違えばそれは違うものであると彼は理解した。か細い女の頭頂部を眺めては逃れられぬ子うさぎのよう彼女に篁はもう少しだけ身を寄せた。

「でも……その……篁さん、妻子いるから、あなたが誰かを重ねてることだって」

隠岐島の人もと告げる彼女に篁は自らが恋多き者だと自負せざるを得なかった。それでも尚焦がれてしまうのが人の身を宿したゆえと理解して、彼女の水で傷んだことのない手を撫でる篁は耳元へと顔を寄せた。

「左様。しかしなれど"この"篁"には今や"子"しかおらぬ。貴殿はそれを知っていただろうに"今"の小野篁であると」

それは酷い男の言葉であるだろうが篁は獲物を逃しはせぬ狩人でもあった。赤く染まるその女を喰らいたいと願う直前、二人は突如としてその身が大きく動いてしまったのはドアが反対側から開かれたからだった。
身を崩した彼女の肩を篁は抱いてやると、そこには見慣れた三人がいた。

藤丸立香、マシュ、そして小町の三人だった。

「あれ?二人ともずっといないから探してたのになんでこの部屋に?」
「え、ここじゃなかった?というかあなた達がハメたんじゃないの?」

藤丸の声に彼女は驚いたように声をあげると二つ隣の部屋です、というかハメるって?と告げられた。この部屋は改装中でドアも不具合があるからあまり入らないように言われてたはずだと言うことに彼女は目を丸くした。
用事はもう終わったので問題はないというが、カルデアは廊下も扉も似たものが多いため仕方ないことだった。
しかしながら彼女の肩を背後から抱いた篁、そして赤く頬を染めたナマエをみては、三人の少年少女は何かしらがあったのだと察しては顔を見合わせた。

「お父さま、ナマエさまと……なにか、恋の予感?」

小町は口元を隠しては嬉しそうに告げた。
この恋が好きな娘はどうやら父親の色恋でも楽しく見られるようだがヒソヒソと話をする藤丸とマシュをみてナマエは口をパクパクさせた。

「有無、あともう一手のところであったようだが」

篁は珍しく冗談のように言葉を返すなり彼女は勢いよく篁から離れては逃げ出すように部屋を出ては仕事に戻ると告げた。
その姿は篁にとってはどこか懐かしいが初めてみる"彼女"の反応であり。
篁は三人の視線を受けては静かに「では無用であるようですので」と挨拶をしては篁はいつものように霊体化をしては姿を消した。

それからの日々がどうなることやらと思う女は駆け足に近い足取りで廊下を歩いた。自らが思っていた小さな熱はどうやら火傷をさせてくるのだとようやく気付いて。そしてその熱はきっと隠岐の海でも消えぬものである。

2026.8.27