天界はいつも静かで心地よい場所であった。
天界図書館は広大な建物の中に何千何万何億と書物に溢れており、通いつめる者は天界に住まう者であれば種族を問わない程である。
もちろん、始皇帝の語り部たる洛熙も例外になく、その図書館の常連であり、同じ常連同士や務めている司書などとも顔見知りであった。

図書館の数え切れぬ程の書物を見つめる彼女は始皇帝に読む為のものと、自分用に読むものを幾つか見繕う。
始皇帝には冒険譚や童話、長さは問わずにワクワクするものを。
自分には特にこだわりはなく、背表紙などに記載のタイトルをみて選んでみたりした。
気分によって読む本は変わるわけだが、彼女は本のジャンルは基本問わない。しかしながらつい惹かれしまうものがある。
それは"恋愛もの"と呼ばれるタイプのものだった。
彼女は生前も今も、そうした浮いたものには縁遠かった。

無理もない、自分のような大した才能もなく、読み書きが多少できるだけの宮女、意見をするのもあまり得意ではない上に、正直なところ根暗な部類。宮女として仕えている者や宮殿に来る女性達は煌びやかで美しく、自分にはとても遠い存在であると思えた。

手の中の書物を開いてはロマンチックな恋をする女性に密かな憧れがある。
いつか自分もこんな恋愛を……など思いながらも、自分が人に好かれるタイプでは無い、生前に縁談のひとつも来なかったのだから、と内心苦笑いをする彼女は受付カウンターで書物の貸し出しをしてもらった。

「では以上十三冊ですね、返却期間は二週間後となります」
「承知致しました、ありがとうございます」

そう言って彼女は重たそうに分厚い書物をか細い腕で抱えようとするのを人間の司書の男は思わず声をかけてしまう。

「よければご自宅までお持ち致しましょうか?」
「え?しかしお仕事が……」
「ほかの司書もおりますし問題ありません、確か始皇帝様の所までですよね」
「はい、そうです……あぁでもよろしいのでしょうか?」

司書の男は彼女の困惑した様子に問題ないです!と嬉しそうに返事をしていた時だった。

「今日はこれを読むのか」
「陛下、珍しいですね、こちらにいらっしゃるとは」
「たまにはこうして書物に囲まれるのも好いと洛熙がいっていたのでな、朕も来てみたのだ、重たそうだな、どれ朕が持ってやろう」

突然現れた目布を充てた男をみた司書は思わず身体を硬直させた。
天界図書館は各支所があり、主に中華の書物を扱うその図書館において、彼を知らぬわけがなく、司書は「始皇帝様!?」と声をあげるが呼ばれた男は何も気にした様子もなく、彼女の腕の中の分厚い書物を手に取り、従者のように持ってやるのだ。
皇帝の祖となる方がそのような真似をと驚くものの、洛熙も気にした様子はなく書物を手にされるのを重たくないか聞きつつも、平然とした様子で眺めていた。

「この程度の紙の束、軽い軽いっ!片手に洛熙を抱いても羽のようなものだ」
「始皇帝様、さすがにこれは……」
「さて戻って早速読み語ってくれ」
「勿論でございます、しかしこの体制は些か恥ずかしいような」

片手で抱き上げられた彼女は困り果てたように言いつつも拒絶せず、始皇帝は満面の笑みを浮かべては帰ると告げるが、図書館の外では大きな音が聞こえる。おおよそ彼の従者達が待っているのだろう。

まさかこんな所に来るだなんて……と司書の男は驚き肩の力が抜けて椅子に座り込む時、後からやってきた別の司書の男が慌てたように声をかける。

「お前なぁ、洛熙様にあんな風に声を掛けるなんて消されるぞ」
「え!?なんで」
「そりゃあお前あの方は始皇帝様の寵愛を一身に受けたただお一人だぞ。街の方であの方に下心で近付いた連中なんて……まぁ兎に角、無駄な関わりはあまりするな、自分のためだぞ」

そういわれた男は背筋をゾッ……とさせた。
確かにあの時、始皇帝は彼を見た、目隠しの布をしていても分かるほどに冷たい眼差しだったと思いつつも気のせいでいて欲しいと思いながら、彼はそっと受付カウンターに座り直した。
カウンターの内側には"洛熙様には無駄な接触をしないこと!"と記載されており、理解してしまう。彼女はあの皇帝の愛を一身に受けたお方なのだと。

そうなのだ、洛熙は生前から気付いてはいない。
何故自分に異性が来ないのかということを。
そしてそこに彼女の王たる、始皇帝が絡んでいるなどもっと考えられぬ事だった。

「とても素敵なお話でした」

書物を読み終えた洛熙はうっとりとした声で呟いた。
その声はまるで花が咲いたような声であり、始皇帝は彼女の膝に頭を置いては、その表情を見ると口元が弧を描いた。
物語は洛熙が自分用にと借りてきた恋愛小説であり、王と従者の禁じられた関係だった。時に悲しみ時に喜び時に愛おしさに胸焼かれたその物語は始皇帝の好みではなかったが、それを読む彼女の声はいつもよりもずっと感情がこもっている。

「そなたは本当に恋物語が好きだな」
「え?あぁそうですね、きっと私には遠いものだからでしょうか」
「遠い?」
「私は生前も今もずっと嬴政様に仕えている身でございますが、こうした物語のようなことをしたこともなければ、縁談の話ひとつも来ないような女でありますゆえ」

照れくさそうにする彼女は生前、長くは無い人生の中で独り身のまま生涯を終えた。男を知らず、恋を知らず、そうして終えた人生はあの時代の女としてあまり役目を果たせなかったのかもしれないと彼女は考えることがあった。
両親は健在であったものの、宮殿から出ることはあまりなく、結婚を望まれはしなかったが親の身を考えればと彼女は思う時もあった。

一方その話を聞いた始皇帝はといえば、内心思い当たることしか無かった。
無理もない、彼こそが彼女の縁談を全て破綻させ、近付く男を全て排除してきたのである。もちろんそのことに関して彼は悪気は無い、当然だ、なにせ「洛熙は朕の玉座」というのだから、これほどの言葉はないと言えるほどの至高の言葉であるだろう。

「もう少し魅力があればよかったのかもしれませんが、いかんせん読み書き以外をしてこなかったので人付き合いが下手だったのかもしれませんね」

否──真反対であると始皇帝は胸の内で言葉を吐いた。
洛熙は確かに地味な娘であった。
良家の出でも無ければ、始皇帝の宮殿に務める宮女の中では身分は低く、周りからは常に仕事を押し付けられ、文官を目標とする彼女について見下す者もいた。
しかしながら時代であるのだろう、舞のひとつも出来ぬ彼女は文才に長けていた。その声で読み聞かせる文や詩を聞く者は魅了され、書物を読むその眼差しや指先を男はつい触れてしまいたくなる。

儚く弱く感じられながらも、話しかけてみれば人懐っこく嬉しそうに話をする彼女を知ってしまえば、周囲が彼女を目にかけないことも相まって。──自分だけが彼女の魅力を知るのだ──と勘違いしてしまうのだ。
そうして勘違いしてしまえば、彼女がほかの宮女や宮殿に訪れる他国の姫や舞姫などよりも、慎ましい娘の方がずっと貞淑な存在に思えてしまうのである。

「また……か」

始皇帝が不満げに呟いたのは彼女に送られた縁談の文に対して。
始皇帝の語り部として傍においてすぐ、始皇帝はその権力を持って彼女を縛り付けた。彼女に送られる文などについては別の文官に確認させ、その内容を読ませるが縁談や隠れながらも密会を求めるような内容。
宮殿内の書物室に足繁く通う彼女を見て、時折話をして、そうして彼女と接触をした者が密かに彼女に言いよることに彼は酷く苛立ちを感じた。

王である以上──とは言いつつも男と女の関係については始皇帝も後の皇帝同様にそれなりには困らされた。

「縁談のお話や好い話をしてくれる方もいたのですが、皆様やはり少し話を致しますと違ったと感じるのでしょう、すぐに離れてしまいます」

物寂しげに話す彼女に始皇帝は「否」と思わず口にしそうになる。
彼女の生活圏は常に始皇帝の傍にした。
主な場所は寝所にて、毎夜始皇帝は彼女の膝の上に頭を乗せて物語を聞かせてもらい眠りについた。あの日々は甘美な時間であり。何者にも与えられぬ幸福だった。

洛熙に話しかけた者が彼女の傍から離れていくのは、そうしていたからだった。
洛熙には常に静かに側近を置いていた。彼女の全てを監視できるようにしたのは守るためだった。何も知らぬ者たちが彼女を傷つける可能性があるから守るためだった。
初めて始皇帝が洛熙に近付く男に気付いたのは、彼女が話をしている姿をみてのことだった。その時は何も思わなかった。彼女が微笑んで話をできる相手がいることは良いことだと思っていたのに、同じ性別ゆえなのか相手の下心が見えてしまう。

触れてしまいたい。
求めてしまいたい。
組み敷いて喰らいたい。

そう願う欲望を理解する始皇帝と、そんなことを塵も思わぬ洛熙。
そうして探るうちに男が彼女を誘った、二人きりで過ごしたいという頼みごと。

「少しお暇を頂けないでしょうか」

そういった日、珍しくそう告げた洛熙は男と二人で町へ行くのだと知った。
許可はしたものの男が来るかどうかは分からなかった。
始皇帝はそれを許さなかった。男には別の仕事を授け、満足のいくように報酬を多めに手渡した。
その夜、始皇帝の寝所にいつも通りいた洛熙にどうだったかと問いかけると彼女は隠すように町で息抜きをしてきたのだと話した。申し訳なさはあった。自分の為だけに彼女を縛り付けることを。

けれども男は密かに現れ彼女を狙う。

あの無垢なる乙女に手をつけようと溢れる欲望が向いてしまうのだろう。
美しい花を手折ることを許さなかった始皇帝は次第にそれを消していった。そうしていると気付けば噂が流れてしまう「洛熙という女に手を出すことは自分を滅ぼすことになる」と、酷い噂であるがそれで良いとした。
それで彼女が守られるのならば、自分だけの女でいられるのなら、と小さな歪みを彼は抱いていた。

「そなたの魅力は朕だけが理解していればよいのだ」
「魅力だなんて」

膝の上に頭を乗せた始皇帝は彼女にそう告げると大層なものだと笑うが事実だと彼は言う。
そして自分の魅力も彼女にだけ理解されていればいいとした。
地位や名誉を求めて集まる人間よりも、洛熙のように心から想ってくれるだけでよい。

「誰にも手渡したくは無いからな」
「……私は嬴政様のものですよ?」
「そうだ、朕のものだ、その思いの揺らぎも全て朕だけに感じるがよいのだ」

そうだ、自分だけだと彼は感じて、起き上がるなり洛熙の頬を包むように両手で触れると目元を隠した布越しにじっくりと彼女を眺めた。布越しには見えないが洛熙にははっきりと彼の視線と、その開かれた星が瞬く様な瞳を感じてしまう。
次第に羞恥が重ねられ、彼女は目を背けてしまうものの始皇帝は顔を寄せる。

「洛熙、そなたは朕のものだ」

まるで彼女が読んでいた恋物語の男が告げたようにいう。
しかし物語のような軽い言葉ではなく、王としての声と意味が混じりあっている。
始皇帝の吐息が頬に触れると洛熙は次第に熱が湧き上がるように感じられ、その身が熱くなってしまう。妃や側室など、特別な存在ではない。
しかしながらそれ以上の存在であると彼女は始皇帝に教えられた。
恋も愛も知らず、ただ一人の皇帝の寵愛を受ける彼女はそれがどんな書物に描かれた恋物語よりも情熱的であることを知っていても、自分が主役であることを理解していない。

「洛熙、そなたに問う、誰の語り部だ」
「陛下の、嬴政様の、語り部でございます」
「そうだ、そなたの魅力は朕だけが分かればいいのだ」

唇を優しく指先で撫でて教えてやると、彼女は何も答えられずに視線だけで答える。自分は始皇帝のモノであると、魂から理解した姿。
それがどれだけ彼を満たすものなのか、彼女は理解していない。
満足そうにいつも通り無邪気に微笑んだ始皇帝は「好ッ」と告げてはその唇に自分を重ね、物語よりも甘い接吻を交わしたのだった。

ある日、始皇帝の宮廷にて、一人の官吏が一人の宮女に目を奪われた。
広い池の睡蓮を眺めながら窓際で書物を読む女、一見地味だが儚く美しい女に心奪われた男は思わず彼女に近付いて声をかけようとした。
周囲はやめておけというが、その男は何も聞かずに「お主名前は?」と問いかけた時、彼女は優しく微笑みかけた、洛熙と名乗ったその娘にひとたび心奪われた男はそれから数度彼女と話をした。贈物も贈ったが、彼女のつけた簪がとてもじゃないが平民のつけているものには思えなかった。

「陛下から頂いたのです」

照れくさそうに微笑んだ彼女にそれでも尚と思う男はある日呼び出しを受けた。
男ははるか遠くの地へと異動を命じられた。
家柄もよく、職務も立派だというのに、彼は何故自分がと驚くが誰もがみな口を閉ざした。

宮廷を出る最後の日、暗い夜の中で彼は門をくぐる前に、宮廷をみた。
そこには一人の男と女がいた、若い六つの国を統一した王、始皇帝と何も特別なものなどない平凡な女官である洛熙。
窓際で書物を読む洛熙の膝に頭を置いて、耳を澄ませる始皇帝の表情は心地よく、静かな夜の中、彼女の声はまるで琴のように美しい。
官吏の男は耳が一際良かった、だからこそ、彼女に惹かれてしまったと思いながらも、薄らと窓際で目のあった始皇帝に彼は理解する。

この世には触れてならないものがあるのだと。
そうしてまた一人去っていく、始皇帝の寵愛を受けしは側室ではない。
いつまでも埋まらぬ后妃の枠には、一生そこには嵌らない存在がいる、それはきっと彼女なのだと感じながら。
彼女はもう二度と皇帝の寵愛からは逃げられるのだと周囲は知るのだった。

2026.3.2


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