天界・とある王の居城は静寂の限りを尽くしていた。
広く静かなその城は人でもいないかのように静まり返っている。
兵は部屋の入口に静かに佇み、侍者達もまるでその身を隠すように己の職務を果たす中、一人の男はその美しい佇まいで本を読んでいた。
頁を捲る音だけが微かに天井の広いその広間にて聞こえる頃、なにかの足音と鼻歌が聞こえる。少し音を外した女の声は上機嫌であり、軽やかにステップを踏むように足音とナイロンか何かの軽い音がした。
一人の新兵はその声が広間に入ってくるなり思わず目を丸くして慌てて「こら止まらぬか、ここをどこだと思っている!」と怒ったように声をかけるが女は気にもせずに歩いていく。
ここをどこだと思っているのか、ここはかのオリュンポス十二神の一人、海王・ポセイドン様の城であるのだと新兵は声をあげようとするが、反対側に控えていた兵が目配せをして首を振った。
女は自分の手を見た。
キラキラと輝く長い爪。
長く巻かれた髪の毛に、ふわりと香る人工的な香りは思っているよりも強くは無い、肩や胸元が広く開いて短いスカートからは足が出て、露出が多く派手な現代風の服を身にまとった女は広間の玉座にて腰掛ける男をみるなり、それまで爪だけを見ていた顔を上げると花が咲いたように満面の笑みが浮かんだ。
「ポセイドンただいま!!ねぇねぇ聞いて、今日ネイル行ってきてさぁ、前のサロンの担当の子がやめたから新しいところに紹介でいったら、まじテンアゲな感じで最高ネイルしてもらったの……」
とても広いその広間に女の声が響き渡るようであり。
入口にいた新兵は目を丸くしては「な、なんてやつだ」と顔を青白くさせて驚いたが女はなおも気にせずに一人騒がしく話をし続ける。
反対に広間に佇む玉座に腰掛けた海の王・ポセイドンはそんな相手のことを気にせずに自身の本を読み続けており。女はナイロンのエコバッグの中身をみせながら「ついでに街でお散歩してたら野菜とかもらってぇ」と話を続けるそこには相槌も何もないというのにニコニコとご機嫌そうだった。
派手な見た目に軽い話し方、一応はポセイドンと共にいるということは彼女も神なのだとわかるものの、その身なりや態度はあまりにもこの天界で恐れられ、"最恐神"といわれる存在へ向けるものではない。
新兵は気が気じゃなかった。
そもそも彼は海の王である。
海に関する様々な神がいる中でもそれの頂点に君臨せし存在。
誰であろうとその方に意見するなど出来やしないというのに女はピーチクパーチクと、話を止めれば呼吸が止まるのかと聞きたくなるほど話を続けてはポセイドンの膝に頭を置いては彼を見上げる。
「最近できたカフェが美味しいっておすすめしてもらってポセイドンと行きたいなぁって思ったからメモってきたの、それにそのネイリストさんってあたしが結婚してるって聞くとめっちゃ驚いたから、旦那はポセイドンだよ〜って言ったら"またまた〜御冗談が面白い"なんていうの、ヤバくない?ガチなのにね、まじウケる、てか何読んでんの?ちゃお?あっ、ジャンプ?……なわけないかぁ、あたしもさぁ……」
「……」
「てか今日まじウザイやついたんだよね、ネイル終わって機嫌いいのにナンパしてきてさぁ、暇だったらお茶行こって言うから旦那いるから無理っていったら気にしなくていいじゃん。って言われてマジ失礼すぎてウザ過ぎ、ちょうどアレぴ(アレス)いたから"あれうちの旦那"って言ったらアレぴが焦って"冗談でもやめて?ポセイドン様に殺される"っていうの、面白すぎでしょ」
「……」
「そんでもって帰ってたらちょうど福引きやっててさ、お買い物ついでに参加券貰ったからしてみたら温泉券貰ったんだけど、ポセイドンって暑いの苦手だから、それよりお米欲しいっていったら交換してくれたの、がち感謝」
「ルナリア」
「なぁに?」
「うるさい」
………
…………
……………
「でさぁ!」
新兵は転けた。
歩いていた訳でもなくその場ですっ転んだ。
あの女は一体どれくらい話すのか、そもそもうるさいと言われてなぜ話ができるのか、その舌は止まることを知らないのか、というよりもポセイドンともあろう方になんたることをし続けているのかと、見ているだけで胃に穴が開きそうだと思う頃、彼女は突如顔を上げて時計を見るなり「え!やばっ」と声を出して立ち上がる。
膝の上に置いていたエコバッグを片手に持つなり「ご飯作ってくる!今日ポセイドンの好きなシーフードシチューパイだから楽しみにしててねぇ」といってニコニコ笑いながら駆け足で出ていってしまうのを見届けた新兵はもう一度玉座を見た。
また広間は途端に静まり返っていて、玉座に腰掛ける王は静かに本を読んでいた。
その佇まいには無意識に膝を折ってしまいそうな程に完璧な姿であり、目の前を通るだけで彼は喉が乾いてしまいそうなほど緊張してしまう。
誰とも目を合わせることのない、深淵のような瞳を持つ海の王・ポセイドン。
それに対してあの女は一体全体どういう立場なのか、侍者にしてはあまりにも馴れ馴れしいが身内にしては見たこともルナリアという名前も聞いたことは無い。
あの身なりや態度からしてみると若い女神なのかもしれないが、そうなるとますます身分が違いすぎて何故そんな者があの王に?と疑問を抱きつつも静まった広間では下手に声は出せない。
それからしばらくすると城内の食堂から食欲を誘う香りが漂っていた。
シチューの香りからして、先程の彼女が言っていた通りらしく、思わず腹の音がなってしまいそうだと思っていると、パタン──と音がした。
何事かと視線を向けると玉座にいたポセイドンが読んでいた本を閉じて、立ち上がると歩き出す。兵はすぐに背を正して目の前を通り過ぎる王に心臓が脈打つ。目の前を通るだけでこの緊張感、肌がビリビリと張り裂けそうなのにあの女は恐ろしくないのだろうかと感じつつ背中を見届けていれば何か鼻歌が聞こえた。
それはどうやら背を向けた海の王、自らの鼻歌のようであり、新兵は見えなくなるところまで見送ると「はぁーーーッッ」と呼吸した。
呼吸ひとつ忘れてしまいそうになるほどの緊張感があるが、それも次第に慣れると他の先輩兵たちは笑って告げていた。しかし今日に限ってはそんな問題じゃないだろうと新兵は疲れた顔をして「あの女、何者なんですか」と思わずそばに居た、ほかの兵士に問いかけると「あの女……って、ポセイドン様の前でそれ言ったら殺されるぞ」と苦い顔をされてしまい首を傾げる。
「あの方はポセイドン様の奥様だ……」
「おく、さま……?」
「そうだ、海の処女神で若いが最近ご結婚なされてな」
それはもうギリシャ神勢揃いの派手な式で大変だったのに知らないのかと言われた新兵はそんな話聞いたこともないと思った。
確かに数百年前に風の噂で聞いたような気もしなくは無いが、あの王の中の王である海の神ポセイドンが有り得ないと一般神たちは話を流していたが、どうやら事実であるようで「まぁ俺もびっくりしたよ」と呟いたが、その遠い目からしてどうやら冗談ではないらしく、新兵は顎が外れそうな程に口を開けた。
あの、長い髪の毛を巻いた女が。
あの、人のことを刺し貫きそうな爪をした女が。
あの、派手なメイクをした女が。
あの、露出の高い現代人のような服を着た女が。
「ポセイドン様の奥様ぁ!?」
「だからお前も気をつけろよ、あの方になにかあったら左遷どころじゃねぇから」
実際それで物理的な"クビ"を食らってる人もいるんだからという言葉に新兵は冷や汗をダラダラと流し、自分の行いは?と聞くように眺めると先輩の兵は哀れむような目を向けるだけだった。
◇◆◇
広い食堂には長テーブルが一つと椅子がいくつも並べてある。
本来は両端となる場所に座るはずが、ポセイドンの隣で彼女は黒いフリルがふんだんにあしらわれたピンクのヒョウ柄のエプロンを身に付けて、嬉しそうに「今日は人類の方までお買い物行ってきてね、そっちの市場の方が安くて美味しいものめっちゃあるんだけど」と話をしながら丁寧な手つきで料理を並べる。
フルコースといってもいい程の料理の数々にポセイドンは表情を動かさずに黙って座っていた。
メインのシチューパイに焼きたてで買ってきたバゲット。畑から直接買ってきた新鮮な野菜のサラダに、昨晩から仕込んでいたローストビーフ。アラカルトも並べ立てられると広い食卓の二人だけが利用する一角はホームパーティの如く華やかであり。
彼女は最後に傍に控えていた従者のプロテウスからワインを受け取ると嬉しそうに彼のグラスに注いで、自分にはぶどうジュースを注いだ。アルコールにはとことん弱いのだが雰囲気は大切にしたかった。
「今日のローストビーフめっちゃ仕込み頑張ったの、シチューパイはこの間気に入ってくれてたみたいだし再挑戦でね、中身はシーフードとマッシュルームたっぷりにしてみた。メイドのみんなも美味しいよって言ってくれてたし多分大丈夫。それにサラダはね」
「……」
「美味しい?よかったぁ、マジめっちゃドキドキする、食後はティラミス作ってみたの、こないだヘルぴ(ヘルメス)がこのレシピ良かったよ〜って送ってくれたんだけど、これがマジでちょ〜簡単でね。味見してたら美味しくって近くの兵士の人と食べちゃって…あっこれ内緒にしよっていってたんだ、マジごめん、でもポセイドンの分はちゃんとあるから、てかコストコばりに使ったからね」
「………」
「てかさぁ、最近人類の方の街行くとまじ楽しいの、あっちの料理マジ面白くって、この間チーズフォンデュってやつ見たんだけど、あれ絶対面白そうだしお城のみんなでやったら絶対最高だと思うんだよね、でもそういうの好きじゃないし、あたしら二人でやるなら小さい壺みたいなやつ買ってさぁやるといいと思うんだよね」
食堂には一人しかいないのかと言うほど彼女だけが話していた。
無言で食事を摂るポセイドンに彼女は気にせず料理をよそって、酒を注いで、一人で話していることも感じさせないほどに楽しそうにしている。
食堂の壁に立っていた従者達は穏やかな顔をして、ただ二人を眺めており。誰一人その女が騒がしいと思うようなことはない。反対にまるで子供を眺めるような優しい眼差しを向けるのだが、ポセイドンは変わらず無言のまま、テーブルの上の料理を全て食べきっては、話すことに夢中であった彼女が食事を食べ終えるまでは席についていた。
「ご馳走様でした」
そう告げる彼女の言葉を聞いたポセイドンは席を離れてどこかに行ってしまい。
彼女はメイド達が配膳台を持ってきてくれると、そこに皿を置いてみんなで一斉に片付けを始める。
「ねぇねぇ今日のご飯美味しかったかな?あの感じマジ分かんなくて不安なんだけど、食べてくれてたってことはそーいう感じで受け止めちゃっていい感じ?」
「勿論でございます、奥様のお料理はどれもとても美味しゅうございましたので、私共も奪い合いでございました」
「えー?だからみんな顔に痣出来たりしてんの?ウケる、また明日もみんなの作っちゃお〜っと」
ワイワイと楽しそうに話をしているのを出ていった筈のポセイドンは見届けてはいつも通りのルーティンのように風呂へ行ってしまう。
その間も広い城の中では楽しそうな彼女の笑い声がして、湯船に浸かるポセイドンは目を閉じて、露天風呂ともなったその場所で星空を眺めながらゆっくりと過ごし、一通りのことを済ませると寝室で本を読んだ。
夜分遅くになる頃、寝室のドアが開くとモコモコのショートパンツタイプのパジャマを着た彼女がパジャマとセットのヘアバンダナをつけて部屋へ来ると、窓際の大きなドレッサーから次々とボディケア用の用品を取り出してぺたぺたと塗りたくる。
この時間の彼女はとても静かで真剣に鏡と睨み合う。
何十分も丁寧にケアをして、広い天蓋の付いたベッドの中で本を読むポセイドンはそれらも気にせず頁をめくり続ける間、彼女はタブレットでなにかの動画を流しながらストレッチをしては「やばー」と声を漏らしつつ、一通り終えると立ち上がりノロノロとベッドへと入ってきてはベッドの中で本を読むポセイドンにベッタリとくっついて横になる。
「今日のネイルまじかわいい、絶対これポセイドンも好きな感じだとおもう、この人差し指のところ貝殻になってて、こっちの薬指はフリルみたいにしてもらってて、しばらくクール系だったり、カワイイ系にしてもらったんだけど、結構ポセイドンが好きそうだなぁって思ったんだよね」
「……」
「新しいカフェ、ガチで二人で行きたいんだけど?嫌だったりする?いやまぁ友達と行ったらいいけど、あぁいうのって好きな人と行きたいじゃん?なんていうかデートっていうの?」
「……」
「てかハデスが今度お茶でも飲みにこいって連絡くれたの、前お菓子送ったからそれのお礼にいいお茶飲ませてやる〜って、なんかベルゼぴも飲も〜って声掛けたら「いや僕は」とかいうから、ベルゼぴ参加しないならいかんっていったんだよねぇ」
「……」
「そんでねぇ……って眠くなってきたかも、まだ起きてる?本読んでるもんね、あたしそろぼち寝よっかな、ねぇぎゅーってしてていい?てかなんもいわないしするね」
「めっちゃいい匂いするぅ」と呟きながらポセイドンの腰に顔を埋める彼女が次第に静かになっていく頃、ポセイドンは本を読みきっては閉じてしまう。
外の月明かりはとても眩く今晩は満月らしかった。
ポセイドンは枕元に本を置いて、自分の腰に抱きつく妻である女を見下ろした。騒がしくしていた彼女も夜になると素直に眠気に誘われて静まっていき、メイクをしていた顔立ちは落とすと幼いものだが彼女はそれを案外恥ずかしがって嫌うのを知っている。
「……ねる?」
「あぁ」
重たそうに瞼をあげる彼女にそう返事をすると腕を離されて楽な体勢になるポセイドンはしばらく彼女を眺めていたが、部屋の中には小さな寝息だけが聞こえる。
寝室の入口には灯りを消すためにやってきたプロテウスが待機しており、ポセイドンは静かに、そして彼にしてはとても珍しく饒舌に声を出す。
「ハデスへ茶会の返事を出せ、それとこやつの言っていたカフェの営業日と時間を調べろ、今日街で声をかけた不届き者もだ、チーズフォンデュとやらに必要な器材があれば用意するように」
「は、承知致しました」
「下がれ」
おやすみなさいませ。
そういって灯りを消したプロテウスは部屋を離れ。
静かな寝室には二人だけとなる。
騒がしくてたまらないのに心地よいと思ってしまう。
初めて出会った頃の彼女には微塵も思えなかったことだがポセイドンは素直に愛おしいと思えて彼女の髪を撫でた。
「騒がしい奴だな、余の妻は」
そういった海王の声はどこまでも優しく穏やか夜の海のような声であった。
また朝になれば太陽のように眩い笑顔と声を聞くことになるのだと思いながら優しくその腕に抱きしめる彼は言葉にせずとも、海のように深く妻である彼女を愛しているのであった。
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