天界──そこは死んだ魂が還る場所。
神々が管理し穏やかで美しく争いもなく幸せだけが存在するはずの世界。
そして正反対を往く場所。
冥界──そこは暗く悲しく魔の者が暮らす場所。
人が落ちるはずのない魂の場所には身の毛もよだつような恐ろしいものが潜み、神々でさえも恐れてしまうその世界を支配する王が一人、優雅に紅い雫を飲んでいた。
暗い城の中でその王─神─は玉座に腰掛け、チェスの駒を進める。
白い騎士(ナイト)は次々と黒のボーンやナイトを蹴落としていく。
迫り来る黒の駒を華麗に避ける、時に相手を飛び越えて、時に相手の攻撃を可憐に流し、そして着実にキングへと向かおうとする真っ直ぐな姿。
「いい動きだ」
右目にベネチアンマスクのようなものを掛けた白銀の王が広い部屋で呟いた時、音を立てて廊下から一人の兵が飛び込むなり蒼白の顔をさせて膝をつきながら声を上げた。
「天界より来た人間が城の中へ来ました!!さらにその人間は神器を持っている様子で……」
「そうか、構わん」
「かっ、構わんとは」
「ここまで来られるかは知らんが面白そうなやつでは無いか、白百合の騎士……うむ、是非この部屋まで来られるものなら来させるがいい。だが手は抜いてやるな」
抜きたくても抜けないだろうがな、と小さく微笑む王は自身の城が攻撃されていると知りながらもまるで他人事のような、余裕綽々の態度で駒を進めると城の入口では大きな音が聞こえた。
彼は脚を組みながらまたチェスの駒を進める、あと数十分も経たぬうちに現れるであろうその存在を彼は心から歓迎する。
冥界の王として……。
薄暗い死を感じさせる冷たい冥界の城の中、一人の純白の騎士が突き進む。ただ職務を全うする為に立ち向かう兵たちを押し退けて、その剣を振るう騎士は苦い顔をしながらも突き進んだ。
一体何人を相手にしたことかと思う頃、ようやく静まった城の中で小さく息を吐いて自分の左手を見つめると薬指には銀色の細い指輪が節くれだった指にはめられており、騎士は祈るように唇を重ねては最後の扉となるその場所を開いた。
重たい扉はギィ…と重たい音を奏でた。
薄暗く死の香りを纏ったその部屋の最奥には玉座に座る一人の男、顔の左上には月光樹の刺青が入っており、まるで月のような白銀の撫で付けられた髪や長い足に白いコートを身にまとった姿はその暗い部屋の中で驚くほど神秘的に輝いていた。
「貴様が……冥王・ハデスか」
「今日は客人を招いていなかったのだがな」
見た目に反した少年の様な声をした純白の甲冑を纏いし騎士はそのマントに微かな汚れを残しながらも息を乱して部屋の中心へと進んだ。
まるで聖騎士のようないで立ちの騎士はハデスを睨みつけた。
鋭いその瞳の中に宿りし光は冥界には存在しない太陽にも劣らぬ光であり、ハデスは希望を持ちながら冥界に来る者もまた珍しいと思った。冥界へ態々足を運んだ騎士は魂からして"人"である。
神々でさえ恐れる冥界へと足を踏み込んだ騎士は戻れぬことを理解してもなお、ここに来る理由があった。
自身が手に携えた剣を目の前のハデスに突きつけた騎士は声をあげる姿をみるのは実に数百万ぶりに感じる彼は玉座に腰掛けたまま騎士を見つめた。
「招かれずともここへ来るのは当然だ!僕は妻を取り返しに来たんだ!返してもらおう冥王よ!」
「妻を……か」
「そうだ、僕の名はカスティナ!妻が冥界へ連れられたと聞き取り戻しに来た、今すぐ返してもらうぞ!!」
「女の身で騎士を名乗り、あまつさえ余に剣を向ける姿、実に興味深い……しかし余はお前の妻を知ることはない」
生憎と人間は滅多に来ない、誰かに攫われたり裁かれたり逃げ出してこない限り通常天界と冥界を繋ぐ虹と闇の門─ビフレスト─は開くことはない。特殊な門を開けるのは主神級のみ。
騎士は自身の妻が行方不明となり、懸命に探した結果冥界へいると話を聞き来たが、目の前のハデスはまるで子供の話を聞くような態度であり、騎士の目的よりもその姿に興味惹かれた。
女でありながらも騎士として立つその者。
自分を討つ為に来る者は久方ぶりで招かれざるその客人を彼は歓迎した。
剣を向ける騎士の鋭い眼差しは変わることがない時、ハデスはチェスの盤をみると、気付けばナイトの先にはキングがいる。届きそうで届かないその駒にハデスは傍に置いてある神槍バイデントに目をやった。
「武器を取れ冥王よ、貴様がどう思おうが僕は貴様を倒し、妻を連れ戻す!!」
「フッ……良い瞳だ、受けて立とう騎士カスティナよ!」
覚悟を決めた騎士にハデスが人間相手にバイデントを手に取る時、騎士の剣が強く光った。それは天界にて女神達から授けられた神器であり、加護を受けた剣は騎士を更なる崇高なる者へと高め、ハデスはその魂を好ましく思い槍を振るった。
◇◆◇
「ぐっ……ぅ……」
「人間にしては素晴らしかったぞ、いい汗をかいた」
「……っ、殺せ」
地面に伏せた騎士を見つめるハデスはまるでストレッチを終えたかのように薄い汗をかいているのみだったが、騎士は立つこともままならずにいる。
しかしその瞳にはまだ希望の光を宿しており。騎士としてのプライドをどれだけの敗北を得たとしても忘れずに抱いていた。
高貴な者だとハデスは素直な評価をした。
何度地面に伏しても立ち上がり、その瞳に希望の炎を宿し、吐血をしても、鎧が壊れても立ち向かうその姿は完璧なまでの騎士である。
女の身でありながら騎士をする彼女の魂は冥界では珍しい程の美しさと強い輝きを放っており、ハデスは死を覚悟する彼女を見下ろしてはバイデントを下ろすと彼女は眉間に皺を寄せて睨みつけた。
騎士としての誇りが許さないのだろうが、ハデスは無意味な殺生を望まない。かつて死を望み自分の元へやってきた不器用な蝿の王のように、この騎士が面白く、そして何よりも彼の心を強く掴んだ。
「白百合の騎士カスティナよ、お前は負けたのだ……その身を余に委ねよ」
「なっ!!断る!!僕は妻を探しに来たんだ!貴様のような王に仕えるつもりはないぞ!!」
「仕える?……違う、お前は余の"妻"としてだ」
「騎士を侮辱する気か!なんたる神だ……っく」
「勿論、直ぐにとは言わない……お前を堕としてやろう」
必ず……とハデスは片膝を着いて地面に倒れ込む騎士の髪を掴んで目を見た。
他人、しかもただの人間を欲しいと思ってしまうのは初めてのことだがハデスは自分の中で求めてしまうのは無理ないだろうと納得した。ハデスに見つめられてもなお誇りを消さない光を宿した騎士は神器の影響か痛みが全身を駆け巡ると声も出せずに気を失った。
鎧を身にまとった彼女をその手に抱いたハデスは小さく笑みを浮かべていれば、入口から黒いカソックを纏った薄暗い男、蝿の王ベルゼブブがいた。
「ハデスさん、この人間を飼うんですか」
「ああこの者の魂を気に入った、妻にしたい、深手を負わせたから見てやってくれ」
「構いませんがあなたは本当に面倒なやつが好きですね」
彼女を抱き上げたハデスはその手の中の女をベルゼブブに手渡すと彼はハデスが望む相手だと理解するように丁寧に受け取っては、どこか呆れたような顔をして見つめる。
ハデスは目を丸くしたあと小さく笑った、確かに世話の焼ける者は好ましいと思った。自分の弟たちや死にたがりの蝿の王、そしてあの腕の中の純白の騎士もきっと相当世話の焼ける者だろうなと思いつつ、早く目覚めまた話がしたいと思いつつ、彼女の言っていた"妻"について調べてやろうと彼は執務室へと足を向けた。
「……にしても、人間の割にやるな」
横腹を軽く斬られてしまったハデスはやはりいい騎士─オンナ─だと思いながら苦笑いをして横腹を摩り、普段のような態度をしてみせるが、城の中はほとんど機能していなかったことに人間であっても恐ろしいと思いつつ小さな笑みを浮かべるのだった。