その者は全てから恐れられる魔の者であった。
名を呼ぶことさえ危険だと思われるようなその神はただ静かにその場所に佇み待っていた。
いつか自分をこの世界から消してくれる存在を。
醜く苦しく醜悪な死を与えてくれる者を。
薄暗い冥界にある冥王ハデスの居城の最深部に続く廊下はとても冷たく静かで歩くものの足を竦めさせるような恐ろしさを感じさせた。冥界の冷たい風が廊下を駆け抜ける時、一人のメイドはロウソクを片手にその廊下を迷いなく歩いていた。
まるで人形のような女の足音だけが小さく廊下に残りつつも城の奥へと足が進められていくのみで、誰も彼女とすれ違うこともなく、ようやく辿り着いた部屋の前には立入禁止の文字が書かれていたが彼女は気にすることなく自動ドアとなったそこが開くと迷いなく入室した。
薄暗く広い部屋の中にはいくつもの培養ポッドが並んであり、その中には大小様々な怪物のような存在が育てられてあり、培養ポッドにはそれぞれ様々な文字や数字が書かれているが彼女はどれにも見向きもせず、長いエプロンスカートを揺らしながら部屋の最奥へと向かうとそこにはモニターの前で眠る存在が一つ。
彼女は手にしていたロウソクの小さな台を壁掛けの燭台に掛けるといくつものモニターが並んだ机に突っ伏して眠ってしまっている男を眺めた。男と呼ぶには少し若々しく幼くも見えなくはない相手であるが、彼はその目の下に深く黒い隈をつけて、唇は少しばかり乾燥しているのが見える。目元を隠すように長い前髪の隙間から覗く目元や肌をみては彼女は静かに彼のそばに落ちてある紙を拾ってはまとめていき部屋の中の片付けを進めた。
小さな物音にゆっくりと目を開いた彼は研究室の中で静かに片付けをする一人のメイドの姿をみて、僅かばかりの身動ぎをすれば掃除をしていたメイドの視線が置きたばかりの彼——ベルゼブブに向けられた。
「おはようございます、ベルゼブブ様。時刻は午前八時でございます。朝食を召し上がられますか?もう一度寝られるようでしたらベッドメイクは完了しております」
「おはようバーモット、先にコーヒーが欲しい」
「承知致しました」
ベルゼブブが机で突っ伏していた身体を起こして小さく伸びをすれば彼女は直ぐに掃除の手を止めて、ベルゼブブにコーヒーの入った彼の愛用するマグカップを差し出した。
ミルクを少々、砂糖を二つ、これは本来ベルゼブブの好みではなかった味だったが今ではこれが普通のものとなってしまい、彼は静かに受け取ると一口飲んでは朝五時まで研究に費やした上で少し研究の測定結果を待っていた間に眠ってしまったのだと気付いて直ぐに確認する間にテーブルの上には焼き立てのベーグルとサラダとフルーツの並んだプレートが置かれ、ベルゼブブはそれを置いた張本人をみるが彼女は何も言わずにベルゼブブが次に求めていた資料を置いてまた静かに仕事に戻ってしまう。
「朝から多いな」
そういいながらも出されたものを胃の中に入れていくベルゼブブは睡眠と食事で活性化する脳を感じながら研究へと戻るがその間も彼女はまるでいるのかもわからぬように静かに研究室の中で仕事をこなし、一通り終えればベルゼブブの側にやってくる。
「それでは午前の職務を終えましたので本日は一度戻ります。昼食は冷蔵庫に用意しておりますのでお召し上がりくださいませ。他になにかご要件は」
「いや、なにもないよ」
「承知致しました」
まるで機械のような彼女の言葉にベルゼブブは感謝しつつも目の前の研究に夢中でいれば去らない彼女に珍しいと感じて「どうしたんだい」と顔を仕方なく向けると彼女は少し悩んだような沈黙をしたあと、自分のエプロンのポケットの中から一本のリップクリームを取り出した。
「ハチミツのリップクリームでございます。随分と乾燥しているようでしたので...湿度を上げておりますが乾燥は肌によくありませんのでお気をつけくださいませ」
彼女はそういってベルゼブブの頬に手を添えると当たり前のようにリップクリームを塗ったあと颯爽と去っていくのを見届けたベルゼブブは固まったあと小さく耳の先を赤くさせて顔を伏せた。心臓が嫌というほど騒がしく音を立てており彼はそれを誤魔化すように手元のマグカップの中のコーヒーを飲んでみたがそれはミルク少々と砂糖二つという彼女の甘さを表すような味であり、ベルゼブブの甘さを誤魔化すには失敗であった。
広い廊下に出た彼女は表情を崩さぬまま手の中の細いリップクリームを見つめた。
寝ていたときから乾燥していた彼の唇は食事をとっても少しだけ荒れたままであるため気になって手を出してしまったものの自分の私物であり、普段使いするものでなんてことをしてしまったのだろうと思いつつも静かに眺めた。
そして彼女は誰もいない静かな暗い廊下でリップクリームの蓋を開けると自分の唇にそれを重ねた。
心臓は騒がしいほどに音を立てる時、彼女はすぐに蓋を締め直して逃げるように足音を立てて来た道を戻っていくのだった。
◇◆◇
それは少し前のこと……。
ベルゼブブに仕えるメイド——バーモットは元々ハデスに仕えるメイドの一人であった。
冥界へ落ちてきたベルゼブブが死を望み、ハデスに挑んだ末に冥界で自分が死ぬための術を探すことになり、かの世話焼きの王はベルゼブブを自身の目に入る範囲に招くようになったのは必然に似たものであるが、いかんせんあの死にたがりにハデスは困らされていた。
冥王ハデスの従者たちでさえ、あの噂の蠅の王に怯えてしまい、軽く食事を持っていくだけで震えて嫌がる始末。その上、人嫌いで孤独を好むベルゼブブにとってはハデスの従者たちは全て迷惑な存在であるとしてしまい、自身の研究室に入ってくるなり「邪魔だ」「消えてくれ」という始末でますますベルゼブブは孤立するが、孤立するだけならまだしも彼は研究に没頭して倒れることも少なくなかった。
「というわけだバーモット、お前にあの手のかかる男の世話を頼みたい」
「ベルゼブブ様...でございますね、ハデス様のご命令でございましたら是非お受けいたしますが、しかしあの方は受け入れないのではないでしょうか」
ハデスの執務室にて彼はチェスをしながら側に控えるメイドの一人であるバーモットにその件を相談すれば彼女は二つ返事の了承をするものの、既に彼の話を聞いている上にその彼のことを詳しく知るはずのハデスの言葉に自分ではだめではないのだろうかと思いつつ黒の駒を進めた。
「いや、お前ほどの適任者はいないはずだ、それに余の見立てではお前たちは相性がいい」
「...相性ですか」
「死を望む者に生を求める者、口数も少なく静寂を好むのであるからな」
「ハデス様が仰るのでしたら承知致しました...チェックメイトです」
「ム...相変わらずの腕だな」
黒の駒が王を刈り取ればハデスは目を丸くしつつもそういうことだ...といって彼女にベルゼブブの世話を頼むことにしたのだった。
その話を受けた翌日の朝より彼女はベルゼブブ用に用意した朝食を片手に城の最深部となるベルゼブブの研究室へと足を運んだ。人通りのないその場所には兵が念の為に配置されているもののバーモットをみるなり驚いた顔をするが彼女が「ベルゼブブ様のお世話を仰せつかりました」と刻々と告げれば兵は彼女の理由も気にせずに背を正しては道を開けた。
広い廊下はとても静かで彼女のパンプスの音が小さく響く。まるで孤独な闇のような道を進んでいく彼女はようやく見えた広いドアの前に立つと自動ドアとなったそれが開き、彼女はまっすぐと中に入ると部屋の中は既に不気味なものばかりが並んでいたが彼女は部屋の奥に進むと一人の研究者が既になにかにのめり込んでいる様子であった。
「おはようございますベルゼブブ様、私はハデス様に貴方様に仕えるように命じられましたメイドのバーモットでございます」
「...」
「朝食をお持ち致しました、こちらで召し上がられますか?それとも私室にお運びしたほうがよろしいでしょうか」
「僕はそんなもの頼んでいない、帰ってくれ」
バーモットは丁寧に挨拶をしたもののベルゼブブは視線一つを彼女に向けることはなく、まるで壁に話しかけるような態度で彼女を帰るように告げるが彼女は周囲を見渡しては近くでいくつもの紙や実験器具が巻き散らかされたテーブルに近付いて、その上を遠慮なく片付けていく。
「おい、勝手に触らないでくれ、僕のものだ」
「朝食が置けませんので。書類整理でございましたらお任せください、ハデス様の侍女でございましたので慣れております」
「あっ!おい!人の話を...」
ベルゼブブは視線一つ向けないつもりであったが自身のテリトリーに勝手に手を入れる彼女に耐えきれずに視線をやっては手元の試験管を戻すなり彼女のそばに寄ると紙を全て束にして抱えた彼女に注意をしようとするが、彼女はまるでベルゼブブのことも気にせずに実験器具をあるべき場所に片付け、紙の束を分けていく姿はこの部屋に来たばかりでありながらも手慣れた様子で、冥王の隣にいたというだけの腕はあるのが伺えるが自分のものを勝手に触られては困るんだとベルゼブブは彼女の手首を掴んで止めてみると、彼女の瞳がベルゼブブを捉えたが互いの瞳はまるで闇と光のように対照的でありながらもその奥には何も宿していないのが見えた。
「朝食をお食べください。それと...少し匂います」
「なっっ!」
「好き嫌いはお伺いしておりませんのでバランス重視のメニューにしております。お食べいただいている間に湯船のご用意をしてまいります。そのお顔では寝不足が見受けられますので終えましたらおやすみください」
「だから僕にはそんなものは不要で...っ」
「城で採れた新鮮な無花果でございます、是非お召し上がりを」
そういった彼女はいつの間にか片付いたテーブルの上にテーブルクロスを敷いてその上に豪華な朝食を並べて紅茶を淹れるとベルゼブブが目を丸くしている間に椅子が引かれてしまう。
数日間まともに寝ず食べずで過ごしてきたベルゼブブにはそれは十分魅力ある朝食であり、口の中に広がる無花果の味に負けて彼は「全く...朝食だけだ」とうんざりと呟いて席に座ると出された朝食を食べる間に彼女は研究室を去っていくが、ベルゼブブは少しだけ自身のシャツに鼻をならすと汗と体臭を含んだシャツは僅かに嫌な匂いをしており、朝食が終わると同時に「お風呂のご準備が出来ております」といって隣のベルゼブブの私室から戻ってきた彼女に彼はまるでされるがままに面倒を焼かれた。
「髪を乾かしてくださいませ」
「もう十分、キミに付き合ったはずだ、僕のやるべきことに戻る」
「私はお伝えしました、湯船で休まれた後はご就寝をと」
「僕はキミの人形じゃない、お断りだ...ってなんだ?!」
「風邪を引かれては我が主にご迷惑をおかけいたしますので」
研究室のすぐ隣となるベルゼブブの私室にて湯船でじっくりと温もったベルゼブブの肌は白いが先程よりも血色はよかった。濡れた癖のある黒髪は濡れたままであり二人は攻防を繰り返すがバーモットが彼の手首を掴み無理やりベッドに連れていき、彼を座らせるなり髪を乾かし始め、ベルゼブブはここまで他人に世話を焼かれることが初めてであり戸惑うものの彼女は何も気にせずにただハデスからの命令だからと彼の髪を丁寧にブラシで梳かしながら乾かしてやる内にベルゼブブは数日間ろくに眠れていなかったことからその心地よさに眠気に誘われてしまう。
綺麗に彼の髪が乾く頃にはすっかりと彼の髪はふわふわと心地よい手触りとなり、ベルゼブブは研究に戻ろうとするが先程彼の手首を掴んだその細いメイドの手はどこからそんな力があるのかと聞きたくなるような力で彼を優しく広いベッドに押し倒してはシーツを上に掛けてやる。
腹を膨らませてすっかりと身体に熱が溜まって心地よい眠気に誘われてしまうベルゼブブは瞼が自然と落ちてしまう時、その機械のように無表情なメイドをみつめた。
「キミは...僕が怖くないのか」
天界にいても冥界にいても、例えハデスに招かれたとして、彼は自分に怯える者たちをみてきた。それは正しい反応であり。それでいいとされてきたが目の前の表情を一ミリ足りとも変えないメイドにそう問いかけると彼女は淡々とした機械のような抑揚のない声で答える。
「はい、あなた様は私が仕える方ですから」
そこに彼女の感情など感じられないはずなのにベルゼブブは心地よいと感じながら久方ぶりに瞼を閉じてゆっくりと夢の世界に誘われた。眠る度に嫌な夢をみるためあまり好まなかった彼はその時だけは何も見ることはなく心地よいベッドの中で泥のように眠り続けた。
次に目覚めた時、ベルゼブブの傍には彼女はおらずに帰ったのかと安心して研究室に戻るなりベルゼブブは目を丸くした。
それは一人であった故に片付いていなかった研究室がまるで新品の部屋のように片付けられており、実験器具はもちろん、部屋の中にいくつもある培養ポッドも反射するほどに磨かれてあり、眠る前にいたはずのメイドは棚に何かを戻していた。
「なにをしてるんだ」
「おはようございますベルゼブブ様、整理整頓をしておりました、置いてありました紙の資料は全て内容ごとにお分けしております。わかりにくいかとおもわれますが全てテプラやインデックスを貼っておりますので大丈夫かと」
「僕が寝てる間、ずっとここの整理を?」
「はい、八時間ほどお眠りでございましたので」
八時間!?とベルゼブブは驚いてしまう。
普段はショートスリーパーである彼にとって長時間睡眠は無駄であるというのにと嘆いてしまうが、目の前の彼女は「よくお眠りできたようでなによりです」と平然とした態度であることにベルゼブブブはすっかりと乱されてしまい怒る気も失せてしまうが彼女は一通りは終わったため、次は私室の掃除をしたいというがベルゼブブは眉間にシワを寄せて勝手に向かおうとする彼女をまた掴んだ。
「僕には不要だと言ったはずだ、帰ってくれ、いや帰れ」
「承知致しました」
ようやくかと安堵するベルゼブブに彼女はエプロンを軽く整えて荷物を持っては部屋を出る前に研究に戻るベルゼブブが聞いているかとどうかも気にせずに言った。
「いつお目覚めになるかわかりかねましたので軽食と夕食をご用意しております。お時間になったらお召し上がりください。ではまた明日参りますので失礼いたします」
そういってパンプスのヒールが音を立てて出ていくのを聞いたベルゼブブは深い溜息をついて、他人がいるというのは気を使うばかりで嫌になると思っていた頃、ふと手を止める。
「...明日?」
それがベルゼブブとバーモットの出会いであった。
それからバーモットはハデスに命じられたからと毎日熱心にベルゼブブのもとに通った。
ベルゼブブがどれだけ拒絶しようが「ご命令ですので」の一点張りで引くことはなく、ベルゼブブはなんとも苦しい生活を強いられることとなり困らされていた。
「ですから彼女をどうにかしてください」
「久しぶりに顔を見せたかと思えばそんな事を言いに来たのか」
「そんなことじゃありませんよ、彼女のせいで僕の生活はめちゃくちゃだ」
朝八時には必ず朝食、そこから昼間で私室や研究室の掃除、十二時には昼食、そのあとはまた掃除(ベルゼブブの使った実験器具を直ぐに洗って次使えるようにしてくれたり)、十五時には休憩と称して茶菓子を味わい、十八時までは一度席を外すが戻り次第夕食、その後二十一時には研究室から私室に連れられて風呂に入れられた上に髪を乾かされ気づけば寝かされている。
「...余よりも健康的だな、羨ましい整った生活環境だ。流石我がメイドの管理」
「関心しないでくださいよ、おかげで僕の研究は普段よりもずっと進捗が遅れているんです
、正直迷惑です」
「だがバーモットからの報告ではベルゼブブ、お前の顔色は随分とよくなり、研究室も随分と使いやすくなっているようだが」
「...だとしてもです」
そういって理由を並べるベルゼブブの言葉を聞くハデスからすれば有能なメイドに随分助かったような物言いであり、全く困ったようには聞こえない。反対に彼女がいることにより脳が活性化され以前よりも随分と上手く研究が進んでいる様子であるようにも感じられるほどである。
「それに彼女は距離感が無駄に近いんですよ」
「...ほぉ、なにがよくない」
「振り返ったらすぐ後ろにいることが多いですし、それでぶつかったりとか、あんな細い身体とぶつかれば倒してしまうこともあるから、毎度支えるのだって大変で」
「支えてやってるのか」
なるほどと淹れたての紅茶を飲みながら機嫌良さそうに聞くハデスはすっかり惚気を聞かされたような顔をしているが、ベルゼブブは本気で困っているんだと弁明する。それでなくとも毎夜朝から眠るときまで世話をされてしまえば迷惑であり、自分の生活リズムが...と重なる彼にハデスは口角をあげては目の前の彼に助言した。
「そんなに困るのであれば追い出せばいいだろう、お前が出て行けといえばアレはいうことを聞くはずだ。それとも余のもとに戻れと命じるか?」
「そっそこまではいいんですよ、ただその困ってるだけというか...」
「まぁアレは仕事も出来る上に無駄口もない、さらには容姿端麗だからな、お前が気になるのも無理はない」
「気になるとかじゃありませんよ」
全然そんなことはないと否定するベルゼブブが近くの別のメイドから淹れられたばかりのコーヒーにミルクを少々と砂糖を二粒いれることに以前まではブラックだったはずだろうと思わずハデスは声を掛けるとベルゼブブはバツの悪そうな顔をした。
「彼女が砂糖をいれてくるから慣れてしまったんです」
それはまるで拗ねた子供のような表情でありつつも悪くないという表情で、ベルゼブブはすっかりと彼女に骨抜きにされたのだな...とハデスは声に出して笑えば「本当に困ってるんですから」という言葉をベルゼブブがこぼしたのだった。