砂糖ふたつ




ハデスに派遣されたメイド・バーモットがベルゼブブのもとに来るようになり早一ヶ月以上が経過していた。
ベルゼブブははじめこそ彼女に「帰ったほうがいい」「僕といてもキミのためにはならない」「不幸になりたいのか」と様々な形で彼女に告げていたはずが、当の本人はといえば「ご命令ですので」の一言で全てを終わらせてしまうため、いつからかベルゼブブもそれを言う意味ないとして彼女を受け止めるようになっていた。

実際問題、ベルゼブブは自分の邪魔をしないのであれば何も問題はなく、反対にバーモットが来てくれたことにより研究室や自分の生活が整えられて快適になっているというのは痛感していた。バーモットはベルゼブブ以上に感情が乏しく表情が変わることはなく、彼自身も自分が感情表現豊かではないと理解しているが、それ以上の存在であることに多少なりとも不思議には思いながらもうるさくない存在であるのであれば有り難いことこの上なかった。

ベルゼブブの研究室にはバーモットの前にも幾人のメイドがやってきたが、その全員がベルゼブブに怯えるばかりで慣れていた彼はその態度を取られることにもうんざりしており、自分の世話は自分でできるからと相手を追い出していたが、バーモットの前ではサタンの噂を背負った呪いを持つベルゼブブ——ではなく、彼はただの一人の神(仕えるべき存在)でしかないのだと痛感させられた。
そしてそれはベルゼブブ本人の小さな救いでもあり、だからこそ彼はバーモットの世話焼きを不器用にも受け入れることが出来るのだった。

その日も彼女は朝八時に現れてベルゼブブの私室にて彼に朝食を出してやり、朝からシーツを交換してベッドを整えたり、部屋の掃除して自分の仕事をこなし、ベルゼブブも掃除機がかけられる音などを聞きつつもその騒音にもならない音を聞きつつ自分の研究に没頭していた。
ベルゼブブの研究は常に死ぬことの出来ない自分を殺してくれる存在を作るための実験と研究だった。研究室の中の大半を占める培養ポッドの中には大小様々なモノが存在しており。それはかつて冥界を崩壊させかけた怪物・波旬の残骸であり、それ以外にも冥界には様々な怪物や生物がいるため彼はそれらを自分で培養し、新しい生物を作っていた。
そうした姿も不気味なものであるため、彼が命を助けたハデスの弟アダマスには「気持ちワリィ」と素直にいわれたものの、それを他者に理解される気もないベルゼブブはアダマスに余計なパーツをひっそりと取り付けたのは内緒だ。

そんな中、午後の研究室の掃除をしているバーモットは今日も巨大な培養ポッドを丁寧にタオルで拭いてやっていたが、時折その中身を興味深そうに見ていたため、通り際のベルゼブブはつい「それは冥界最深部にいた怪物の遺伝子と...」と思わず説明してしまうのはベルゼブブがいつも研究の話をしたいと本心で思いながらも相手がいないからと抑えてきた欲望の表れであった。
彼は思わず熱心に説明をてしまうが、久方ぶりに饒舌に話した彼は直ぐに自分がミスを冒したことに気付いてしまう。相手がそんなものに興味がないことは当然であるというのに一度熱をもってしまった彼は思わず熱心に話してしまい。それに対する相手の反応に自分がうんざりしてしまうことなどわかっていたのだ。
黙り込んでしまうベルゼブブは顔を伏せて何もなかったかのように振る舞おうとするが彼女は培養ポッドを見上げながら呟いた。

「ベルゼブブ様は素晴らしいですね。自分のための研究だと仰られながらこんなにも美しいものを作り上げるだなんて」
「...美しくなんてない、そんなのただの怪物だ」
「見た目ではなく、貴方様の情熱に対してでございます」

本当に素晴らしいと呟いて培養ポッドの中身を見つめる彼女の瞳は光に反射して普段の深淵のような瞳とはまた違う輝きを持ち、ベルゼブブはそちらの方が断然綺麗だと感じたが思わず視線を逸らして互いの仕事へと戻ったときだった。
培養ポッドの中身は十分に意思を持ち成長しようとしており、中で成長していたその波旬の残骸にて成長したそれはバーモットに見られていたことに呼応するように目覚めるなり、突如ポッドの内側から突き破り出ては目の前の彼女にその巨大な腕を振ろうとした。

「バーモット!!」

ベルゼブブは思わず彼女の名前を呼ぶなり腕を引いては出てきた実験体を自身の右手を振りかざすなり、悪魔の羽ばたき(バルミュラ)の振動により二つに切り裂いた。
大きな音を立ててガラスが割れて中の培養液が溢れてしまうがベルゼブブはそれ以上に腕の中の彼女のことを気にして慌てて両肩を掴んで声を掛けた。

「すまない僕管理ミスだ。平気か?怪我はしてない...バーモット、その目は」
「...あっ」

驚いたような彼女の表情にベルゼブブは驚いた。
正確に言えば彼女の表情ではなくその瞳だった。
普通の神や人と変わらない瞳をした彼女はまるで山羊のように動向が横長になっており、それはまるで悪魔のようであった。培養液に濡れた彼女の頬が少しだけ赤く染まっていたが、人体に害はないものであるため濡れた身体に気遣いをみせたいと思うベルゼブブはすっかりと彼女のその瞳に心を奪われる間に彼女はベルゼブブの腕から逃れては「申し訳御座いません」といって直ぐに去っていった。

「...あの瞳は」

ベルゼブブは一人残されながらも彼女のあの瞳に心を奪われたまま培養液に濡れた床の上に立ち尽くしていた。

翌日の朝、珍しくバーモットは来られず代わりのメイドが朝食を代わりに持ち込んできたことに若干落胆してしまったベルゼブブは昨日のことも忘れられぬまま過ごせば、十五時のお茶の時間にやってきたバーモットは午前中にはハデスの職務に付き合っていたため来られなかったことを詫びつつベルゼブブにいつも通りミルク少々と砂糖二つのコーヒーを淹れて差し出した。

「あの...ベルゼブブ様、昨日は片付けをせず突然帰ってしまいましたこと申し訳御座いません」
「あぁ別にいいよ、それより怪我はしてないの」
「はい、お守りいただきましたので」

それ以上は何も言わず流れる沈黙に珍しく耐えられない様子だったのはバーモットであった。
これまで平然とした態度で全く動揺や感情を見せてこなかったはずのバーモットがみせる動揺は明らかに昨日のせいであると理解しており、ベルゼブブ自身もその事を気にしており、どうするべきなのかと思う間に彼女が逃げるようにいってしまうのを止めてしまう。

「聞きたいんだけど、昨日のあの目は...どういうことなんだ、キミは何者だ」

ベルゼブブが興味惹かれるのは仕方ないことだ。何故なら冥界には神だけではなく怪物や悪魔など様々な種族が存在しており、その中でもあの瞳を持つ者を彼は知っており。その瞳がただの一般人のものではないことも彼は理解している。
上級神(悪魔)の瞳であると——
そしてベルゼブブにそれを告げられたバーモットは小さく肩を揺らすがそれが明白な答えであるとして、ベルゼブブは隣の椅子を引いては彼女に座るように命じればハデス同様に自分の主人である彼に逆らえずに恐れながらも顔を伏せたが小さく覗く瞳はいつもと変わらないものだった。

「私の父はバフォメットでございます...ご存知でありますか?」
「均衡と狂気、善と悪を司る悪魔か」
「はい、母は普通の人間でございますが、私には父の血が濃く受け継がれております」

悪魔——バフォメット、その存在は冥界に置いても有名なものである。
ベルゼブブも天界にいた頃からその存在は本の伝承などから知っていた。山羊の頭をもつ人型の悪魔とされており、バフォメットはかつて地上界にて悪魔崇拝のシンボルとなり、いまなお地上界では崇拝された神であるとされた。
善と悪の統合・男と女の統合・天と地のバランスなどの対立するものを統合する象徴となる場合もあれば、性を含めた”生命の根源的エネルギー”の象徴として扱われる場合もあり、特に冥界に置いては性豪かつカオスを与える色欲と生命の神(悪魔)として扱われた存在であるとした。

「そのため感情が抑えられなくなるとあのような不気味な瞳となってしまうのです」

普段は感情も無さそうな機械のような態度であるはずの彼女が背を丸くして怯えたような、申し訳なさそうな表情をすることに対してベルゼブブは自分と同じなのだろうと感じた。バフォメットの話は噂だけでもよく聞いた。あの山羊の目に魅入られてしまえばその全てを狂わされてしまいカオスの中に閉じ込められてしまうと、そしてその者の血を継ぐとなれば彼女に向けられる視線は自ずと恐ろしいものへと変わることをベルゼブブは身を持って知っていた。

「気味が悪いですよね」

いつもの声とは違う、自身のなさそうな彼女の声にベルゼブブは自分の過去の痛みを思い出し、彼女の顔を覗き込むようにみつめた。
その顔立ちはやはり悪魔の血を引く故か、否そうではなく彼女の心が美しいからこその顔立ちなのだと理解するベルゼブブはハッキリと告げる。

「バーモット、キミは綺麗だよ」
「...ベルゼブブ様」
「あの瞳を見たときもそう思ってしまったから何も言えなかった、キミが僕の側にいてくれる理由がわかった、同じ痛みを共有しているからだ、とはいえキミはバフォメットという生命を繋ぐ力を継ぐ、僕と正反対の存在だけど」

いまの瞳も、あの瞳も綺麗だ、そういったベルゼブブの瞳に偽りはなく。出会った頃のような濁りある瞳ではなく光を宿した瞳で告げるベルゼブブに彼女は次第に白い頬を赤く染めていくと瞳の形がぐにゃりと鏡の中で歪むように変わってしまい、昨日見た黄金色の山羊の瞳へと変化してしまい、ベルゼブブは研究対象をみるような目つきに変わり彼女の肩を掴んだ。

「ベルゼブブ様、いまはその」
「見せてくれ、このバフォメットの...いや、キミの瞳を」
「でも、その...あの」
「すごいな、本の通りの瞳だ、みていると狂わされてしまうという意味がわかってしまいそうだ」

じっくりと覗き込むベルゼブブに次第に彼女が戸惑いを覚えて彼女の瞳が困ったように視線を彷徨わせるが視界を埋める彼から逃れることは出来ず、掴まれた肩の腕を退けることも出来ずに入れば彼女の顔がさらに赤くなっていくのがわかる。
そしてベルゼブブは前のめりで彼女を覗き込む中でその距離の近さが軽い衝撃で唇に触れしまうのを感じてしまい、互いの心臓が騒がしく脈打つのがわかった。

「ベルゼ..ブブ様...」

機械的に感情のない彼女の声が水面の上で揺れるように震えた。
ベルゼブブはごくりと唾液を飲みながら彼女の名前を告げようとした時、ドアが開いては「よぉ根暗!」と元気いっぱいのアダマスが入室してきたが、彼は目の前の二人が今にも口付けをしそうな状況であることに目を丸くした後、少しだけ照れたような顔をして「邪魔したよな」とまるで息子の部屋に勝手に入ってしまった母親のような態度で出ていったことにベルゼブブは相当な勘違いをされた上にそれが報告されることを予見して最悪だと思ったが、肩を掴んだままの彼女をみれば彼女は彼女で目を瞑って顔を赤くさせていることにベルゼブブは首が熱くなるのを感じた。

「ごめんバーモット、少し好奇心が過ぎたみたいだ」
「...そ、そうですか」

気まずい沈黙の末に二人は静かに離れては何事もなかったように振る舞いつつも、ベルゼブブはその日一日苦しむ羽目となったものの彼女を知れたことはどこか嬉しく感じた。
自分と同じ孤独と苦しみを味わったのだろうと思うと彼女が自分と同じ安心感を抱いているのだろうか、強大な力を持つ上位悪魔を父に持った彼女はきっと親の愛も知らず、大切な人々に傷ついてきたのだろうとベルゼブブは思った。

「いや?バーモットは相当溺愛されて育ったぞ」
「え」

それは別の日、ベルゼブブがハデスに会いに行った際に彼女がバフォメットの娘であると知り、バフォメットの強大な血を引く彼女だからこそわざと引き合わせてくれたのだと感じ、ハデスにひっそりと感謝しつつ彼女を連れて報告をするが、ハデスは目を丸くして否定すると控えていたバーモットも「はい、両親には多大な愛を頂きました」といつもと同じ態度で告げたことにベルゼブブは理解できなかった。

「こやつの父、バフォメットと余は古い付き合いでな...それこそあやつが相当遊んでいた頃に余が直々にわからせたものだ」

伝承通り...いや、それ以上にバフォメットはカオスを好む性質であり、人の本性をと称して騎士団を狂わせたことをきっかけに地上界でも大きくその存在がバレてしまい、冥界においては度重なるサバト(という名の欲望パーティー)を開催し、ハデスは困らされたほどであった。
しかしそんなバフォメットはある日地上界で出会った人間の女に一目惚れをしたが自分の能力も無視して懸命に口説き落とし三六五日毎日会いに行っては様々なアプローチの末に根負けした相手と結婚し、一人娘のバーモットを授かった。
バフォメットと妻は何百年何千年立とうと新婚のような熱のまま愛し合い、その深い愛情を一人娘に余すことなく降り注ぎ、それは目に入れても痛くないほどにかわいがった(というか本気で目にいれようとした)

「父の愛は本当に深く壮大なものでございました」
「そうだ、こやつに好きな人が出来たと言われた日にはあの馬鹿山羊はあろうことか冥界を沈めかけたんだ、それも一度や二度ではない」

全く本当に困ったやつなんだというハデスの表情と口ぶりからして事実のようであり、紅茶を新しく淹れるバーモットもあまり変わらない態度であるがどこか申し訳なさそうであった。
ベルゼブブは肩透かしを食らった、何せ自分同様に孤独を生きてきた者だと思っていたからで、そうではない彼女に少しだけ残念な気分になってしまう自分の性格が悪いと感じざるを得ないがどこか安心感も覚えては砂糖の入った紅茶を飲んだ。

そうしてハデスとの話を終えたベルゼブブとバーモットは広い城の中を歩いていれば静かに後ろを付いて歩く彼女は他のメイドとは違う佇まいや雰囲気にやはり家柄なのだろうかと考えると、それなら何故なのかと感じるベルゼブブは彼女に振り向いて「そういえば」と声を掛けた。

「どうしてキミはハデスさんのメイドに?キミの家柄なら上級悪魔(神)の地位をもらえただろう」

あのバフォメットの娘であれば困ることなどなにもないはずだといえば彼女は口を閉ざしたままベルゼブブを置いて歩き出すため、彼はその態度に珍しいと思いつつも彼の研究室に近いため、外で話したくないのだろうと理解して研究室の隣の私室に戻るともう一度問いかけると彼女は顔を俯かせる。
良い家系に、いい両親、愛されて持つべきものを持つ彼女がわざと侍女として働くとすれば何か大きな理由でもあるのだろうと思えば彼女の小さな口が開かれる。

「バフォメットの血をご存知でしょうか」
「...あぁ飲む者を狂わせると」
「はい、私にはその血があります、父は様々異名を持ちますが、一部では我が父は色欲の悪魔のように扱われております」

山羊の頭を持ち、その生殖や生命力の象徴とされる姿、そして山羊という本能の象徴。
山羊とは古来より繁殖力が高く、本能的で野生的、そして悪魔の象徴であるとされ、かつて愛する人にである前のバフォメットはその象徴通りの存在であるとされた。

「そのため、バフォメットの血を引く娘として、そしてこの瞳を持つ不気味な存在として、私は忌み嫌われました」

幼かろうと男を誘惑するかもしれないという偏見、そういう存在としてみてもいいという好奇の眼差し、そして不気味な上位悪魔としての瞳に宿した力。
勝手な噂が流れ偏見が生まれ石を投げられ、彼女は父を愛していても自分は清くありたいと願った。愛する者だけと結ばれていたいと願う彼女はシスターを夢見ても叶わない。

「そしてメイドに憧れました」

規律を重んじて、感情を押し殺すことを重視され、貞淑さがあり、何よりも美しく清いものである。
首から足首近くまで隠された制服は他のメイドたちよりもずっとクラシカルで油断のないものだと感じたがベルゼブブはその理由を理解した、親に愛されたとしても彼女は苦しんだのだと知り、彼はやはり彼女は自分に似た存在であり、そして守りたいと小さく胸の内で思った。

「キミの心はずっと清く美しいよ」
「...ベルゼブブ様」
「キミを傷つける連中は愚かだ」

ベッドに腰掛けて話を聞いていたベルゼブブは向かいに立っている彼女の手を取りベルゼブブは慈しむようにその手に頬を擦り付けて「こんなにも綺麗なのに」と思ったことを呟いた。愛を知りながらも苦しめられ傷ついて泣いた彼女を自分が慰めてやれたならと思うと彼女は「そう言っていただけるだけで幸せでございます」と返事をしたことにベルゼブブは胸が満たされて、その心地よい甘い感覚に溺れてしまいそうになる。
彼女の手がベルゼブブに重ねられて、互いの手の熱を感じる時、それは胸の奥まで温めてくれるようなものであり二人はほんの小さく口角を上げたがしばらく経つと互いの距離感に勢いよく離れては誤魔化すように互いのやることをやろうといって離れたのだった。

「あぁアレは大変だった」
「...というと」

数日後、ベルゼブブが彼女がメイドになった理由を聞いたと報告するとハデスは遠い目をするため、またなにかあったのかと思えばハデスはそれはバーモットがずっと幼い頃に冥界小学校に通い始めた頃、彼女が泥だらけで帰ってきたことに父バフォメットが怒り「娘を傷つける世界などいらん」といって冥界の三分の一を沈めてはハデスが四血槍(デスモス)を使用して三日三晩拳を交わした...という話を聞いたベルゼブブは死んだ目をした。

「あの、バフォメットさんって結構な...」
「そうだ親バカ...いや、あれはバカだ」
「ちなみに彼女に恋人が出来たらどうなるんですか」
「過去に言い寄った連中はバフォメットの”目”(カオス)に狂わされたな」

その言葉にベルゼブブがぞっとするとハデスは「頑張るんだぞ」というためベルゼブブはミルク少々と砂糖二つのコーヒーを飲みながら顔を赤くさせつつ「別にそんなんじゃありません」というが、既に黒から色を変えて砂糖の入ったコーヒーはもとに戻ることはないのだった。