キスがしたくなったなら




近頃スティーブンさんが優しい
元から彼は女性には紳士的で優しいので今更のことかもしれないがここ3週間ほど…そう、二人で飲みに行った日からさらに優しくなった

「智花そろそろランチにでも行かないかい」

「すみません、今日はレオくん達と食べるんで」

「昨日もそうだったじゃないか」

「前からランチは基本彼らとですから、明日なら構いませんよ」

「分かったよ、じゃあ明日は頼む」

少しいじけたような、拗ねた顔をしたあの人は少し前より表情をあからさまに表すようになった
心を閉ざされていたという訳では無いだろうが飲みに行ったあの日何かがありきっと心を開いてくれるようになったのだろう

ん?なぜ"何かがあり"と言ったのかと問われれば記憶が無い
何故なら超がつくほどお酒に弱い、おまけに何をしていたのか記憶も飛ぶしどんな姿だったのかも言われない
昔友達と飲んだことはあるが彼女らも普段と変わらないと言ってくれた為きっとそこまで酒癖は酷くないのだろうと勝手な解釈を自身でしている
そうこう考えていればふと自分の仕事が減っていることに気付いた向かい側のデスクを見れば眉を下げて困ったように笑うスティーブンさんが「ほらランチに遅れちゃうぞ」なんて優しく伝えてくれる
確かに時計は12時を回ってライブラのソファーで暇そうな3人組がお腹がすいてきたと言い始めた頃合いだ

「何か買ってきましょうか」

「いやいいよ、それより明日はサンドイッチでも作ってきてくれないかそれ片手にランチにしたい」

「構いませんよ、じゃあまた後で」

「いってらっしゃい」

ヒラヒラと横に振られる皮の厚そうな手のひらをみたあと3人に声をかけて外に出る
出た直後悲鳴と共に今日も人がなにかが宙を飛んでいた、この街は今日も愉快らしい。

「はぁ…残業ですね」

「先に帰ってていいのに」

「いえ毎日スティーブンさんだけに仕事させるわけに行きませんから」

「智花のそういう所も好きだよ」

「ありがとうございます」

彼はこうして能力をよく褒めてくれる、ハニートラップを仕掛けて情報収集がお手の物だとザップから聞かされているものの納得だ
キーボードを打ちつつ少しだけ目線を向ける、どの角度から見ても綺麗な彫刻のようなその顔に身惚れない女性はいない
現にライブラに所属する女性の中にはこの人に感情を揺さぶられる人は少なくないだろう

「キスでもしたくなったかい」

「キッ?えっあ、なんでですか」

「熱心に僕を見てるから」

されたいのかと思った
なんてくすくす笑うスティーブンさんにやっぱりこの人は私をからかうのが好きだし、こういう冗談も言えるからこそ女性に愛されやすいのだろうと察した
外が暗くなってもライブラの中は特に変わらない、たまにコーヒーを入れて軽く話をしつつも互いの手は止まらない
この街に来て忙しさは特別になった、事件や事故この街以外だと大事件になりそうなものがこの霧の街になれば日常に変わる、本部への報告書や被害報告に申請書の多さに溜息をつきつつ一段落した段階で漸く大きなため息をこぼした

「今日はこの辺にしよう」

「そうですね、遅くなりすぎました」

「家まで送ろう」

「遅いのにそんなの申し訳ないです」

「じゃあ僕の家に来るかい」

「そう言うのはちゃんとした時に言った方がいいですよ」

「手厳しいな」

この人は分かっていない、その言動一つでどこまで私がときめいて浮かれて馬鹿になるのか
ふとライブラを出て駅に行くまでの道のり少し寒いと言いながらスティーブンさんは手を繋いだ、離す前に何かを言わせても貰えず駅に着くまでただひたすら静かに繋いだ
この鼓動が聞こえないようにと祈って、できる限りマフラーで真っ赤な顔を隠すようにして

「明日のランチ楽しみにしてるから、じゃあお疲れ様」

最寄り駅で降りた際に彼はそういったこんな時間にスーパーなんて開いていただろうか等と思いつつゆっくりと帰路につき
家のドアを開けて荷物もそのまま真っ先にベッドに倒れ込む

「あぁ…スティーブンさん、好き」

こんなこときっと彼に言えない
あの人にとっての自分がかわいい部下であるために勘違いなど起こさない賢い部下であるためにと言い聞かせては手の温もりを思い出す、少しかさついて荒れた彼の手が心地よかったと思って目を閉じる

「さてとランチにしよう」

「何か買ってきましょうか」

「昨日頼んだものは」

「本気で食べる気ですか?」

「そりゃあ勿論僕のお腹はペコペコだからな」

少年のように無邪気に笑って少しだけ可愛いだなんて思えた、仕方なく持ってきていた2人分のランチボックスを片手に外に出る
近くでコーヒーを二人分購入して公園のベンチに腰かける
いつもよりキラキラとした瞳が小さなそのサンドイッチに向けられる、それが無性に気恥ずかしくなりぶっきらぼうにどうぞと声をかけた

「うん、凄く美味しい」

「よかった、というかスティーブンさんが手作りを所望するなんて想わなくて結構悩んだんですよ」

「へぇ僕の為に悩んでくれるなんて光栄だ」

「そりゃあ他人の作ったご飯ってあまり食べなさそうですし私も得意って程じゃないですから」

「恋人の作ったランチなら別だよ、毒があっても食べるだろう」

「えぇそりゃあこいび…え?恋人って誰が」

「僕と君だよ」

ふと流しそうになった言葉に思わず目を丸くして隣を見れば自分以上に驚いた顔のスティーブンさんがいた
理解が追いつかない中で必死に探し求めても記憶の中に答えはない、なにかお互い恋人になるような場面があったのかはたまた冗談なのか、冗談にしては珍しい類のことを言うなと笑い事にすまそうとした
がしかしスティーブンは少し怒ったような眉間にシワが寄せられていた

「なぁ智花、3週間前2人でデートをした日のこと覚えてるかな」

「えっえぇ、美味しいと勧めてもらったイタリアンのディナーですよね」

「そのあとは」

「その後??えっえー、何かありましたっけ」

智花は残念ながら嘘はそこまで得意ではない、必死に考える表情を見れば冗談ではないことをスティーブンはそこで察した

3週間前の土曜日、スティーブンは智花を最近話題のイタリアンレストランに誘ったもちろん予約を取ることは難しくそれなりに努力をした、もし断られたらという悪い気持ちはこの際少し考えないことにして伝えれば彼女は二つ返事で即答した
普段と違う少しいいスーツにヘアセットをしっかりと頭の先から爪の先まで完璧な紳士が出来上がれば彼は鏡の前で(年甲斐もなくはしゃいでるな)とふと冷静になった

「今日も素敵ですねスティーブンさん」

そういって隣を歩く年下の部下であるカノジョがこの世界の中で最も美しく煌びやかで愛らしくて堪らないと彼は思った
いつから思っていたか等詳細は省く
少し慣れなさそうなヒールとドレスに身を包んだ姿に今日こそ決めてやるというスティーブンの心など智花は知る由もない

「このワインすごく美味しいです」

「口にあってよかった、あんまり酔いそうならやめておくんだぞ」

「えぇ大丈夫です」

そしてこの時のスティーブンは反対に知らなかった、智花は食前酒を出されそれを1口飲んだ時から記憶が無いことを
そしてもちろんこの後2本のワインを2人で開けてほろ酔い(とスティーブンは思っていた)状態で彼は口に出した

「智花…僕は君のことを一人の女性としてみている、よかったら僕と付き合ってくれ」

「はい、勿論」

お酒に酔った瞳で真っ直ぐと返事をする智花にスティーブンは大いに喜んだ、今宵の戦いは大勝利だと
ただ彼はその日珍しく浮かれて紳士になりすぎた、証拠となるような甘い夜をそれ以上残すことはなく2人は別々の家で別々のベッドに横になり週末を過ごし特に変わらない多忙な3週間を過ごしてきたのだ

「はぁ、まさか覚えてないとは」

「申し訳ないです」

「…いやいいんだ僕が浮かれすぎた」

あまりにもガックリと項垂れるスティーブンに智花はどう声をかけていいのかもわからなくなった
最後の一口となったサンドイッチを口に放り投げて彼はベンチから立ち上がる

「あまり気にしないでくれていいから、じゃあお昼ご馳走様」

「…ま、待ってください私別にスティーブンさんのこと振ったわけじゃないです」

そのまま背中を向けて歩き出したスティーブンの腕を掴み智花は熱くなる顔の熱をどうにか下げたいと思いながらも頭を回した
突然立ち上がったことにより膝に置いていたランチボックスは落ちてしまい無惨にもサンドイッチは地面に転がった

「じゃあ僕と恋人になってくれるかい」

「勿論です、私と付き合ってください」

「あぁもちろん」

あまりにも彼は悲しい顔をしたものだから慌ててしまう、その癖こちらの気持ちを伝えれば次は花のようにパッと微笑んだ
特に日々は変わらない、レオナルド達とランチに行って激務に追われて

そして2人で夜遅く手を繋いで家に帰る
あの日と違い同じ目的地に向かって電車に揺られ厚い皮をしたスティーブンの荒れた手を握って、マフラーに顔を少し埋めて横目に見つめる

「キスでもしたくなったかい」

なんて冗談をいって笑う彼が思ったよりも子供くさくて愛おしさが増した事を智花は内緒にして返事をする

「家に帰ったら」と

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